⑵市場価値
青年は、Glrennーーグレンと名乗った。
あの辛気臭い顔は何処へ行ったのか、凡そ二人分の朝食を平らげたグレンは、猫のように警戒を滲ませて此方を睨んでいる。空腹が満たされた為なのか、先程に比べて落ち着いているように見える。
感情的なその様が、若いな、と思う。
これは和輝の持論だが、余裕の無さを隠すには、笑顔が一番だ。無抵抗の人間への攻撃を躊躇するように、笑顔の人間を攻撃することは出来ないからだ。
分厚い笑顔の仮面を貼り付けて、和輝はテーブルに肘を突いた。
建設的な話し合いに感情論は必要無い。和輝が話を切り出そうとした時、横から葵が遮るようにして言った。
「お前、ギターを弾くのか」
グレンの隣には黒いギターケースが横たえられている。沈黙を守るその様は、まるで棺桶だ。
苦々しく顔を歪めて、グレンが答えた。
「そうだ。バンドだって組んでいた。解散したけどな」
「方向性の違いって奴か?」
「違う!」
グレンの拳がテーブルを叩いた。空になっていた皿が跳ね、和輝は慌てて片付けを始める。
皿を重ねてキッチンへ運び、水へ漬けて置く。茶碗に着いた米は乾くと洗う時に面倒だ。
再びリビングへ戻ると、二人は話を進めずに行儀良く待っていた。何だか間の抜けた会話になってしまい、和輝は肩を竦めて席へ戻った。
場を取り直すように小さく咳払いをして、グレンが言った。
「こいつのせいで、解散したんだ!」
人差し指が突き付けられ、和輝はどんな顔をすればいいのか解らなくなってしまった。
先程からグレンは、自分のせいで夢が絶たれたと言う。果たして、自分は一体、何をしてしまったのだろう。
「お前が、あの日、コインを投げ入れたせいで!」
「コイン?」
葵が尋ねると、グレンは頷いた。
仲裁役の葵というのも、何となく新鮮だ。
「路上ライブをしていた時に、コインを投げ入れただろう!」
「何か悪かった?」
路上ライブにはローカルなルールがあるのだろうか。少なくとも、和輝は知らなかった。
葵もまた、訝しげに眉を顰めていた。
「路上ライブで、お捻り貰って、観客を責めるパフォーマーがいるか? 文句があるなら、バンドなんて辞めちまえ」
葵が鋭く吐き捨てた。
和輝はフォローに回りたかったが、問題を起こした自覚があったので、黙っていた。
グレンは怒りに指先を震わせながら、押し殺したような低い声で言った。
「こいつが何を投げ入れたと思う?」
「何だ」
「ペニーだぞ!」
途端、葵は苦虫を噛み潰したような顔になった。
ペニー(Penny)ーー1セントだったか。
和輝の胸の中には、じわじわと後悔の念が染み出した。あの時、偶々財布を忘れて、ポケットに入っていたのが1セントだったのだ。其処に深い意味なんて無かった。
「お前は俺達を侮辱した! 俺の仲間はお前のせいで傷付いて、バンドを辞めた!」
1ドルが百円としたら、1セントは一円だ。
これでは、まるで彼等の演奏には一円の価値しかないと言っているようなものだ。
こんなことなら、始めから拍手だけに留めて置くべきだった。
罪悪感に押し潰されそうになりながら、和輝は覚悟を決めた。そして、静かに頭を下げた。
「悪かった」
グレンが、息を呑んだ。
僅かな沈黙を挟み、和輝は喘ぐように訴える。
「君達の音楽を否定するつもりなんて、無かったんだ」
「じゃあ、何で!」
「君達の音楽が素晴らしいと思った。だから、賞賛したかった。でも、俺は語彙が貧困だから、どんな言葉で感動を表現したら良いのか解らなかったんだ。偶々、財布を忘れてしまっていて、ポケットにそれしか入っていなかった」
自分の過失だ。和輝はテーブルの下で拳を握った。
誰にも見られないことも、評価されないことも承知で、自己表現の為に命を削るようにして演奏している彼等に、自分が投げ渡したのは米国貨幣の中で最も安いコインだった。
