⑶一握りの才能
「お前、やっぱり音痴だな」
苦渋を前面に押し出して、葵が言った。
霖雨は肩に食い込むベルトを掛け直し、マイクの前に立つ和輝を呆然と見ていた。
即席のバンド結成から五日。
来月のライブに向けて毎日練習に打ち込んでいる。霖雨は一銭の得にもならないライブの為に、アルバイトの日程を大幅に変更しなければならなかった。
如何にか練習に参加しているが、全員が揃うことは難しい。葵と霖雨、グレンは兎も角として、元凶である筈の和輝が参加出来ない。
アルバイト先である大学病院で、馬車馬の如く働かされているのだ。自分のこともままならないのに、他人の世話が出来る筈も無い。
それでも僅かな時間を見付けては集まって、一つの目標に向かっている。ーーだが、早速、行き詰まっていた。
話は冒頭に戻る。和輝が、音痴だ。
まだ五日目だと思うけれど、自宅にドラムセットを持ち込めない葵が様になっているというのに、ボーカルが度々音を外すのだ。疲労感がどっと背中に圧し掛かる。
和輝が音を外すとグレンが大声で指摘して、演奏は中断される。始めは、溜息を呑み込まなければと思っていたのだが、今ではもう隠す気も無くなってしまった。
多分、グレンは和輝を自分よりも年下のガキだと思っている。嘗めているのが傍目にも解る。
胸の中に嫌な淀が溜まって行く気がして、霖雨は何度目かも解らない溜息を吐き出した。
指摘を受けた和輝が楽譜を確認する。相変わらず、音符は読めないらしい。
グレンの舌打ちには聞こえない振りをして、霖雨は自分の練習をする。和輝は逃げるように葵の側に寄って、音を確認していた。
和輝は同じところで何度も躓く。同じところで曲は中断される。グレンが舌打ちして、葵が溜息を吐く。
スタジオの空気は重く圧し掛かり、呼吸すら躊躇われる程に張り詰めていた。
一度、和輝を抜いて演奏したい。
素人の域を出ないだろうが、これまでのように中断されることは無いだろう。
霖雨は被りを振って、その思考を追い遣った。和輝を外したら、代役を立てなければならない。霖雨も葵も御免だった。グレンとてギターボーカルという選択肢は端から無いようだ。
「脳味噌を取り替えた方が早い」
葵が無表情に言った。
こんなことを言われたら、霖雨ならば相当落ち込むと思う。和輝は困ったように眉を下げて、負い目の為なのか何も言い返さなかった。
音痴か如何かなんて、自分では解らない。
母国にいた頃は野球漬けで、留学してからは苦学生の和輝が、自分の歌を披露する機会なんて無かっただろう。
葵やグレンの心無い叱責に言い訳の一つもしない和輝がいじらしく思えて、霖雨はつい庇いたくなる。それを寸でのところで呑み込んでいるのは、他ならぬ彼等が真剣だからだ。
時刻が零時を回ったところで、スタジオの利用時間が終わったので、練習もお開きとなった。
今にも消えそうな街灯の下、和輝は必死に楽譜を見ている。
やろうとしても出来ない人間に対して、どんな言葉を掛けたら良いのだろう。
霖雨は黙って、慰めるようにその肩を叩いた。
次の練習日程を決めるグレンを葵が冷ややかに見ている。不満はあるが口にしていないだけだと言っているような顔だった。
英単語の暗記でもするみたいに、和輝が歌詞カードを見ながら読み上げる。溢れ出るのは訳の解らない造語や安っぽいスラングばかりなので、悪影響だと思った。
彼は学生で、その本分は学業だ。人の命を救う仕事を目指す彼が、如何してこんな下らないことに時間を消費しなければならないのだろう。
