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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
電気羊の夢
29/68

⑵たしかなこと

 自分の部屋に自分以外の誰かがいるというのは、何だか落ち着かない。

 人口密度の問題なのだろうが、部屋の中がぎゅっと狭くなったように感じられた。

 PC用のデスクの対角線の壁際に、和輝がちょこんと体操座りをしている。ただでさえ体格が小さいのに、コンパクトに纏まっている姿はハムスターに似ている。その隣、壁に寄り掛かった葵は、不機嫌そうに腕を組んでいた。呼吸をしているのか疑問に思うくらい静かだ。




「家族内の問題に、他人が首を突っ込むものじゃない」




 葵が眉一つ動かさずに言った。元々表情豊かな性質ではないが、マネキンに似ていると思う。

 和輝は隣の葵を見上げ、眼を細めて笑った。




「友達が困っていたら、助けるものだよ」

「親しき中にも礼儀あり、だろ」




 そっと眉を寄せた葵は、苦言を呈しつつも止める気は無いようだった。

 霖雨は、壁際で見守る同居人の視線をひしひしと感じながら、PC用の椅子に座った。まさか、これから母国の兄と連絡するとは思っていなかったので、緊張する。心の準備が何も出来ていない。手の平に滲んだ汗を、寝間着のズボンで拭った。

 心臓が耳にあるのではないかと思った。連絡をするなら、自分のタイミングでしたかった。けれど、背中を押されなければ何時までも先延ばしにしてしまうような気もするので、これで良かったのかも知れない。


 電源を入れ、スタート画面が映る。霖雨はパスワードを入力し、デスクトップを映した。

 何の面白味も無い、青から水色に移り変わるグラデーションの壁紙だ。大学の授業で必要なファイルがデスクトップに表示されている。壁際からのろのろとやって来た葵が、ディスプレイを覗き込んで言った。




「センスの欠片も無い壁紙だな」

「初期設定のままなんだよ。文句なら、開発元に言ってくれ」




 和輝が、「今度、良い写真をあげる」とフォローした。余計なお世話だった。


 左隅のゴミ箱のアイコンの下にある連絡用のファイルを起動する。胃がきりきりと痛んで、霖雨は誤魔化すようにしてその上を撫で付けた。


 兄の連絡先を選択する。時差を考えると、向こうは朝方だ。中々に非常識な時間帯であるし、事前の連絡もしていないので繋がるとは思わなかった。繋がらなければいいとすら、思った。


 けれど、ぶつりと音がして、真っ暗な画面の向こうが映った。如何して、こんな時ばっかり。




『いきなり、如何した』




 寝起きなのか、掠れた兄の声がした。海の向こうの時間帯を計算すると、繋がったこと自体が不思議だ。

 返答を用意していなかったので、霖雨はしどろもどろになる。同居人に言われて連絡しましたなんて、言えない。

 すると、後ろからそっと近付いて来た和輝が言った。




「急にすみません。俺が、唆しました」

『構いませんよ、ええと、蜂谷君』




 そういえば、和輝と兄ーー春馬は、初対面だ。

 互いににっこりと微笑んでいる。計算高い性格ではない筈だが、何だか、距離を測っているような笑顔だった。

 春馬はディスプレイに映る和輝を見てから、その視線を葵へと移した。




『お久しぶりです、神木君』

「お久しぶりです」




 葵もまた、にっこりと微笑んだ。外交用の爽やかな笑顔だった。今は殆ど不機嫌そうな仏頂面をしているが、霖雨が転居した頃は、大体この胡散臭い表情をしていた。


 それで。

 春馬は口元に笑みを残して、再び和輝を見た。




『それで、ご用件は?』

「霖雨の近況報告です」

『こんな朝っぱらに?』

「時差の計算が出来なかったので、非常識な時間帯だったら、すみません」




 嘘だろ。思わず、霖雨は突っ込みたくなった。

 和輝は度々母国の親友と連絡を取っている。時差の計算くらい、出来る筈だ。

 春馬はそれをどのように受け止めたのかは解らないが、追及はしなかった。




『確かに近況報告をして欲しいとは言ったけど、すぐに連絡を入れろと強要したつもりは無いんだ。俺の言葉が足りなくて、困っている霖雨を助ける為に連絡をしてくれたなら、悪かった』