わざとじゃなかった。ーーでも、失礼なことをした。
Goodでも、Niceでも、Greatでも、言葉で訴えるべきだった。例え、言葉が使い方を誤れば刃の如く相手を傷付けるとしても、安いコインなんか投げなければ良かった。笑顔で拍手を送り、立ち去れば良かった。
和輝は高校野球をしていた。観客の溜息が、どれ程選手のモチベーションを下げるのか、知っている筈だった。
「俺のせいだ」
リビングは居た堪れない程の静寂に包まれ、唾を飲み下すことすら憚られる。
グレンは、再びテーブルに拳を叩き付けた。
「お前が頭を下げたって、俺の怒りは収まらない! クソガキがふざけるな!」
口汚ないスラングが次々と飛び出して来て、和輝は耳鳴りを抑えるようにして瞼を固く閉じた。
グレンの怒りは当然だろう。取り返しの付かないことをしてしまった。
謝罪が無意味ならば、自分は彼に何をすれば良いのだろうか。和輝には解らない。
その時だった。
「好い加減にしろ」
ぴしゃりと、水を打つように葵が言った。
「確かに、こいつの行為は浅慮だった。非もあるだろう。だが、お前の言う夢とやらも、こいつの短絡的な行為一つで終わる程度のものだったんだろ」
まさか、葵が庇ってくれるとは思わなかった。
和輝はそろそろと顔を上げ、透明人間の横顔を盗み見た。
彫刻のように美しく洗練された横顔だ。血の気の無い白い面は作り物めいている。刃の切っ先のように切れ長な双眸が、夢を失った青年を睨んでいた。
「他人の評価一つで揺らぐ程度の思いを、夢とは言わない」
きっと、葵の言う事に他意は無い。けれど、その言葉は和輝の中を春一番の如く吹き抜けた。
この言葉はグレンへ向けられたものだ。
解っている。
それでも、和輝は、嬉しかった。
認められなくても良い。否定されても構わない。自分が自分である為に、未来へ希望を懸けて夢を描くのだ。自分はそれで良かった。誰の評価も求めてはいなかった。ーーけれど、誰かがそれで良いよと言ってくれる。
こんなに嬉しいことが、他にあるだろうか?
口元をむずむずさせていると、葵が冷ややかな視線を向けた。
「丸腰の相手に手を上げるのは、俺の流儀に反する」
お前を庇ったのではないと、葵が判決を下す裁判官みたいな冷静さで言った。
「謝罪に意味が無いと言うなら、お前はこいつに何をして欲しいんだ? 要求は無いのか? ただの八つ当たりか?」
畳み掛けるようにして、葵が詰問する。
グレンは何かを躊躇うように視線を彷徨わせ、バンドマンとは思えない程のか細い声で言った。
「一ヶ月後のライブに、一緒に出て欲しい」
ライブ?
和輝は聞き返した。
ライブというものに行ったことが無かった。
「一ヶ月後にライブをする予定だったんだ。それなのに、あの腰抜け野郎共は、お前のコインを見て自信を失くしたからって、尻尾を巻いて逃げたんだ」
グレンが悪態吐いて、頭を抱えた。
和輝は、どちらの立場になれば良いのか解らない。グレンと共に臆病者と罵ることも、彼等には彼等の事情があるのだと慰めることも、今の自分の立場では難しい。
ふと隣を見ると、葵は興味を失ったみたいにテレビを見ていた。存在感の希薄さを最大限に利用して、都合の悪いことには関わらないのだ。
偉そうなことを言って置きながら、ずるい奴だ。
このままでは、更に取り返しの付かないことになりそうだったので、和輝は慌てた。
「俺、楽器なんて出来ないよ。リコーダーくらいだ」
弁解するように言うと、グレンは縋るように葵を見た。
葵は一瞥もくれずに答えた。
「素人の演奏なんて、誰も聞きたくないだろう」
「友達いないもんな」
「恩を仇で返すな」
テーブルの下で葵が蹴って来たので、和輝は応戦した。見えないところで、ちょっとした小競り合いみたいになっていた。
希望を失ったみたいに、グレンの顔が絶望に染まる。それでも食い下がる青年に、和輝は見ていられなくなって、妥協案みたいに言った。
