⑴尖鋭
If you can dream it, you can do it.
(夢見ることが出来れば、それは実現出来る)
Walt Disney
夜の帳の下りた界隈はアンダーグラウンドな空気が滲み出て、彷徨う浮浪者と売春婦、それから行き場を失くしたティーンエイジャーの街と化していた。
和輝は携帯電話を取り出して、時刻を確認する。午後七時半。夜はまだこれからだ。一人暮らしをしていた頃は、職場が多忙過ぎて終電で帰宅し、始発で出勤ということもざらだった。間違っても、こんな時刻に出歩くなんてことは有り得なかった。
和輝は夢の為に単身留学を決めた。
挫けそうな時は何度も自分に言い聞かせた。此処はまだ道の途中だ。諦めるものか、と。
血を吐く思いで勤務していた大学病院だったが、医師が刑事事件を起こし、立て続けに汚職が摘発されて、事実上、あっさりと解雇されてしまった。
それからはアルバイトをしながら欧州の医大に通っている。単位修得の為に毎日課題に追われているが、やりたいことをやっている自覚があったので不満はない。
偶に試験で赤点を取って追試になるが、同居人が面倒を見てくれる。厳しい家庭教師だが、何より助かっているのは自分だった。
今日は、もう一人の同居人と待ち合わせをしている。夕食の買い出しに米や水も買わなければならないので、人手が必要だった。
葵が進んで荷物持ちをする筈も無い。
もうすぐ、バイクに乗った霖雨が来てくれる。
その時、何処からか微かなギターの弦を弾く音がした。それは確かにリズムを刻み、メロディを紡いでいる。
荒廃的な街の空気に溶け込むエイトビートに、耳を澄ませ、和輝は導かれるようにして音の元へと向かっていた。
下されたシャッターにはカラフルな骸骨のペイントが施され、最早開閉される様子も無い。その手前で、四人の青年がひっそりと息を殺すようにして演奏をしていた。
和輝は知識が無いので、よく解らない。
だが、所謂4ピースバンドのようだ。昆虫のように厳めしいドラム、磨き込まれ光沢を放つギターとベース、そして、マイクを持ったボーカルがいる。正直、和輝にはギターとベースの違いすら解らなかった。
ドラムがリズムを刻み、絃楽器のメロディが重ねられる。
ただ一人の観客も無く始まった演奏に、和輝は驚いた。
荒削りな音と尖った歌詞。命を振り絞る彼等は、まるで一夏に生きる蝉のように力強かった。
母国で見た突き抜けるような夏空や、木漏れ日の眩しさ、芝生の青さが頭の中に鮮明に流れ込んで来て、強烈な郷愁の念に駆られた。
降り注ぐ蟬時雨、入道雲、日光を反射する白球。此処がまるで、自分の夢の跡地であるかなような気さえした。
誰の理解が得られなくとも、ただ自分が此処にいることを訴える為に、全身全霊を懸けて表現している。
見事だと、思った。
クラシックのオーケストラのような調和は無い。彼等は己の信念を持ち、互いに歩み寄りはしない。全力でぶつかり合うことに価値を見出し、正しく切磋琢磨する青春の美しさに目が眩んだ。
呑み込まれるとは、このことだ。
大口を上げる鯨に、海水諸共呑み込まれるようだ。
数多のロックバンドの中で、日の目を見るのはほんの一握りなのだろう。どんな世界も才能がものを言う。それでも、触れなば切れんと言うような、刃の危うさを秘めて声を上げる彼等を尊敬した。
演奏が終わった時、和輝は脊髄反射のように拍手を送った。彼等の世界に引き込まれていた。
彼等は観客の存在を知覚していなかったらしく、一様に驚いたように目を丸めてーー照れ臭そうに笑った。
何か賞賛の言葉を掛けようとして、和輝は自分の語彙の貧困さに頭を抱えた。
この感動をどんな言葉で表現出来るのだろう。
その時、後方からクラクションが鳴った。
