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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Xの悲劇
27/68

⑹悲劇の裏側

 これは、悲劇だったのかも知れない。


 和輝は、オレンジ色の炎をぼんやりと見ていた。翳された煙草のフィルターがジリジリと焦げ付いて、発火する。


 黒薙は深呼吸するみたいに息を吸い込んで、吐き出した。彼の身体はニコチンに侵されている。

 車のダッシュボードを開けた時、捜査資料の奥に茶色の小瓶が見えた。貼られたラベルから、それが依存性の高い睡眠薬であることを知った。

 医師の許可無しには処方されない強い薬だ。彼は、ニコチンにも、睡眠薬にも依存している。


 悠々と煙草を吹かす黒薙を見ていた。紫煙の向こうに霞む姿が、昨夜、コーヒーの湯気に溶けてしまいそうな葵と重なって見えた。


 心臓が誰かに握られたみたいに、ぎゅっと痛くなる。目を閉じたら、開けた時には彼等がいなくなってしまっているのではないかと思ってしまう。


 今も、怖い。


 家に帰ったら、あの透明人間は忽然と姿を消してしまっているのではないか、と。


 白い煙を吐き出して、黒薙が問い掛けた。




「何処で、気付いた?」




 狭い車内という密閉空間で、逃げ場を失った煙は窓硝子に衝突して消えて行った。

 主流煙とか副流煙とか、そんなことはもう如何でも良かった。兎に角、聞かなければ前へ進めない。




「貴方は熱心に捜査協力しろと言うのに、何かを隠しているようだったから。確信は、無かった」




 和輝が答えると、黒薙は微かに口元を釣り上げたように見えた。ーー笑ったのかも、知れない。




「確証の無いことは、口にしないんじゃなかったのか?」

「だから、ちゃんと確証を持って来た」




 午前の勤務を終えて、大人しく帰宅するつもりだった。葵が勉強を見てくれると言っていたからだ。

 だが、帰路を辿る手前で、黒薙に会った。捜査協力をしろと傲慢に言い捨てる黒薙に、和輝は大人しく従った。抗うつもりは無かった。和輝も黒薙に用があったからだ。

 多分、黒薙もその時点で気付かれたことに気付いたのだろう。


 深夜、四人目の被害者が搬送された。

 病院に搬送された時点で息は無かったらしい。

 被害者は老婆だった。

 軽動脈を切り付けられ、四肢から血液を抜かれていた。足の裏にはmessengerという差出人の名前と、背中にアルファベットが刻まれていた。


 Bだった。

 意味不明のアルファベットは同じだが、これまでと違うところが一点。アルファベットの隣に、ピリオドが打たれていた。

 これで、メッセージは終わりなのだ。


 四人の被害者に関連性は無かった。ーー共通点となる人間がもう、この世にいないからだ。


 黒薙は皮肉そうな笑みを浮かべたまま、戯けるみたいに言った。




「メッセージは何だった?」




 濁すべきか逡巡したが、調べられたら解ることだ。無駄な抵抗は止めて、和輝は素直に答えた。




「Xだった」




 先日、自宅を強襲した男の遺体を見て来た。

 引き取り手の無い無縁仏だった。病院の地下室に安置され、今も凍り付いている。

 凍った背中には、死後に刻み込まれたであろう傷があった。それはばつ印にも見えた。だが、和輝はもう、答えを知っていた。


 GXAB、そして、最後の鍵はXだ。

 これだけで答えを導き出すのは、少なくとも和輝には不可能だった。ーー黒薙が、嘘を吐いていなければ。




「貴方は、誰が殺されるのか知っていたんじゃないですか」




 言葉は疑問を呈しながらも、否定を許してはいない。強い語調で問い掛けると、黒薙は肩を竦めた。




「そうだよ」




 やけにあっさりとした答えに、和輝は肩透かしを食らったような心地になった。

 黒薙はまだ先の長い煙草を灰皿に押し付けて、新しいものを取り出した。




「殺されたのは、あの男の関係者なんだ」




 無意識に、痙攣みたいに両足が震えた。

 今すぐに黒薙の胸倉に掴み掛かってやりたかった。




「じゃあ、何で防がなかった」




 低く、詰問する。

 職務怠慢もいいところだ。だけど、何よりこんなやり方では、黒薙が。


 黒薙が、共犯者みたいじゃないか。


 捜査協力をしろと言った黒薙は独りきりだった。振り返れば、組織の中にいながら単独で捜査しているのもおかしい。彼は始めから全部独りで背負うつもりだったのだ。




「防げなかったのかも知れないし、防がなかったのかも知れない」




 曖昧な言い方だ。

 取り出した煙草に火を点けて、黒薙は続けた。




「お前等の家を襲った男は、FBIの捜査官で、俺の元チームメイトだったんだ」




 和輝は何も言えなかった。

 こんな時程、自分の語彙の貧困さに嫌気が差す。




「犯罪組織に潜入していて、いきなり帰って来たと思ったら、薬物で頭がおかしくなっていた。FBIを辞任して、酒浸りになって、睡眠薬を多用して自殺未遂をして、最期はいきなり一般人の家を襲って事故死だ」




