⑸狢
雪が降っている。
もうじき春が来ると思っていたけれど、まだ先のことなのだろう。
マフラーに顎を埋めて、和輝は帰宅した。
先導する霖雨の後を追って玄関を潜ると、透明人間が仁王立ちしていたので驚いた。まるで、待ち伏せしていたみたいだ。
「おかえり」
地を這うような低い声で、葵が言った。
不機嫌さを隠そうともしない態度は、多分、自分に対する信頼なのだろう。
和輝が「ただいま」と返すと、葵は踵を返してリビングへ戻って行った。
待っていてくれたのかなと、和輝は、何となく思った。
夜中に胃炎で嘔吐した霖雨と、訳の解らない連続殺人事件に巻き込まれかけている自分のことを、気に掛けてくれているのだろうか。
口にも態度にも出しはしないけど、それが、神木葵の優しさなのだと思う。
葵と霖雨の背中を追いながら、和輝は隠し事が見透かされているような居心地の悪さを感じていた。これから、叱られるような気がして、憂鬱だ。
廊下を抜けると、リビングのテーブルには湯気の昇る三人分のコーヒーが用意されていた。随分と準備が良いじゃないか。
二人に挟まれ、殆ど連行される形でソファへ座る。完璧な連携で両隣はしっかりと固められ、既に逃げ場は無かった。
コーヒーの注がれたマグカップを片手に、葵が言った。
「聞いてやるから、話してみろ」
柔らかな湯気の昇る向こう、葵はそのまま空気に溶けてしまいそうに見えた。
語調は優しいけれど、風向きが怪しいと流石に解る。事情聴取というよりも、尋問に近い。和輝は顎に手を添えて答えを考えた。
「何から話せばいいのか解らない」
「馬鹿なんだから、上手く伝えようだなんて思わなくて良い。初めから話せ。軌道修正はしてやるから」
酷い言い様だ。けれど、返す言葉も無い。
和輝は此処数日の出来事ーー黒薙と出会った経緯から話し始めた。
夜勤中、緊急搬送があったこと。
それは違法薬物の売人で、捜査に当たっていた黒薙がやって来たこと。
黒薙はFBIの犯罪行動分析課の職員で、葵の身内や和輝の知人を介して、自分達のことを知っていたこと。
違法薬物に関連する連続殺人が起きていて、鼻の利く麻薬犬として、捜査協力を依頼されたこと。
それを受理してはいないけど、巻き込まれていること。
殺された少女が搬送されたこと。
背中にメッセージが刻まれていたこと。
和輝は、拙いながらも懸命に話した。何か抜け落ちていることがあれは、二人が追及し、補足した。
嘘は真実の中に隠すべきだと言う。
この場で偽りを述べる意味は無い。
「海外ドラマみたいだね」
霖雨が、そんな感想を言った。和輝も概ね同感だった。
こんな非日常的な出来事は、自分に関わりが無い。
コーヒーを啜り、普段と変わりなく葵が淡白に言った。
「行動範囲の狭いシリアルキラー(Serial killer)は、捕まるまで次々に殺す。その間隔は短くなって行くだろう」
和輝は頷いた。
瞼を下ろすと、幼い少女の無残な遺体が浮かび上がる。その度に恐ろしくなり、遣り切れなくなる。
自然と俯いた和輝の頭の上で、欠片も動揺を感じさせない葵が原稿を読むみたいに話し始める。
「暗号のようなメッセージを残すのは、警察への挑戦状だろう。早く俺を捕まえないと、次の被害者が出ると脅迫している」
「如何して、男だと思うの」
「被害者は、共通して頸動脈を切り裂かれている。それから、四肢の動脈を切って血を抜いている。拘束した形跡も無い。断定はしないが、女の力では難しいだろう」
葵の講義を受けて、霖雨が嫌そうに顔を曇らせる。彼には刺激が強かったのかも知れない。
「この殺し方は狩猟と同じだ。犯人は被害者を人間と思っていない。暴行の形跡も無いみたいだし、死んだら無機物扱いだな。其処等にあるメモ帳くらいに思っている」
「だから、手紙代わりにメッセージを残すの?」
「そうだ。足の裏に自らの名前を残すのも、同じ理由だよ」
和輝には、正直、理解出来ない。
命には価値があると思うし、死んでも尊厳は守られ、遺体は手厚く葬るものだと考えている。他人を苦しませたり、辱めたりしたいとは思わない。
眉を寄せた霖雨が、問い掛ける。
「メッセージの意味は?」
「手掛かりが少な過ぎて解らない。だが、意味はある。メッセージを残すことが目的で、殺害はおまけなんだよ。目に留まるように派手な付箋を選ぶのと同じ理由だ」
「人でなしだな」
