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⑵彼岸西風

 石碑を前に、どれだけ立ち尽くしていたのか解らない。ほんの数分だったのかも知れないし、数時間だったのかも知れない。

 夕陽は既に沈み、辺りには仄暗い闇が広がっていた。吹き付ける木枯らしは身体の熱を奪っていく。指先は白く冷えて、最早感覚も無かった。


 石碑をじっと見詰めていた和輝が、何かを誓うような静謐さで言った。




「雨は泣けない誰かの為に降り注ぐ。ーーでも、その涙の雨で、虹が架かったら良いね」




 闇の中、ヒーローはまるで此処が光源であるかのように光り輝いている。


 何故だか胸が軋むように痛くなって、声を上げて叫びたい衝動に駆られた。


 この世の不幸なんて一つも知らないみたいな美しい微笑みは、今にも泣き出しそうに見えた。そして、その眼差しは、もう二度と戻らない過去を嘆き、未来を見据えて透き通っていた。


 隣に立つ和輝が、此方を覗き込んで笑った。

 それまでの空気を一瞬で消し去り、完璧に平静を取り繕っている。このヒーローは嘘吐きで、容易くそれを看破させない。




「帰ろう」




 そう言って、和輝が手を差し伸べる。


 子どもじゃあるまいし、と反論しようとしたが、声は掠れて出て来なかった。此方の返事を聞くより早く、和輝がぶら下げていた腕を取った。

 小さな背中が、惑星のような強烈な引力で歩き出す。葵は、その手を振り払った。

 和輝は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑って歩き出した。


 一歩一歩が異様に重かった。この場所にいると、何時までも此処に立って、愚かだった昔の自分を戒めたくなる。

 泥濘に足を取られないように、この場から逃れるように、葵は自然と早足になって、先にいた和輝を追い越した。


 何となく振り向くと、自分よりも下にある頭が後方をじっと見ていた。家猫が、何も無い壁を見詰める様に似ていた。




「和輝?」

「今行く」




 そうして、何事も無かったみたいに繕う。

 石碑に向かって何かを言おうとしているように見えた。けれど、それは風の中に溶けて消えてしまった。

 感謝も謝罪も、彼が背負うものではない。


 ならば、何を言おうとしたのだろう?