そういえば、と思って霖雨は和輝に問い掛けた。
「お前、現場実習があるって言っていただろう。何時なの?」
「明日の昼に飛行機で欧州に行く」
「はあ?」
如何して、もっと早く言わないのだろう。
霖雨は額を押さえ、そのまま蹲ってしまいたかった。
和輝の短所は、音痴ではなく、計画性の無さだ。如何して、当たり前のことが出来ないのだろう。
聞けば、一ヶ月程、留守にすると言う。
霖雨は旋毛が見下ろせる程の彼の頭を叩いてやりたくなる。
何でもかんでも連絡しろとは言わないが、最低限の連絡はして欲しい。
その声が聞こえていたらしく、グレンと葵が揃って此方を見ていた。
葵は溜息を零している。呆れているのだ。
正確な日付が決まっていた訳ではないが、一応、現場実習があることは聞いていたので、連絡や相談の不得手な和輝にしては努力したのだろう。
ライブ当日には間に合うのだろう。ーーその練習に参加出来ないだけで。
最も練習を必要としている筈の和輝が参加しないというのは、何というか腹の据わりが悪い。
葵やグレンが何を言うのか解らないが、霖雨は擁護の言い訳を考えなければならなかった。
その時だった。
「もう、お前なんて辞めちまえ」
吐き捨てるように、グレンが言った。
和輝は何も言わなかった。葵が怪訝に眉を寄せ、嫌悪を滲ませる。
「いない方が良い」
駄目押しをしたグレンは、此方を一瞥もしない。霖雨は、胸の中に正体不明の何か嫌なものが頭を擡げるような気がした。
葵が口を開くのが、コマ送りに見えた。
其処から耳を塞ぎたくなるような猛烈な罵倒が飛び出すより早く、霖雨は唸るようにして言い返していた。
「お前が消えろ」
途端、葵は信じられないものを見るみたいに目を丸めた。
それでも、霖雨の怒りは収まらなかった。
「何で、お前なんかにそんなことを言われなければならないんだ? お前にこいつの何が解るんだ?」
これまで溜息と共に呑み込んで来た筈の不平不満は、きっかけを見付けて一気に溢れてしまった。
こんなことを言うつもりは、無かったのに。
「何か勘違いしているみたいだから、言わせてもらう。お前のバンドが解散したのは、和輝のせいではないよ。和輝はきっかけを作ってしまっただけで、原因はお前だ」
例え、偶々演奏を聴いただけの和輝が酷い言葉を投げ掛けたとしても、責任を取らされるのは筋違いだ。否定も肯定も予測して、演奏することを決めた筈だろう。
それとも、彼等は否定されると思ってすらいなかったのか?
世間知らずの若者の失敗はよくあることだ。だが、如何してその責任を他人の自分達が負わなければならないのだろう?
「お前に意思があるように、相手にも意思がある。思ったことを何でも口にして良い訳じゃない。俺や葵が言うなら、まだ良い。だが、お前は違う。他人だ。それが解らないのなら、幾らメンバーを補充したって同じことの繰り返しだ」
グレンが、勢い任せに声を上げる。
うるせえ、ふざけんな。お前に何が解る。
霖雨はその全てを無視して、和輝の腕を引っ掴んだ。
「帰るぞ」
内心、葵に謝罪しつつ、霖雨は和輝を連れて駐輪場へ向かった。
葵は白旗を振るみたいに、ひらひらと手を振っていた。
奇跡の真価
⑶可能性
葵が携帯電話を取り出すと、霖雨からの無意味な謝罪メールが届いていた。
何を謝っているのだろう。
バイクの乗車制限で、自分を置いて行ったことか?
それとも、意気消沈した若者と二人きりにしたことか?