「人でなしだよ。殺し方は決まっているのに、ターゲットには共通点が無い。色々な人間を殺したいんだろう。それか、違法薬物を投与することが目的なのかも知れない」
其処で葵の言葉は途切れた。何かを考え、それから冷静に答えを口にした。
「逆かな。薬物を投与した結果が出たから、殺しても構わなかったのかも」
「如何いうこと?」
「犯人は違法薬物の人体実験をしている。だから、様々な人間をターゲットにする」
「非道だ」
「非道だよ。洗練された遣り口から、これが初犯ではないと解るだろう。犯人は人殺しに慣れている」
淀みなく話し続ける葵の冷静さには助けられる。けれど、和輝にはそれが頼もしく、同時に恐ろしかった。
犯人が他人の痛みに共感しないサイコパスだと言うのなら、その心理を分析出来る葵だって同じ穴の狢だ。
「ーー結論、単独犯相手なら兎も角、犯罪組織を相手に、一般市民が協力出来ることは、無い」
葵は断言した。自分の言葉に絶対的な自信を持ち、一切の迷いが無い。
此処で葵に反論しても勝機は無いし、無意味に逆鱗に触れるのは余りに非生産的だ。
けれど、むずむずしてしまって恐る恐る訴えた。
「黒薙さんは、違法薬物を察知出来る鼻の利く麻薬犬として、俺に協力を求めていた」
「これは、お前の手に負える事件じゃないよ」
「解決出来るだなんて、思ってない。でも、誰かが殺されるのを黙って見ているのは、辛い」
葵は、マグカップを叩き付けた。乾いた音が響き渡って、室内は水を打ったように静かになる。
和輝は口を噤んだ。何か、まずいことを言ったのかも知れない。
「ヒーローごっこも大概にしろ。お前、自意識過剰だよ。お前には何も出来ないんだから、効率良く取捨選択しろ。望まぬトラブルが降り掛かるのなら、尚更だ」
人をトラブルメーカーみたいに言うのは止めて欲しい。
だが、葵の言うことは正論であるし、同じような警告を以前にもされた覚えがあるので、返す言葉が無かった。
和輝が黙ると、霖雨が苦い顔をして庇ってくれた。
「こいつは単純に、お人好しなんだよ。自己中心的な人もいれば、他者中心的な人もいるだろう。損得ではなく、信念に従って生きている。これは和輝の長所で、人間の美徳だ」
「その美徳の為に、こいつは死ぬぞ。事実、こいつは身の丈に合わないトラブルに介入して死んだことがある」
「和輝の無鉄砲や無謀を許容しろと言っているんじゃないよ。ただ、その人格まで否定するなと言っている」
「人格だの、人間性だの、浅い言葉だ。上辺だけの屁理屈を捏ね繰り回して、客観的事実すら蔑ろにするのか?」
如何して、この二人が言い争う必要があるのだろう。和輝は、二人の話し合う内容がよく解らなかった。
自分がお人好しだなんて思わないし、取捨選択もする。それに、現在生きている自分に向かって死んだとは何事だ。
口を挟みたいが、酷い剣幕の二人を前にして掛ける言葉は何も無かった。教育方針の違いを言い争う両親と、その間に挟まれた子どもみたいだ。
退屈になってしまって、和輝は当事者ながら現実逃避のように考え事を始めた。
messengerの狙いは何だろう。
葵の言うように、違法薬物の実験をしているのなら、わざわざ警察に挑戦状を叩き付けるような真似をする必要はないだろう。
これは、本当に警察への挑戦状なのか。
組織に対する挑戦ではなくて、もしかしたら、特定の個人へ向けたメッセージなのかも知れない。
頭の中で、三つのアルファベットが舞い落ちる木の葉のようにくるくると回る。
チームで仕事をする時は分担した方が効率が良い。警察の仕事は警察がするだろう。それなら、自分に出来ることは何だろう。
ヒーローになりたいとは思うけど、なれるとは思わない。目に見える全てを救える筈なんて無い。だから、取捨選択をする。
犯罪組織は、違法薬物GLAYの開発を進めている。無味無臭でありながら、一度でも口にすれば二度と現実には戻れない依存性。望む物を見せる幻覚作用。天国へ行くかのような高揚感。小さな錠剤の形をしていたそれは、液体や気体でも同様の効果を発揮するのだろうか。
もしかすると、犯罪組織の行っている実験は、それではないのか。
被害者は液体や気体の違法薬物を服用させられ、結果、殺された。
メッセージだ。早く捕まえないと、もっと沢山の人が死ぬよ。だから、早く捕まえてみろ。
犯罪組織ーーDevil's Children。