「やるだけやってみる。でも、駄目だったらごめんな?」
小首を傾げる和輝の隣で、興味も無いだろうテレビを見ていた葵が溜息を吐いた。
自分に何が出来るのかなんて解らないけれど、出来ることがあるのなら、やりたいと思う。
奇跡の真価
⑵市場価値
黄色のネオンライトが蛇のように畝り、建物の名前を知らせている。夜の街に沈む建物は鋼鉄の箱のようだ。
霖雨は建物の横に設置された駐輪場にバイクを停め、携帯電話を開く。
葵からメールが届いていた。
タイトルも、本文も無い。
URLだけが添付されただけのそれは、一見するとダイレクトメールみたいだった。
アルバイトが終わるタイミングで送られていた。送信者が神木葵というだけでもう、嫌な予感しかしない。
帰宅後は早々に寝ようと思っていた。だが、唐突に送り付けられたメールに、身体中を包む倦怠感は吹き飛んでしまった。
URLを開くと、町外れの地図が表示された。
訪れたこともないが、葵と和輝の現在地が示されていたので、此処へ来いという指示だろう。
理解不能だが、無視する訳にもいかない。
鉛のように重い体に鞭打って、バイクを飛ばして辿り着いた先は、小さなライブハウスだった。
出入り口から漏れる蛍光灯の白い光に引き寄せられた無数の火取虫が、標本のようにガラスに張り付いている。客足は無い。今日は上演予定が無いのか、ただ単に寂れているだけなのかは解らない。
気乗りはしないが、筆不精の葵が呼び出す時は大抵、重大な問題が発生している。無視したら後で痛い目を見るのは自分であることが多い。
入り口を潜ると、薄暗い中で受付の女の子が中へと促してくれた。ティーンエイジャーのようだが、女の子は化粧をすると年齢不詳になるので解らない。
両開きのホールの扉を開ける。すると、いきなりエレキギターの爆音が霖雨を出迎えた。
闇に染まった室内で、ステージばかりが眩く照らされている。聴覚はアンプで拡張されたエレキギターのメロディに侵された。その背後で、控え目にリズムを刻むドラムの音がする。
思わず天井から下げられたスピーカーを睨む。拍動の如く震動する音の波に呑み込まれてしまいそうだ。
霖雨はステージへ向き直った。ーーその時、強烈に視線が惹き付けられた。物理的に首を固定されてしまったかのように、目が反らせない。
スポットライトの下、マイクを前に小さな青年が立っている。メロディもスポットライトもステージも、彼を引き立てる為のBGMのようだった。
彼が主役だ。このステージは彼の為に存在している。霖雨は、そう思った。
小さなその口が開かれる。其処から紡ぎ出される声は言語としてではなく、電気信号のように霖雨の脳へ届いた。
誰か、助けてーー。
ぶつん。
アンプの電源が乱暴に叩き切られ、エレキギターの青年が声を上げた。
「違う!」
怒鳴り付けられた青年ーー和輝は、びくりと肩を跳ねさせた。
エレキギターを置いた青年は、足音を立てて和輝の元へ行くと、眦を釣り上げて怒鳴った。
「音が違う! メロディを良く聞け!」
初見の霖雨には解らないが、何か差異があったのだろう。
ふとドラムへ目を向けると、何故か其処には葵が座っていた。
「遅かったな」
うんざりした顔で、葵が言った。
霖雨は端の階段からステージへ上がった。目が眩むようなスポットライトだが、其処から見渡す客席には誰もいない。がらんとした空間がやけに虚しく見えた。
「如何いう状況なんだ」
「売れないロックバンドが、和輝の浅はかな行動の結果、解散した。その尻拭いをしている」
ちょっとよく解らない。
霖雨は頭が痛くなった。
その問題を起こした張本人は、見知らぬバンドマンに怒鳴られている。
やろうとしているけれど、如何しても出来ない。
そんな彼の助けを求める声が聞こえて来るようで遣る瀬無い。
「責任を取って、一ヶ月後のライブに一緒に出て欲しいと言われたんだ」