振り向くと、バイクのヘッドライトに目が眩んだ。ヘルメットを深く被った霖雨が、呆れたように目を細めて此方を見ていた。
和輝は慌てて立ち上がった。
彼等の前にはギターケースが鯵の開きみたいに広げられていた。成る程、賞賛の言葉よりも、現物主義なのだろう。
霖雨に急かされながら、ポケットを探る。買い出しに来た筈なのに、財布が見当たらない。忘れて来たらしかった。
けれど、このまま無言で立ち去る訳にも行かず、和輝はポケットの中に入っていたコインを一枚投入した。
それを覗き込んだ彼等が奇妙な顔をしたけれど、和輝は振り返らず、霖雨の元へと駆けて行った。
奇跡の真価
⑴尖鋭
もうすぐ現場実習がある。
医師免許修得の為には六年制の医大を卒業し、更に現場実習を積まなければならない。人の命を左右する重大な仕事だ。
和輝は現在、欧州の医大に通っているが、単位は兎も角、医師免許取得には臨床経験が足りない。大学病院で働きながら学ぶことを条件に、六年間掛かるところを二年間短縮して貰っているけれど、現実は自分が思うよりも厳しいだろう。
母国に戻って二年間の不足を補うつもりだったが、このまま欧州の医大で真面目に就学する方が遥かに効率が良い。欧州で取得した医師免許が母国で通用するとは限らないからだ。
どの国でも医療業界は閉鎖的で、外国籍の医師を雇う事は殆ど無い。
コネクション無しに考えると、正直、母国での就職は難しいだろう。
そもそも、自分は医者になりたい訳ではない。だから、医師免許が本当に必要なのか疑問にすら思う。
目指したものはスポーツドクターだ。人を助ける仕事がしたいと思った。だが、このままではモグリだ。自分が何をしたいのか、よく解らなくなってしまった。
和輝は五人兄弟の末っ子だ。
今もカウンセラーとして世界で活躍する父親は、高校卒業後、臨床心理学を学ぶ為に大学院まで進学した。そして、学生結婚をして、長男を育てた。末息子である自分の現状を知っても尚、どんと構えていてくれる頼もしく誇らしい立派な父親だ。
兄弟もそれぞれ自立して、一番上の兄は結婚している。年の近い兄はメジャーリーグで活躍しているし、比べて見ると、自分の経歴が如何にぐちゃぐちゃであるのか身に染みる。
皆、地図を見ながら道を選ぶ。その中で自分だけが走りながら道を選んでいる。だから、道に迷うのだ。何時か、同居人にも忠告された。
これが贅沢であることは知っているし、世間知らずであることも自認している。だが、回り道には其処にしか咲かない花もあるだろう。
誰かを羨んで現実を呪うよりは、自分に出来る最善を尽くした方が良いような気もする。
どちらにせよ、現場実習を避けては通れない。実習地は欧州の大学病院で、研修医として凡ゆる分野を学ぶ必要がある。
自転車操業だな、と胸の内に吐き捨てて、和輝はキャリーバッグの中を見渡した。
出立まで後、一週間。再びこの家に帰る頃には、春になっているだろう。
整理してみると必要な物品は少なく、ボストンバッグで十分だったと思い知った。
他に、必要なものは何だろう。
留学する時に持って来た物も少なかった。後はこの身一つあればいい筈だ。
何か、忘れているような気もするけれど、まあ大丈夫だろう。
キャリーバッグのファスナーを上げて、和輝はベッドの横に並べた。
体力には自信がある。担当医に無理難題を吹っ掛けられても、乗り越えてみせる。
決意を新たに自室を出ると、リビングで霖雨と鉢合わせた。
時刻は午前九時半。如何やら霖雨は出掛けるらしい。見覚えのあるショルダーバッグを担いでいたので、学校に行くのだと悟った。
「行ってらっしゃい」
「うん、行って来ます。今夜はバイトだから、遅くなるよ。夕飯は済ませて来るから」
「解った」
今夜は久しぶりに、葵と二人きりの夕飯だ。
