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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
電気羊の夢
28/68

⑴近況報告

 The greatest happiness of life is the conviction that we are loved – loved for ourselves, or rather, loved in spite of ourselves.

(人生最大の幸福は、愛されているという確信である。自分の為に愛されている、否、もっと正確には、こんな自分なのに愛されているという確信である)


 Victor Hugo





 先週のことだ。


 母国の兄から一通のメールが届いていた。

 霖雨が恐る恐る開封すると、こまめな近況報告をして欲しいと飾り気の無い文章が綴られていた。


 その瞬間、胃がぎゅっと痛くなって、霖雨は返信もせず早々に眠ることにした。


 それから、ずっと胃が痛かった。


 霖雨は腹を摩りながら、きりきりとした痛みに呻いていた。自室に閉じ篭り、兎に角、眠ろうと瞼を閉じる。

 だが、眠ろうと意識する程に目が冴えて、下腹部からの不吉な音が耳に付く。込み上げる吐き気を堪え切れず、霖雨は口を押さえてトイレへ駆け込んだ。


 白い洋式便器を抱え込み、何度も嘔吐いた。消化途中の夕飯や消化液を吐き出しても一向に治らず、個室の中、深夜に何をしているのだろうと虚しくなった。


 和輝は病院の事務職の癖に、夜勤だった。アルバイトの癖に、相変わらずブラックな仕事ぶりを発揮している。

 それが直接的に給与に反映される訳ではないのだから、夜勤ではなくて、サービス残業に近い。

 救命救急士の見習いをしていて、医学生である和輝は、こんな時に家にいない。いない者を責めるのは憚られるけれど、他に八つ当たりする相手もいない。尤も、和輝がいる内に相談するか、悪化する前に受診すれば良かったのだけど。