「葵、ドラムなんて出来たの?」
「今さっき覚えたばかりだ」
何だ、こりゃ。
頭を抱えたくなったが、放って置く訳にも行かず、霖雨は叱られている和輝へ声を掛けた。
すると、和輝は光明が差したと言わんばかりに目を輝かせるので、まあいいかという気持ちになってしまう。
「今度は何をしたんだよ」
霖雨が問うと、和輝はしゅんと項垂れて答えた。
以前、路上で演奏しているバンドを見た。彼等の演奏に感動したので拍手を送ったが、自分は語彙が貧困なので、どのように表現したら良いのか解らなかった。
だから、代わりにポケットに入っていたコインを投げ渡した。それがたったのペニー(Penny)一枚で、その程度の価値しかないのだと受け取ったバンドは空中分解した。
残されたギターの青年ーーグレンというらしいーーは、責任を取って来月のライブに一緒に出て欲しいと言ったのだ。
そして、現在に至る。
聞いてみると、馬鹿馬鹿しい。
それは、果たして和輝が責任を取る必要があるのだろうか。青年に八つ当たりされて、良いように使われているだけではないだろうか。
御人好しの和輝も問題だが、助っ人を頼んで置きながらその相手を怒鳴り付ける方もおかしい。
葵が何も言わないのが意外だ。
凡その概要は把握した。
霖雨は、歌声に悲鳴を乗せてたどたどしく歌詞を紡ぐ和輝を見る。
懸命にマイクへ向かっている。だが、口にする端から強烈に駄目出しされていたので、流石に同情してしまう。
「言い過ぎだ」
グレンは、霖雨を振り返って睨み付けた。するどい眼差しは刃のようであり、張り詰めた糸みたいでもあった。
「こいつが音痴なのが、悪い!」
「こいつの音痴は他人に迷惑を掛けない」
音痴ということは否定しなかった。霖雨は和輝の歌を聞いたことが無かったからだ。
和輝が本当に音痴であったとしても、アーティストでもない素人に、専門的な歌唱力を求めるのは間違っていると思う。バンド解散のきっかけを作ったのは和輝かも知れない。だが、他人の評価一つで解散してしまうのなら、初めからその程度だったということだ。
「もう辞めれば?」
ドラムのスティックを弄びながら、葵が言った。抑揚の無い無慈悲な声だった。
しかし、グレンは弾かれたように言い返す。
「夢を失くして生きて行けるか!」
「夢だけじゃ腹は膨れない。野垂れ死にが本望か? 無理心中に他人を巻き込むんじゃない」
「命よりも大切なものがある!」
「命あっての物種だろう」
霖雨は、葵の言葉に同感だ。グレンの言っていることも解るが、好い加減、将来を見据えて堅実に生きた方が良い。
こういう時こそ、夢に生きる和輝が反応しそうだが、生憎、歌詞を暗記するのに手一杯だった。
天才の集中力は発揮されないらしい。
彼は語学が不得手だ。特に、スラング塗れの抽象的な歌詞なんて無理だろう。
和輝の持っていた楽譜を覗く。
難しい曲ではないようだが、楽譜の読めない人間には理解不能だろう。歌詞は難解な割には薄っぺらいし、これを耳で覚えて歌えというのは、余りにも酷だ。
それでも、何故か責任を負わされた和輝が真剣に取り組むものだから、霖雨は放って置けなくなってしまう。
側に置かれた所有主不在のベースギターを取り上げる。理解不能のまま、霖雨はベルトを肩に掛けた。
「ギターの音は無視しろ。歌詞の意味も理解しなくていい。お前はリズムに乗せて、歌うだけでいい」
霖雨は弦に指を掛けた。
一般的なアップテンポの曲だ。和輝は頭で理解するよりも、感覚で覚えた方が良いと思う。
簡単に弾いてみせると、三人が目を丸くして見ていた。
「霖雨、ベース弾けるの?」
「ちょっとなら」
霖雨が答えると、表情を明るくしたグレンと和輝の向こうで、葵が顔を顰めていた。
ああ、しまった。
其処で指を止め、霖雨は葵の表情の意味を理解した。
メンバーが、揃ってしまった。