どちらにしても、謝罪等必要無い。
あの時、霖雨が言わなければ、葵が言っていた。むしろ、グレンは自分ではなく御人好しの霖雨から叱責されたことに感謝するべきだ。
さて、と。
葵は覚悟を決めるようにして、姿勢を正した。
取り残されたグレンが途方に暮れたように、座り込んでいた。意気消沈していることは目に見えて解るのに、瞳に映る刃のような鋭い光は微塵も消えていない。
無謀は若さの特権だ。
追い打ちを掛けるようで、申し訳無いが。
「お前は和輝のことをガキだと思っているみたいだが、あいつはお前より年上だ。しかも、夢を叶える為に単身留学した医療業界の若手の星だぞ」
夢の為と言って仲間割れしたり、心無い言葉で相手を傷付けたり、他人に罪をなすりつけたりしない。計画性は無いが、覚悟を持って道を選んでいる。
グレンよりも立派な大人だ。
掠れるような声で、グレンが言った。
「俺達の音楽は、凡人には解らないんだ」
「世の中の圧倒的多数は凡人だ。売り上げがものを言う世界で、一握りの理解者の為に歌い続けて、何が残る? 画家のゴッホ(Vincent Willem van Gogh)だって、正式に評価されたのは、彼の死後だ」
グレンは何も言わなかった。
何も、言えなかったのかも知れない。葵は構わずに続けた。
「医師免許を取得するには六年間、医大で学ばなければならない。だが、あいつは放り込まれた大学病院で馬車馬のように働かされながら、六年間掛かるところを四年で卒業する。ーー天才っていうのは、ああいう奴のことだ」
どんなものにも適性や才能はある。
世の中の凡人は、才能+努力だと思い込んでいるが、現実は違う。才能×努力なのだ。ゼロに何を掛けたってゼロにしかならない。
「お前はそこそこ技術がある。成熟すれば、それなりの評価も得るだろう。それなのに、バンドに拘る理由は何だ?」
葵はただ、知りたかった。
この男は、バンド活動に拘り、一ヶ月後という急なスケジュールに他人を巻き込んで、それでも何をしたかったのだろう。
グレンは俯いたまま、言った。
「あのコインを投げ渡された日、俺達は落ち込んだ。演奏を聴いていた和輝は目を輝かせて拍手をしてくれた。それなのに、渡されたのはたった一枚のペニーだ」
確かに、酷い裏切り行為だ。
だが、その行為にも事情があって、彼等の活動の後押しをしたいという善意によるものだ。
「仲間は落ち込んで、俺は腹が立った。コインを渡した和輝にも、一々落ち込む仲間にも」
「それで、喧嘩にでもなったのか?」
葵が問うと、グレンは黙った。如何やら、図星らしい。
「対立して、お前にはついて行けないとでも言われたか。だったら、始めからそう言えよ。困っているから助けて下さいと、頭を下げろ」
頼み方ってものがあるだろう。無関係の他人を巻き込んで、当たり散らして、存在意義すら否定して、結局、空中分解だ。こいつは馬鹿なのだろうか。如何して、失敗を活かそうとしないのだ。
和輝も霖雨も葵も、それなりに真面目に打ち込んでいた。グレンの八つ当たりが無ければ、今程に最悪の事態にはならなかった筈だ。
「あいつ等を、見返してやりたかった」
それが、グレンの本音なのだろう。
薄っぺらいな、と思った。
彼には何の覚悟も無い。若さ故の勢いに任せて他人を巻き込み、その信念を貫くだけの強さも無い。
如何して、こんな馬鹿な若者の為に自分の時間が費やされなければならないのだろうか。
葵は何と返したら良いのか解らなかった。罵倒や叱責の言葉はあっても、慰めや励ましの言葉等、一つも知らなかった。
結局、葵は何も話さず、グレンを置いて帰った。頭に血が上った霖雨や落ち込んでいるだろう和輝の様子が気に掛かった。
帰宅した時には、深夜二時を過ぎていた。
草木も眠る丑満時だ。和輝は既に就寝しているらしく、リビングには頭を抱えた霖雨だけが残っていた。