 ぐらぐらと世界が揺れて、現実感が無い。


 何か、悪いものでも食べたのだろうか。和輝がいなかったので、今日の夕食は霖雨が作ったが、彼が期限の切れた食材を冷蔵庫に入れている筈も無い。

 それなら、ウイルスか。和輝も葵もぴんぴんしているのに、自分だけ罹ったのか。

 就活のストレスか。それが一番納得出来る。


 夢を見ているのではないか。ーー夢の中でも胃腸炎だなんて、それこそ笑えない。


 取り留めも無いことを考えて意識を散らせていた。その時、音を聞き付けたらしい葵が、気配も無く後ろに立っていた。

 これは、恐怖体験だ。霖雨は肩を跳ねさせた。


 葵は黙って狭い個室へ滑り込むと、何を思ったのかいきなり強引に喉の奥へ手を突っ込んだ。

 咄嗟に抵抗したが、葵は人体の構造を理解し、適切に抵抗を失わせていた。異物感に呻き、程無くして、霖雨は胃の中のものを全て吐き出した。


 葵は洗面所で手を洗うと、何も言わずにリビングのソファへ座った。

 トイレへ駆け込んだ時には、リビングの明かりは落とされていた。起こしてしまったのだろう。

 申し訳なかったが、生理現象だ。霖雨は素直に礼を言った。葵の行動理由は解らないが、助かったことは事実だ。


 葵は素っ気なく、別に、と言って本を読み始めた。

 黒地のカバーに、黄色の文字と不気味な動物のシルエットが映えている。アンドロイドは電気羊の夢を見るか、だ。随分と懐かしい本を読んでいる。


 霖雨は洗面所で口を濯ぎ、そのまま、寝た。

 下腹部は唸っていたが、人間とは意外に図太いらしく、翌日の夕方までぐっすりと眠っていた。

 その後、葵が如何したのかは、知らない。


 翌日になって帰って来た和輝が起こしに来て、玉子粥を作ってくれた。覚えも無い筈なのに、何故だか懐かしい味がした。

 如何にか粥を啜る自分とは別に、和輝と葵はチゲ饂飩を食べていた。優しいんだか、酷いんだか解らない。


 夕食の席で、和輝がまた謎のトラブルに巻き込まれている話になった。途端に下腹部がごろごろと唸った。

 消化の為だとは、思わなかった。

 これはストレスだ。同居人の持ち込む突拍子も無いトラブルによって、自分の胃が破壊されたのだ。


 それから暫く、胃の調子が悪かった。

 霖雨が快復するより早く、和輝の持ち込んだ物騒なトラブルの方が先に解決するという謎展開だったが、兎も角、無事で良かった。


 それが先週の話だ。

 未だに痛む胃を摩りながら、霖雨は兄からのメールと睨めっこをしていた。


 見兼ねた和輝が受診を勧めたが、葵の提供する製造先不明の整腸剤と痛み止めを吞んで日々を凌いでいる。


 原因には見当が付いている。

 ウイルス感染を疑う二人に、就活のストレスだと言い訳をして、早一週間。未だに胃は唸っている。


 チゲ饂飩以降、食卓は消化の良い和食中心の病人食に切り替えられた。余りに解り易い変化だったが、提供される食事が文句無しに美味かったので、メニューは日常に溶け込んでいた。


 真っ先に文句を言いそうな葵が黙っているのだから、霖雨とてそれを退ける訳にはいかなかった。第一、最も助かっているのは自分だ。


 今晩の献立は、甘鯛の煮付けと、ほうれん草のお浸し、豆乳の南瓜粥だ。

 柔らかな湯気の昇る夕食の向こうで、葵がぶすっとして席に着いた。


 ここのところ、食卓には粥が増えた。和輝は病人食の練習だと言っていたが、霖雨の快復を待って粥ばかり出されたのでは、付き合わされる葵だって文句の一つも言いたいだろう。


 別に、三人揃って同じメニューにする必要は無い。

 これは和輝なりの気遣いなのだ。申し訳無く思って弁解しようとする霖雨を遮って、葵が言った。




「豆腐は嫌いだと言っただろう」




 其処か?

 霖雨は内心で首を傾げた。

 今晩の献立に豆腐は無いが、葵が豆腐嫌いとは知らなかった。豆乳から豆腐が連想されるのだろうか。

 霖雨の内心を真似るように、和輝も首を捻った。




「豆腐は無いけど」

「豆乳も嫌いなんだよ。何なんだ、この豆の汁は」




 そんなことを言ったら、牛乳だって牛の汁だ。味噌汁は飲む癖に、よく解らない。

 夕食を出してもらっているのに、如何してこんなに偉そうな態度でいられるのだろう。どんなに親しくても、霖雨には無理だ。

 逆の立場なら、霖雨は憤慨していたと思う。




「好き嫌いしないで、何でも食えよ。大きくなれないぞ」

「俺もお前も成長期はもう終わっている」




 和輝の的外れな返答と、葵の失礼な物言いによって、食卓の会話は何だか喜劇みたいな滑稽さを醸し出している。


 身長160cmで、成長期はまだ終わっていないと信じている我らがヒーローは、何の言い訳なのか豆乳の栄養価について講義し始めた。葵がそれを面倒臭そうに放逐して、人間なんて何時かは皆死ぬと極論を持ち出す。