 小春

 ⑵彼岸西風








 葵がまだ母国にいて、中学生だった頃、陰湿で執拗なストーカーに目を付けられていた。


 生まれ付き存在感が希薄で、すぐ隣にいても知覚されないことが多かった。学校では出席簿に記名されているのに呼ばれず、席替えでは存在を抹消されることもあった。

 幼い時分には不思議に思ったけれど、口にしたところで何か変わる訳ではない。世界から拒絶されている自分は、長く生きられないだろう。そんな風に思うようになった。


 だが、その反動というべきなのか、度々サイコパスと呼ばれる異常者に執着された。

 自分の主張を押し付けて、お前も同じだろうと泣き喚く。僕等は同志だねと安心する。一緒に死のうと凶器を振り翳す。

 類が友を呼んでいたのかも知れない。


 殺人犯、朝比奈香理もその内の一人だった。


 対応にはもう慣れてしまって、飽きてしまって、ああまたか、なんて諦念して。

 それでも回避出来ず、そのストーカーは自分の生活に支障を出す程に踏み込んで来ていた。生命の危機すら感じる異常性に、手段を講じなければならなかった。


 警察は頼りにならない。このままでは、唯一の家族である兄にも危険が及ぶ。

 それならーー、殺してしまおうか。


 己の手を汚す訳にはいかなかった。

 兄は警察官だ。事実を知られた時に、槍玉に挙げられるのは兄なのだ。


 相談出来る人はいない。友達なんていたことも無い。


 さあ、どうやってストーカーを殺そうか。

 完全犯罪にしなければならない。証拠は残せない。ならば、誰かに殺させるべきだ。より良い方を選択しなければ。

 事故を装うか、或いは正当防衛が成立するように導くのだ。


 完全犯罪を計画していた時、何のきっかけだったのか、それを兄に知られてしまった。

 短気で粗暴な兄は、拳を振り上げた。当然、やり返した。家の中は乱闘でも起きたかのように荒れ果てて、近所の誰かが騒音を聞き付けて警察を呼んだ。


 結果、行き過ぎた兄弟喧嘩だったと処理された。

 頬は腫れて、奥歯が欠けた。四肢は青痣だらけで、口の端からは血が溢れた。

 兄だって酷い顔だ。自分が殴った。額が切れて、真っ赤な血液が流れ落ちていた。


 仲直りはしなかった。

 兄と自分の価値観は違う。解り合えないことを、兄は誰より知っている。


 朝になって出掛けて行く兄を見送りはしなかった。どうせ、夜には解決する。

 謝罪の言葉なんて互いに口にしたことは無い。兄は自分の好きなチーズケーキを買って帰り、自分は兄の好きなカレーライスを用意して待つ。それが俺達の仲直りだった。


 俺は、カレーライスを作っていた。

 固定電話が鳴った。兄の職場からだった。


 兄が、死んだらしい。

 呼び付けられて向かった先は、マスコミと野次馬が犇めき合い、黄色い規制線が張られていた。血潮のように真っ赤な太陽が、濡れたアスファルトを照らしている。


 俺は刑事に招かれてパトカーに乗った。


 兄は、武装した異常者と交戦し、首を切り落とされて死んだらしい。最期の力を振り絞って、犯人の脛に歯を立てた。何の意味も無い抵抗だ。


 犯人の顔を見せられた。

 俺のストーカーだった。


 邪魔者は、他者の手で葬るべきだ。

 俺の完全犯罪は成立してしまった。自身の手を一切汚すことは無く、二人の人間を葬り去ることに成功したのだ。


 役者が違うじゃないか。

 俺はそんなことを思った。


 兄が死んで、俺の生活は一変した。

 名前も知らないクラスメイトが労りの言葉を投げ掛けて、下世話なマスコミはこの事件を毎日報道した。


 俺はまた、訳の解らない変質者に執着された。だが、どうしたらいいのか解らなかった。

 殺せばいいのか。警察に相談するべきか。

 五里霧中で四面楚歌の状況で、誰に助けを求めたらいい?


 労りの仮面を被ったクラスメイトは、事件のことを知りたがった。正義を謳うマスコミはこの悲劇を繰り返してはならないと警察を叱責した。

 誰も俺を罰せない。直接手を下さず、証拠も無い。俺は真っ当な被害者で、その遺族だ。声高らかに己の不幸を嘆いていい。


 だけど。


 だけど、だけど。


 こんなものを望んだ訳じゃない。

 こんな世界を求めた訳じゃない。

 でも、俺はこの可能性に気付いていた筈だった。


 不器用で正義感の強い兄が、自分に代わって犯人の元へ出向くことも。

 犯人が常識の通じない猟奇的な異常者であることも。

 結果、兄が殺される可能性があることも、解っていた筈だった。


 腐って食べられなくなってしまった、鍋一杯のカレーを見ていた。

 処理するのも面倒で、鍋ごとゴミ袋へ押し込んだ。封をする寸前に漂った鼻を突くような異臭に、視界がぐにゃりと歪んだ。


 おかしいねえ。

 最悪の結末を回避する為に取捨選択を繰り返し、より最良のものを選んで来た筈なのに。

 どうして、結果は付随しないのだろう?


 進路を選ぶ段階に到達した時、親族は警察官になるように強要した。両親の遺志を守り、兄の敵討ちをするべきだと言った。


 それは、俺に死ねと言っているのだろうか?