テレビも点けず、ソファに座って項垂れる様は酷く虚しい。さっさと寝てしまえば良いのに、と思った。どうせ、現時点の彼に出来ることは何も無い。
葵の帰宅に気付いた霖雨が、情けない顔で言った。
「さっきは、ごめん」
「別に」
本当に如何でも良かったので、葵は適当に答えてキッチンへ入った。
空腹を感じて冷蔵庫を覗くと、一人分の焼き鮭と小茄子の漬物がラップに包まれていた。葵は皿を取り出して、電子レンジへ放り込んだ。
炊飯器には一人分の米飯が器用に残されている。手鍋には芋とワカメの味噌汁。随分と健康志向のメニューだ。
電子レンジの稼働が終わるまで、退屈になるので換気扇の下へ移動する。
尻ポケットに押し込んでいたくしゃくしゃの煙草を取り出して、葵は火を点けた。
家電の稼働する重低音の中で、霖雨の声が聞こえた。
「あんなこと、言うつもりは無かったんだ」
だが、一度口にしたことは取り消せないだろう。今更、言い訳をされたって迷惑だ。
葵は煙を吐き出した。
「自己満足の懺悔は、地蔵にでもすると良い」
「そうだな」
でも、まあ、葵も概ね同感だった。
霖雨の言ったことは間違っていないし、彼が言わなければ葵が言っていた。
暴走した若者の戯言に苛付いたのは、葵も同じなのだ。だが、其処で衝動的に叱責した霖雨の行いは褒められたものではない。チームワークを必要とするなら、相手を否定するような物言いは避けるべきなのだろう。
だから、葵はこれまで何も言わなかった。
足を引っ張る和輝の間違いを指摘しても、グレンの幼稚な言葉には苦言を呈さなかった。それは、グレンが他人だからだ。
「共感は出来ないが、理解はする。俺だって聞いていて、面白いとは思わなかったからな」
煙草を咥え、ゆっくりと吐き出す。
背後で電子レンジが鳴ったので、皿を取り出して茶碗を入れた。同時進行で味噌汁を温める。
昼には、和輝が欧州へ旅立つらしい。
当面は自炊することになるだろう。家政婦のように、家事の一切を取り仕切る和輝がいないと、不便だ。
突沸を防ぐ為に味噌汁を掻き混ぜる。
柔らかな湯気の向こうで、霖雨が此方を見ていた。
「お前でも、人を慰めるんだな」
「慰めたつもりは無い」
「そうか」
でも、ありがとう。
先程に比べて冷静に戻ったらしい霖雨が、嬉しそうに笑った。葵は首を傾げていた。
自室へ消える霖雨を無視し、葵はこの先のことを考えなければならなかった。
グレンなど放って置いても構わない。彼がこの先で野垂れ死にしようが、メジャーデビューしようが興味も無かった。
だが、一つ疑問に思うのは、和輝のことだった。
あれだけ精密機械みたいに身体能力に優れていて、野生動物みたいに感覚機能すら鋭敏な人間が、特定の音ばかり外すなんてことがあるのだろうか。
本当に同じところばかり、音を外していた。彼は座学でも引っ掛け問題に必ず引っ掛かるので、思考が柔軟でないのかも知れない。それにしても、奇妙だ。
暗号の答えを導き出すように、葵の脳内では五日間の記憶が交錯した。
音を外しているというよりも、言葉を理解していないみたいだった。だから、頭を取り替えた方が早いと思った。
彼は語学に疎い。安っぽい造語や醜いスラングを覚えられないのだ。児童の精神衛生の為にフィルターの掛けられた携帯電話に似ている。
あのフィルターを解除しなければならない。
馬鹿な若者が痛い目に遭うのは構わないが、純粋培養されたヒーローに例外を認めさせる方法を探すと思えば、幾らか興味深い。
もしかして。
或る可能性に行き着いた瞬間、電子レンジが鳴った。意識が現実に戻った時、鍋の中ではぼこぼこと味噌汁が沸騰していた。
試してみても良い。問題は、現場実習で芋洗いの如く扱かれるだろうヒーローの精神面だけだ。
葵は溜息を零して、漸くコンロの火を止めた。割れた気泡が消え、凪いで行く水面に可能性の片鱗を見た気がした。