 馬鹿みたいだろ。

 自嘲するように言う黒薙に、和輝は何の言葉も返せなかった。




「誰も、あいつを助けなかった。妻に先立たれ、娘が一人。年老いた母親と三人で慎ましく生活していた。最初に殺された薬の売人は、あいつがおかしくなったきっかけを作った。二人目は、あいつが最後に解決した事件の被害者だった」

「最後は、家族?」




 黒薙は頷いた。

 和輝には、よく解らない。家族は助け合うものだ。だが、もしも、父親がおかしくなったら、如何するだろう。娘を守る為に、距離を置いただろうか。

 少女が搬送された時に泣き叫んでいたのは、母親ではなかったのか。ぼんやりと、そんなことを考えていた。




「あいつの父親は、犯罪組織の構成員で、如何しようもないクズだった。あいつは激しい暴力の中で、母親を守る為に堪え、必死に生きて来た。だが、漸く苦しい生活から脱出して、FBIに入ってからも、生まれを咎める逆風は凄まじかった。そして、犯罪組織もFBIも、死んだら、それまでだ。何の救いもないまま、あいつは殺された」




 生まれを咎める逆風の凄まじさを、和輝は知っている。天才の兄を持ち、母親の命と引き替えにして和輝は生まれたのだ。

 きっと、暴力を受けて来た彼とは比べものにならない。その苦しみがどれ程のものかなんて推し量れないけど、彼が苦しんだということは、解る。




「あいつの関係者ばかりが狙われるから、流石に気付いたよ。これは、復讐なんだって」

「確かに、悲劇的だと思う。でも、だからといって、罪も無い人が殺されるのを黙って見ていたのか!」




 ついに声を荒げて、和輝は訴えた。




「辛い目に遭った人間がいたからといって、それをやり返して何になる! そんなの、不毛じゃないか!」

「そうだよ、不毛だよ。ーー多分、犯人にはそれが解らない」




 そうだ。

 messengerは黒薙ではない。犯人は他にいる。

 大切なことが頭から抜け落ちてしまっていたように思って、和輝は深呼吸をした。

 今は、犯人のことを考えよう。




「犯人は親切のつもりなのさ。売人に復讐して、独りでは寂しいだろうと思って三人の人間を生贄みたいに殺した」

「犯人を知っているんですか?」




 黒薙は首を振った。




「俺は知らない。だが、全ての答えが出揃った今、あいつになら解るんじゃないか?」




 その時、車の窓がノックされた。

 窓硝子の向こうに、不機嫌そうな顔をした葵が立っていた。

 黙って扉を開けて、葵は黒薙を睨み付ける。そのまま和輝の腕を引いて、葵が言った。




「帰るぞ」




 門限に厳しい家庭教師だ。自分は遅刻魔の癖に、こんな時ばかり。

 和輝は苦笑して、車を降りた。扉を閉める刹那、和輝は振り返った。黒薙はハンドルを握ったまま、前だけを見ている。その視線の先には何も無い。




「俺は、罪には罰が必要だと思うし、どんな人間にも救いは無ければならないと思う」

「その為に、罪も無い人間が理不尽に殺されてもか」




 問い掛けたのは、葵だった。黒薙は答えなかった。


 あの男は、薬物依存の異常者として処理された。死亡診断書の処理をしたのは、和輝だった。人の命の軽さに愕然とする程、呆気ない作業だった。


 たった一枚の書類に記された彼の生きた証。

 薬物依存の異常者というレッテル。だが、それだけではないのだと、和輝はもう知っている。


 彼は確かに生きたのだ。どんな人間にだって、思い出の中に生きる権利がある。和輝はそう信じたい。過去の無い人間なんていないのだから。




「失われた命はもう、戻らない。でも、罪は赦される日が来るし、傷痕は残ってもやがて癒える。全部独りで背負い込む覚悟なんてしないで。貴方は生きているんだから」




 例え、辛くて苦しくて、孤独で、逃げ出したい程の逆境だったとしても。




「生きるんだ。それこそが、俺達に出来る唯一の償いで、死者への救済なんだよ」




 黒薙の乗った黒いスポーツセダンが発進する。和輝の言葉が届いたのか如何かなんて、解らない。


 だが、彼が再び此処を訪れることは、無いのだろう。


 彼だって被害者だ。理不尽に戦友とも言うべき同僚を奪われた。死んでも尚、同僚を救ってくれる者はいなかった。


 そんな時に、顔も知らない何者かが復讐を果たしてくれるとしたなら、果たして、止めることが出来るだろうか。犯罪組織からもFBIからも見放された哀れな元同僚の無念を晴らそうとする誰かを、止められるか。