 死んでも構わなかった。けれど、それでは兄が犬死ではないか。だから、親族の期待を蹴って、大学では哲学科へ進学した。結果、親族とは絶縁状態になった。


 選んだ学部は、就職率が低く、卒業する時には人生に諦観を抱いて自殺する者もいる。そんな学部だった。


 相変わらず、存在感は希薄だった。友達なんて出来る筈もないし、求めてもいない。

 どうせ、この世は不条理で欠陥だらけの欠陥品そのものなのだ。


 それなのに、どうして希望は当たり前みたいな顔をして降って来るのだろう。


 全てが嫌になって、投げ出したくなる時になって、希望が顔を出す。リタイアを認めない残酷な神様は、それでも助けの手を差し伸べはしない。




「今日の夕飯、どうしようか」




 和輝が、言った。

 何でもない顔で、当たり前みたいに其処にいる。明けない夜も、覚めない夢も、止まない雨もないと主張しているみたいだった。


 葵は答えた。




「カレーが食べたい」

「いいね」




 偶には、外食しようか。

 穏やかな顔をして、和輝が言った。


 近所にカレー専門店があるらしい。母国の味に似ているそうだ。

 和輝が、家で待つ霖雨に連絡をしようと携帯電話を取り出す。


 外食もいい。けれど、キッチンに立つ彼の姿が瞼に焼き付いて、何故だかそれが生きていた頃の兄と重なった。


 これは夢で、妄想だ。都合のいい幻覚だ。

 そんなことは解っているのに、葵は喘ぐようにして口を開いていた。




「お前の作るカレーがいい」




 言うと、和輝はきょとんと目を丸めて、ーー綻ぶように笑った。

 了解したとばかりに、和輝が微笑む。


 冬の訪れた世界は、冷たく厳しい風が容赦無く吹き付ける。風除けなんてある筈も無い吹き曝しの中で、和輝の周囲だけが切り取られたみたいに明るく見えた。


 和輝は料理が上手い。手先が器用で、要領も良い。手の抜き方も心得ている。

 きっと、野菜はざく切りで、付け合せのサラダは手で千切るのだろう。その癖に、カレーのルーは手作りするのだから、意味が解らない。


 けれど、自分が望めば、零れ落ちる砂を掬い取るみたいに、幾らでも作ってくれるのだろう。


 行きとは逆方向の電車に乗って、帰路を辿る。寄り道はしなかった。

 建物の少ない郊外の景色が、少しずつ見知ったものへと変わって行く。

 疲れた顔の会社員や、不機嫌そうな学生が車内で互いに非干渉の条約を結んで座っていた。和輝は七人掛けの椅子の端に座った。他に席も空いていなかったので、葵も隣に腰を下ろした。




「葵の兄ちゃんって、どんな人だったの?」




 唐突に和輝が訊いた。葵は面食らったが、彼が突拍子も無いことはいつものことだったので、気にしないことにした。


 友人の墓参りに来て、兄のことを訊くのか。


 それは何だか辻褄が合わないような気もするが、突っ撥ねても面倒だったので答えた。




「警察官だったよ」

「家でも?」

「いや」




 和輝にとっては、葵の兄が警察官であるか如何かなんて関係無いのだ。それが例え麻薬の密売人だったとしても、同じ問いを投げ掛けたのだろう。




「乱暴者だった。しょっちゅう喧嘩して、殴り合いになって、俺は何度も病院送りにされた」

「葵が一方的に負けるなんて、ちょっと想像も付かないね」

「警察官になる前は、暴走族だったんだ」

「ドラマがあるねえ」




 どういう感想だ。

 葵は呆れつつも、続けていた。




「短気で、粗暴で、口も悪い。不器用で、自分勝手でーーでも、優しかったよ」




 そうか。

 囁くような返事をして、和輝は遠くを見詰めた。


 その目に何が映るのだろう。

 宝石みたいに美しい双眸には、世界が輝いて見えるのだろうか。


 嘗て彼に執着した異常者、John=Smithは、その眼球を欲しがった。透明度の高い双眸は他者を否定せず、何者にも染まることなく輝いていると言った。

 その気持ちが、葵には少しだけ解る。




「良かったな」




 兄ちゃんも、きっとそう思っていたよ。

 そんな有り触れた労りの言葉を吐いて、それきり、和輝は何も言わなかった。

 レールの継ぎ目を走る擦過音と、他人の微かな声が静かに響いていた。


 ふと目を向けると、眠っているようだった。

 危機感の無い奴だ。見知らぬ他人ばかりの場所で、よくも眠れるものだ。

 電車が揺れると、和輝の身体が凭れ掛かって来た。邪魔だと押し返そうとするが、反対側には他人がいたので、結局、そのままにしておいた。


 寝息を立てる和輝は、子どもみたいな顔をしていた。小さく、弱く、頼りない。それでも、これが自分にとっては最大で最後の希望なのだ。


 車窓の向こうには粉雪がちらついている。乗客もすっかり冬支度を整え、厚手のコートを纏っていた。

 硝子の向こうは凍り付くような寒風が吹き付けているというのに、寄り掛かる小さな身体ばかりが温かい。


 この世は不条理だらけな筈なのに、どうして希望は降り注ぐのだろう。



 

「お前、春みたいだ」




 我ながら、稚拙な言葉だ。

 葵の声は誰にも届かず、ヒーターの熱風に掻き消された。

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