 二人に言わせると、これは喧嘩ではないらしい。霖雨は陰で、痴話喧嘩と呼んでいる。


 余談ではあるが、霖雨と葵が言い争う時は、子どもの教育方針で揉める夫婦みたいだと、和輝が言っていた。

 和輝と霖雨は言い争いにならない。和輝の反論が言い訳染みているので、保護者に叱られている子どもみたいになるらしい。


 話は逸れまくって、昨今のテレビ番組は同じような内容ばかりでネタ切れなんだという結論になった。この間、霖雨は一言も口を挟んでいない。

 先日まで血腥い刑事事件に巻き込まれていたとは思えない程、平和だ。


 漸く手を合わせた頃には、少し冷めてしまっていたので、もっと早く水を差してやれば良かったなと思った。






 電気羊の夢

 ⑴近況報告






 シャワーを浴びようと浴室に向かうと、爽やかな柑橘系の香りが漂っていた。

 ウイルス感染を恐れて湯船には浸からないつもりだったが、水面に浮かぶ淡い黄色の果実に心惹かれた。今夜は柚子湯らしい。


 念の為、家事の一切を取り仕切る和輝に確認したら、今夜はもう誰も湯船には浸からないと言う。しかも、自分の為に用意してくれたらしかった。


 至れり尽くせりの好待遇に、涙が出そうだった。これで性別さえ違えばなあ、と不毛なことを思った。


 急いで身体を洗い、湯船に浸かる。熱過ぎない湯と、柔らかな柚子の香りに身体の芯から温まる。成人男性二人の使用後とは思えない清潔な風呂場で、家族のような温もりに心まで満たされていた。


 胸が一杯になって浴室から出ると、リビングには和輝がいた。ソファで行儀悪く胡座を掻いて、何か本を読んでいるらしい。

 姿勢の良い彼にしては珍しく背中を丸めているものだから、何の本を読んでいるのか気になった。医学の専門書だったなら、そのまま通過するつもりだった。


 本の表紙に見覚えがあったので、おや、と思う。

 自分と同じく柚子の香りを漂わせる和輝は、此方の不躾な視線も構わず読書に没頭していた。

 彼の集中力は刹那的ではあるが、凄まじい。周りが見えなくなるとは、このことだ。


 霖雨が声を掛けると、和輝は顔を上げた。

 開いていた本を閉じて、少女みたいに可愛らしく微笑む。


 小動物みたいな和輝の手元には、霖雨の茹だる意識に張り手を食らわせるようなおどろおどろしい表紙の本がある。先程、葵が読んでいた本だった。




「面白い?」

「面白い」




 電気羊だ。

 世界的に有名なSF小説の金字塔だ。大凡、和輝の趣味には合わないと思われるが、意外とはまったらしい。


 葵が貸してくれたと言うので、それも意外だった。

 潔癖なのか何なのか、葵は物の貸し借りをしない。他人と同じ皿を突いたり、大衆風呂に入ったりもしない。自分のパーソナルスペースを侵されることが嫌なのだそうだ。それでよく他人とルームシェアしようと思ったものだ。葵の基準はよく解らない。


 何だか、普通の友達みたいだ。

 霖雨は、葵の性格が特殊過ぎて距離感に迷う時があるが、実はそれ程、難しくなかったのかも知れない。


 本を閉じた和輝は、口元に笑みを浮かべて此方をじっと見た。黙って手招きをされ、霖雨は吸い寄せられるようにソファへ座った。


 和輝の大きな瞳に、自分の顔が映っていた。

 長い睫毛に彩られた瞼が、ゆっくりと瞬きをして、濃褐色の瞳が現れる。




「何かあった?」




 まるで、当たり前のことみたいに。

 手に取るみたいに、お前のことなんてお見通しだと言うみたいに問い掛ける和輝に、霖雨は驚いた。




「何で?」

「何となく。話を聞いて欲しそうに見えたから」




 そんな素振りはおくびにも出したつもりは無いけれど、野生動物みたいな洞察力の和輝が言うのなら、そうなんだろう。


 和輝は偶にイケメン過ぎて、本当に年下なのかと疑問に思う。母国では甲子園優勝を果たしたチームのキャプテンを務めていたというのだから、洞察力もカリスマ性もコミュニケーション能力も、根暗な自分とは天と地程違うのだろう。