 霖雨は、どちらの味方をすればいいのか解らなくなってしまった。春馬の言うことは正論だが、和輝のしたことは厚意だ。


 というか、霖雨は和輝に謝りたくなった。


 ごめん。

 俺の兄貴、怒ると結構怖いかも。







 電気羊の夢

 ⑵たしかなこと







 和輝は何を考えているのか解らない顔で丁寧に対応している。クレーム対応しているみたいだ。


 物怖じしない様は流石だなと思うけれど、間に挟まれている霖雨は居た堪れない。


 何と言って間を取り持ったら良いものか、霖雨は痛む胃を摩りながら考えた。話題を変えるべきなのだろうか。しかし、時間が足りない。


 すると、すぐ後ろで葵が溜息を吐いた。




「あんたに訊いてみたかったんだけど」




 まさか、葵が助け舟を出してくれるとは思わなかった。霖雨がちょっと感動していると、葵は無表情に問い掛けた。




「あんたに並行世界の記憶はあるのか?」




 直球だ。葵は相手を気遣ったり、言葉を選んだりしない。

 春馬は感情の読めない顔で葵を見ていた。殺伐とした雰囲気の中で、理解不能らしく小首を傾げる和輝だけがオアシスだ。


 霖雨は母国にいた頃、精神病の診断を受けていた。幼少期の過酷な環境がその原因だと医師は言った。

 幼い頃に両親を事故で亡くしてから、霖雨は独りで生きて来た。兄の春馬は、孤独に怯える霖雨が作り出した人格の一つだった。


 だが、ある出来事をきっかけに春馬は現実世界に現れた。周囲の人間は、春馬は初めから存在しただろうと言った。


 けれど、霖雨には、独りで生きて来た記憶が確かにある。親戚を盥回しにされたこと、虐待を受けたこと、誰も助けてくれなかったこと。だから、春馬という人格を作り出したのだろう。

 春馬には、二人で生きて来た記憶がある。証明可能なのは春馬の記憶だけで、霖雨の記憶は妄想の域を出ない。


 霖雨は、春馬が現実世界に現れたきっかけとなる出来事も覚えている。同じ体験をした親友も、夢ではなかったと肯定してくれる。


 夢だったのか、それとも、現実だったのか。

 あれは並行世界の出来事で、自分はそれを垣間見ただけなのか。

 それなら、現時点の自分がいるのは並行世界なのではないか。突然、並行世界の自分と入れ替わったのなら、同じことが再び訪れないとも限らない。


 霖雨は解らなくなってしまったのだ。そして、逃げるみたいに留学を決めて、母国へは帰っていない。


 春馬は、顎に手を添えて、探るように問い返した。




『去年の夏に起きたことなら、覚えているよ』




 ちらりと和輝へ視線を投げて、春馬は慎重に言った。


 去年の夏ーー和輝がテロに巻き込まれて死んだ。それを救う為に、霖雨と葵は、春馬の力を借りて並行世界を旅したのだ。思い返してみても、現実感の無い、まるで悪夢のような出来事だった。


 当の本人である和輝は、その記憶が無い。和輝の死んだ世界はエラーの起きた並行世界として永遠に葬り去られたのだ。こんな非科学的なことは和輝に理解出来ないだろうし、ましてや、事件に巻き込まれて死んだなんて教える必要も無かった。