 人の価値観や判断基準は異なる。それを咎めることは、誰にも出来はしない。


 救われたかったのかな。ーー救ってやりたかったな。

 無残に殺された被害者も、元FBI捜査官だったという男も、黒薙も。

 和輝は、そんなことを思う。


 捜査協力をしろと傲慢に言い捨てた黒薙の声が蘇る。あれは、彼の精一杯の助けを求める声だったのかも知れない。







 Xの悲劇

 ⑹悲劇の裏側






 葵と連れ立って歩いていると、安心する。

 霖雨が一緒にいる時の優しさで包み込まれるような安心感とは違う。葵が隣を歩いているという事実が、如何しようもなく和輝を安心させた。


 葵は事の経緯を聞いた後、遠くの空を眺めながら、唐突に切り出した。




「暗号の答えが解ったよ」




 そういえば、暗号だったのだ。

 被害者の背中に残された四つのアルファベットを思い出す。そして、遺体安置室で凍り付いた男の背中にあったメッセージ。あれは一体、何だったのだろう。


 和輝には解読出来ない。恐らく、一生掛かっても不可能だ。

 だからこそ、あのメッセージは、自分ではない誰かに向けたものと解る。




「ヴィジュネル暗号だ」

「何それ」




 和輝が問うても、葵は何も言わなかった。こんな時、葵は度々馬鹿を憐れむような蔑んだ眼差しを向けて来た。今はそんな余裕も無いということだろうか。それとも、ただ単に面倒だったのか。




「十五世紀後半から十六世紀後半に掛けて考えられた多表式の換字式暗号だよ」

「何を言っているのか解らない」




 葵は溜息を吐いて、今度こそ憐れむような目を向けた。

 いいか、と言い置いてから、葵は携帯電話を取り出した。目にも留まらぬ指捌きで、葵は何かを打ち込んでいる。


 如何でもいいことだが、暗号と聞くと何故だか心が躍る。


 和輝は、黙って葵の作業が終わるのを待っていた。


 出来たぞ、と言って見せられたのは、目がちかちかするようなアルファベットの表だった。上段と左段には、アルファベットが規則正しく並んでいる。

 表の中はアルファベットが犇めくようにびっしりと書き込まれていた。先程の胸の高鳴りは消え失せ、既にうんざりしている。




「これが、 ヴィジュネル方陣。解読方法は幾つかあるが、今回は鍵が手に入っているから、当て嵌めるだけでいい」




 まずは、Gからだ。

 何時に無く丁寧に教えてくれるらしい葵には悪いが、和輝はもう白旗を振りたかった。

 葵の解読を待ち、和輝は適当な相槌を打っていた。




「GXAB、鍵をXとするとーーJADE」

「ジェイド?」




 何処かで聞いたことのある言葉だ。

 何処だったかなと記憶を探り、和輝は思い出した。


 以前、異常者が病院を襲った。

 偶々訪れていた葵が巻き込まれて、和輝と霖雨は救出に向かったのだ。そして、ジェイドとは、血と火の海になった其処で会った若い医師だった。


 先天性の奇形と致命的な免疫不全を持つ青年の主治医をしていた。


 だが、彼は患者の適した環境は院内では無く外界なのだと主張して、患者を研究材料と見做していた学会を無視し、地方へ左遷させられたのだ。


 結果、彼の言う通り、患者は見違えるように生気を取り戻し、現在は世界中を旅して回っているらしい。


 一方で、学会を敵に回した彼は、今も出世の望めない田舎の診療所で医師としての職務を全うしているらしい。


 和輝は、事件に巻き込まれ、救助された時に一晩だけ同室となった。


 悪い人間じゃない。むしろ、お人好しが過ぎるくらいだった。

 如何して、彼の名前がこんなところに?


 和輝が小首を傾げていると、葵は能面みたいな無表情になっていた。




「JADEは、深緑の半透明な宝石のことだ。和名はーー翡翠」




 その名を聞いた瞬間、和輝の肌はざわりと粟立った。


 翡翠。

 それは、和輝や葵にとっては特別な名前だった。


 如何して、翡翠が?


 そんなこと、場を和ませる冗談でも言えなかった。和輝は直感した。messengerの正体は、翡翠だ。


 翡翠は、和輝が喫茶店でアルバイトをしていた時の同僚で、サーフィン仲間だった。

 だが、その素性は謎に包まれ、記録上、彼は存在していない。

 名前や年齢、経歴全てが嘘で塗り固められた質量のある幽霊だ。


 翡翠は、和輝が嘘を見破れなかった唯一の人間だ。


 翡翠は、孤独に死んだあの男の為に復讐することを決めた。それなら、何故、罪も無い人も惨殺したのだろう。

 確証は無いが、確信はある。

 自分と翡翠の判断基準や価値観は異なる。これはただの復讐ではない。




「今度、ジェイドさんのところに行ってみようか」

「そうだな」




 葵は空返事をして、歩き出した。


 また会いましょう。

 翡翠の残した手紙の一文が蘇ったが、冷たい風の中に溶けて、消えた。


 凍り付いたように無表情の葵を追って、和輝は歩き出した。

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