カレーで良いかな、と適当なことを考えていた。
家を出る霖雨を見送る為に玄関先まで行って、ついでにポストを覗く。和輝宛てにエアメールが二通届いていた。
一通は母国からの幼馴染の近況報告で、もう一通はメジャーリーグで活躍する兄からの手紙だった。来月の試合のチケットが三枚同封されていたので、葵と霖雨と観戦に来いと言う意味だろう。
現場実習が終わったら、自分への御褒美として観に行こう。二人の都合が合えば良いなと思った。
ポストの前で郷愁の念に駆られていると、寝坊助の街は少しずつ賑わい始めた。通勤途中の会社員や、ゴミ出しに行く主婦、痩せた野良猫が街路を行き交う。互いに干渉はせず、ただただ無言で歩いて行く。
その中に、一人。
この世の終わりみたいな青白い顔をした青年がとぼとぼと歩いていた。
ボロボロのライダースジャケットに、ダメージジーンズ、金色の短髪が朝日に照らされて溶けてしまいそうだった。
ギターケースを背負って歩く様は、まるでカブトムシだ。
虫取り網で捕らえたい衝動を殺しながら青年を見ていると、その目がふっと上げられた。
切れ長な淡いグレーの瞳は、驚愕に見開かれ、確かに和輝を映していた。
「Fuck you!!」
いきなり吐き出された口汚ないスラングと、挑戦的に突き付けられた中指に、和輝は面食らった。
状況の呑み込めない和輝に構うことなく、青年はアスファルトを叩き付けるように踏み締めながら真っ直ぐに迫って来た。
鼻がぶつかりそうな程の至近距離で、青年が唾を飛ばし捲し立てる。目尻を釣り上げて凄む青年を前に、和輝はすっかり動転してしまって、母国語で宥めていた。
青年が何を言っているのか、余り理解出来ない。だが、酷く自分に腹を立てているのは解る。
刃で滅多刺しにされている気分だった。
どんな言葉も藪を突くような気がして、口を挟めない。和輝が口を噤んだ、その時だった。
「That’s annoying.」
背後から、掠れるような声がした。
振り返る間も無く、其処に誰がいるのか解った。途端に周囲の音が明瞭になって、青年の口汚ないスラングが耳に入って来た。
地方の訛りや罵声は耳を通過して、情報として脳に処理される。精神統一をした時に似ている。
ゆっくりと振り返ると、透明人間が立っていた。
「朝から、煩いな」
隠す気も無く大欠伸をして、葵が言った。
低血圧なのか、葵は寝起きの機嫌が悪い。
和輝の視線に釣られた青年が、幽霊でも見たように悲鳴を上げていた。
「おはよう、葵」
「何なんだよ、こいつは」
青年に知覚されていることも構わず、葵が面倒臭そうに顎でしゃくった。路傍の石どころか、虫けら扱いだ。
和輝は肩を竦めた。
「俺のせいで未来を絶たれた、自称将来有望な若者?」
「失敗が許されるのは、若者の特権だ」
葵が嘲るように言った。
母国語での遣り取りに、青年はすっかり置いてけ堀になっていた。
改めて葵が状況説明を求めたので、和輝は何処から話すべきか迷う。けれど、葵なら支離滅裂な自分の言葉も理解して、補足してくれるのだろう。
青年が置いて行かれた迷子みたいな顔をしていたので、和輝は取り繕うように言った。
「立ち話も何だから、上がってくれ。朝食は?」
青年は少し落ち着いたようだった。緩く首を振ったその姿がやけに幼く見えて、数年前の自分の姿を思い出す。
これは、嘗められて当然だ。馬車馬のように働かされても仕方無い。
和輝の勝手な提案に気を悪くしたらしく、葵が口を尖らせていた。
「他人を勝手に家に上げるな」
「出し巻き卵を作る」
「大根下ろしを忘れるなよ」
あっさりと掌を返して、葵はさっさと背中を向けた。
大根、あったかな。
冷蔵庫の中を思い出しながら、和輝は首を捻る。
状況を呑み込めないらしい青年を連れ、和輝はその背中を追い掛けた。