 何のことか解らないだろう和輝ばかりが瞠目している。説明する気は無いらしく、葵は視線を無視している。




「じゃあ、それ以前の並行世界については、覚えているのか?」

『それ以前の記憶があっても無くても、君には何の関係も無いだろう。並行世界は別次元にあるから、干渉することも、知覚することも出来ない』

「俺には関係が無いよ。興味も無い。介入する気も無い。だが、もしも、捻じ曲げた未来が何時また入れ替わるか解らないような不安定なものだと、困るから」




 困るんだ。

 葵は飄々と笑っているが、その意味が、霖雨には解る。

 春馬は深く溜息を吐いた。苛々しているのか、頭を掻いた。




『入れ替わった未来は、もう不変だ。エラーの起きた世界は葬り去られている』

「それは、何よりだ」



 からりと笑って、葵は和輝を見た。何の話をしているのか、ちっとも解っていない顔だった。

 解らなくていい。和輝が死んでしまった世界なんて、もう二度と御免だ。


 葵は顔を上げた。その目はディスプレイの向こうにいる春馬ではなく、所在無さげにして、会話にも入れない霖雨を見ていた。




「俺は非科学的で根拠の無いものは信じない。オカルトも嫌いだ。自分の体験したことがどれ程に臨場感を持っていようと、確証が無いのならば、それは妄想の類だと思う」




 すっと目を細め、葵は不機嫌そうな仏頂面になっていた。




「これから言うことは、俺の意見ではない。都合の良い辻褄合わせだ」

「うん」




 不本意だと、まるで言い訳みたいに葵が言う。




「異なる次元を渡る術がある。それは時の扉と呼ばれ、潜った者は次元間に於ける記憶の影響を受けない。だから、異なる二つの次元の記憶を持つ」




 葵の説明は、何かしらの確証を持っているようだった。ただし、その確証と呼ばれるものは、目に見えず、手にも触れない証明不可能のものなのだ。記憶だけが、根拠なのだ。




「これは推測だ。ーーお前の世界はエラーの起きた不完全な世界だった。両親が死んで天涯孤独となったことも、親戚中を盥回しにされて虐待されたことも、春馬という兄がいなかったことも、全部エラーだ」




 エラー。

 霖雨は、その言葉を口の中で繰り返した。




「エラーの起きた不完全な世界は、時の扉と呼ばれる次元の狭間に葬られる。結果、お前の不完全な世界は葬られ、正常な世界と入れ替わった。だが、直接関与したお前は記憶の影響を受けなかった。だから、お前は異なる世界の記憶がある」