 胃腸炎で神経も弱っているらしく、ちょっと優しくされただけで彼の評価は鰻登りだ。自分も相当、和輝を拗らせている。


 霖雨は痛む胃を押さえながら、小さく息を吸った。

 大丈夫か、と自分の身体に問い掛ける。

 沈黙が答えだと言うように、胃腸炎は黙っていた。




「国にいる兄貴から、こまめな近況報告をして欲しいってメールが来たんだ」

「うわあ、耳が痛い。俺も同じこと、言われたよ」




 大袈裟なリアクションで、和輝が笑った。


 そういえば、和輝はそれでSNSを始めたのだ。そして、アカウントを乗っ取られ、何故か就活鬱で自殺未遂を図った女の子を引っ叩いて、警察署に連行されたのだった。


 思い返すと、意味が解らない。如何してこうなった。


 和輝は笑った後、再度、話を聞く姿勢を取った。




「それで?」

「えっ?」




 霖雨は咄嗟に答えられなかった。

 それで、如何したのだろう。頭の中では話が逸れてしまっていたので、答えを構築するまでに時間が掛かってしまう。




「それだけ」




 首を捻りながら、霖雨は答えた。

 それだけだ。それだけ、なのだ。


 和輝は肩を竦め、問い掛けた。




「霖雨のお兄さんって、怖い?」

「いや、怖くは……」

「じゃあ、何が怖い?」




 何が、と考えて、霖雨はかぶりを振った。

 それを考えることすら、怖かった。


 兄弟仲は良好だ。何の問題も無い。近況報告だって、メール一通送ればいいのだ。兄は温厚な人間なので、怒ったり咎めたりはしない。

 じゃあ、何が怖いのだろう。


 霖雨は答えを知っている。

 この恐怖の理由を、和輝は多分、理解出来ない。葵ならば共感は出来なくとも、理解してくれるかも知れない。

 だが、葵には兄弟の話なんて出来ない。葵は学生の頃に、警察官だった兄を殺されている。


 何と答えるべきなのか、はぐらかすべきなのか悩んでいると、和輝が困ったみたいに笑った。




「霖雨のお兄さんは、別に怒っている訳じゃないと思うよ。ただ、心配してる」

「それって、経験談?」

「いや、俺の兄ちゃんは怒ってたけど」




 何だかなあ。

 肩透かしを食らったような気がして、霖雨は溜息を吐いた。


 その時、和輝が雷に撃たれたみたいに固まって、勢い良く立ち上がった。

 解り易い。妙案を思い付いたのだろう。どうせ、碌な考えじゃない。


 和輝は輝くような満面の笑みを浮かべて、ソファへ座る霖雨を見下ろした。

 何時もは旋毛が見下ろせる程の身長差なので、見上げるのは何だか新鮮だ。




「一緒に話してやるよ」

「一緒に?」

「霖雨の近況報告を俺がする。葵も呼ぼう。何時もお世話になってますって、話してやるよ」




 善は急げと言わんばかりに、和輝が慌しくリビングを横切って行く。そのまま借金の取り立てみたいに葵の部屋の扉を叩くので、霖雨は肝が冷えた。

 怒鳴られて、罵倒されて、最悪、手が出るかも知れない。葵は中々に物騒だ。


 扉は音も無く開かれた。それがまた、恐ろしい。

 何時でも逃げられるように距離を置いて見守っていると、意に反して葵は冷静だった。




「うるせーよ、何時だと思ってるんだ」




 意外と常識的なことを言う。

 葵は、一人二人殺していそうな物騒な目付きで、突然の来訪者を胡乱に睨んでいた。


 和輝は気付かないのか、気にしないのか、からりと笑っていた。




「暇だろ? ちょっと付き合えよ」

「何処に」

「霖雨の部屋」

「何で?」




 当然の疑問を口にして、葵が此方を見た。

 しかし、霖雨もその答えを持っている訳では無かったので、目を逸らした。それだけで葵は何かを察したらしく、扉をそっと閉じようとする。

 その瞬間、和輝と葵が扉の開閉を巡って争い始めた。




「何で閉じようとするんだよ!」

「ちょっと用事を思い出したんだ。一回閉めるだけだ」

「一回閉めたら、鍵掛けるだろ!」




 何でそうまでして葵を巻き込むのか、最早、霖雨には解らない。


 ドアノブの軋む嫌な音がして、葵が観念して出て来るまでの凡そ十分間。霖雨は歯を磨いて就寝の準備を済ませていた。

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