 ゆっくりと瞬きをして、葵は霖雨を見た。




「お前の世界はエラーが起きていたが、妄想じゃない。現実だ。お前の記憶は、正しい」




 否定を許さない強い口調で、葵が言う。

 お前は悪くない。悪くないんだよ。まるで、そう言い聞かせているみたいだった。


 お前は、間違っていないんだよ。大丈夫。ーーきっと、自分は、誰かにそう言って欲しかったのだ。

 確証なんて、無くて良い。ただ、お前は悪くないよ、と言って欲しかった。


 兄のいない世界の妄想をしているだなんて、言えなかった。それでは、まるで自分が、兄の存在を否定しているみたいだからだ。


 自分にとって、兄は並行世界の象徴だった。

 兄のことを認めているのに、顔を見ると不安になる。此処は果たして、現実なのかと。


 無意識に俯いていた。目に映る自分の腕は、傷だらけだった。幼少期に受けた虐待の絆だ。傷は癒えても痕は残る。その不完全さが、まるで愚かな自分のようで、酷く虚しい。


 けれど、頭の上で葵の声がした。




「過去は、過去だ。振り返りはしても、囚われるものじゃない」




 葵らしかぬ言葉に、如何してか泣きたくなる。まるで、自分のことを受け容れてくれているみたいに聞こえた。


 霖雨は、顔を上げた。

 ディスプレイの向こう、早朝から訳の解らない連絡に付き合わされた兄が、寝起きの不機嫌そうな顔で待っている。




「近況報告をしても、いいかい」




 霖雨が言うと、春馬はからりと笑った。




『良いも悪いも、その為に連絡をしてくれたんだろ?』




 そうだね、そうだったね。

 こんな朝早くから、俺の話を聞く為に待っていてくれたんだよね。


 聞いて欲しいことが、沢山あるんだ。


 和輝っていう、馬鹿な同居人がいるんだ。

 チビなんだけど、料理がめちゃくちゃ美味くて、何も言わないのに解ってくれる優しい奴なんだ。

 性別さえ違えば、俺はプロポーズしていたと思う。

 でも、トラブルメーカーで、突拍子も無くて、良く言えば行動力があるんだけど、計画性が無い。だけど、すごく努力家。他人の評価なんて気にしないで、当たり前みたいに努力を続けられる。俺にとっては、ヒーローなんだ。


 葵は住居のオーナーで、変わった奴だ。

 偏屈で、頭が固い。生活能力が無くて、放って置いたら、大変なことになると思う。

 読書家で、博識で、妙に戦闘能力が高くて、意外と短気。でも、誰かの為に自分の意思を曲げてでも向き合ってくれる友達思いな奴なんだ。

 口が悪くて、すぐに悪態吐く。俺がコーヒーを淹れると必ず文句を言うけど、残したことは無い。

 俺と同い年なのに、FXで生計を立てて、一戸建ての家を所有しちゃうようなハイスペックなのに、友達がいない。しっかり者で、頼りになるすごい友達なんだ。


 逃げ出すみたいに留学して、碌に近況報告もしなかったけど、楽しく過ごしているよ。

 嫌なことや辛いこともあるけど、友達がいるから大丈夫。大丈夫なんだ。


 春馬のお蔭なんだ。

 お前がいたから、独りぼっちにしなかったからなんだ。


 溢れ出る言葉を止められなかった。

 春馬は頬杖を突いて、時間も忘れて話を聞いてくれた。


 長い間に深まった溝を埋めるような勢いで、霖雨は話し続けていた。


 その時、ディスプレイの向こうでチャイムの鳴る音がした。朝早くから、来客らしい。

 切ろうか、と霖雨が言うと、春馬はそのまま待っていろと笑った。


 ディスプレイから消えた春馬を待っていると、向こうから早朝とは思えない騒がしい声が聞こえて来た。


 突然、画面一杯に見覚えのある顔が映った。




「よう、霖雨」




 切れ長な瞳を歪めて、不敵に笑う青年がいる。霖雨にとって唯一無二の親友だった。

 その向こうには、思わず後ずさってしまいそうな強面の青年と、可憐な女性がいた。




「林檎」




 霖雨が高校生の頃の同級生だ。

 女性ーー林檎は、猫みたいに目を吊り上げて、長い間、連絡しなかったことを怒っていた。

 霖雨は平謝りをしていた。ディスプレイ中央の林檎を囲むようにして、驟雨、香坂、春馬が映る。


 彼等は、現実なのだ。夢でも、妄想でもない。其処にいる。


 自分は、郷愁を感じることなんて無いと思っていた。けれど、間違いだった。無性に会いたくて、帰りたくなる。




『卒業したら、必ず帰って来なさいよ』

『バイクの調子如何? 帰って来たら、ドライブに行こうぜ』




 がやがやと喧しい彼等に苦笑しながら、春馬が言った。




『待ってるからな』




 霖雨は、笑った。




「うん、待っていて」




 必ず、其処に帰るからーー。


 騒がしい声が、それぞれの近況報告をする。昔話に花を咲かせて、過去を懐かしみ、名残惜しくて通話を終えることが出来ない。


 ふと気付くと、和輝と葵はいなくなっていた。

 部屋へ帰って、眠ってしまっただろうか。

 向こうはこれから一日が始まるけれど、此方はもうすぐ終わるのだ。


 いなくなったヒーローと透明人間への礼は、明日にしよう。


 止まない雨がないように、覚めない夢がないように、明けない夜もないのだから。

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