D.C.と呼ばれる田舎のヤクザだ。これは組織犯罪なのだろうか。それなら、黒薙が出張る理由は無い。
考えろ。思考を止めるな。メッセージの意味を考えろ。組織にとっては実験動物でしかない被害者を、わざわざ悲劇的に見立てて、意味深なメッセージまで残した理由は何だ。
ーーこの犯人、もしかして。
「犯人は、薬物依存の異常者なのかな」
ぽつりと零された霖雨の言葉に、和輝の思考は浮上した。如何やら、二人の言い争いは収束したらしかった。
直様、葵が否定する。
「薬中の異常者に、こんな周到な犯行は難しい」
「組織犯罪の可能性は?」
「遣り口の同一性から下手人は単独だろうが、その背後に犯罪組織がある可能性は高いと思うよ」
「D.C.か」
「多分ね」
霖雨は頭を抱えた。
酷く疲れている様子だったので、和輝はその背中をさすってやろうかと思った。だが、振り返ってみると原因は自分だったので、申し訳無くて、止めた。
出し掛けた手を引っ込めるのも気が引けて、誤魔化すようにマグカップへ手を伸ばした。コーヒーはすっかり冷めている。
熱くもないけれど、ルーティンワークのように息を吹き掛けていた。
視線を感じて和輝がふと顔を上げると、二人分の眼光が突き刺さった。
「絶対に関わろうとするな」
警告するように、念を押すように、抜ける事の無い楔を打ち込むように、葵と霖雨が口を揃えて言った。それは刃のように鋭く、和輝に突き刺さった。
エマージェンシーコールが聞こえるような気がした。残念ながら、此処に逃げ場はない。
「俺が望んで巻き込まれているみたいに言わないで」
言い訳がましい言葉は、二人には届かなかったらしい。
葵と霖雨はその視線を緩めることなく、和輝が頷くまでぴくりとも動かなかった。
Xの悲劇
⑸狢
就寝の用意をしていると、自室の扉が叩かれた。
和輝は明日の支度をしていた。午前中の勤務後、真っ直ぐに帰宅する予定だった。午後は葵が遅れがちな大学の授業の面倒を見てくれるらしい。体の良い見張りだ。
扉は、和輝の応えを待たずに開かれた。
この無作法さは葵だろうと思ったが、予想に反して、扉の向こうには霖雨が立っていた。
驚いて見ていると、霖雨は黙って部屋の中に入って来て、机に据え付けた椅子へ座った。
何時に無い遠慮の無さだ。何があったのだろう。
霖雨は息を吐いた。部屋の空気まで重くなる深い溜息だった。
「さっきの葵の話、如何思った?」
如何、と言われても、解らない。もっと具体的に言って欲しい。
質問の意味が解らず、和輝は正直に答えた。
「肝に銘じようと思った。身の丈に合わないトラブルには、介入するべきじゃない」
それは、結構なことだ。
霖雨は笑った。
「俺は聞いていて、怖くなった。犯人も、ーーそれを理解出来る葵も」
「理解出来ているかなんて、解らないだろ」
「正解か不正解かではなくて、人間的な感情の付随しない様が恐ろしいと言っているんだよ」
同じことを、和輝も思った。十人十色とは言うが、自分や霖雨と、葵の思考回路は余りに異なる。
だが、それを口に出して肯定することは躊躇われた。まるで、陰口を叩いているみたいで後ろめたいからだ。
和輝が黙っていると、霖雨が続けて言った。
「俺は消極的な思考回路をしているから、嫌な想像ばかりしてしまう」
「どんな?」
問い掛けると、霖雨は少しだけ笑った。
「例えば、和輝や葵が被害者になるかも知れないとか」
「俺達ってそんなに頼りない?」
霖雨は、笑って首を振った。
葵の思考回路は理解出来ないが、霖雨の消極性も理解し難い。彼は優しくて、慎重過ぎる。
和輝は苦笑した。
人によっては優柔不断とも捉えられるかも知れないが、少なくとも、和輝にとってはそれは優しさなのだ。
先程のリビングでの殺伐とした会話が和んだ気がした。だが、それを破壊するみたいに霖雨が唐突に問い掛けた。
「自分が殺されるのと、自分が誰かを殺すので、より最悪なのは?」
「自分が誰かを殺すこと」
和輝は条件反射みたいに迷わずに答えた。
質問の意図は解らないが、当然の答えだった。
自分が殺されるのなら、悲劇的ではあるが其処で完結している。だが、後者は終わりではなく、悪夢の始まりだ。
終わるよりも、続く恐ろしさを知っている。瞬間的な死よりも、継続的な生の方が救いはあるけれど。
霖雨は答え合わせをせずに、更に問い掛けた。
「じゃあ、自分が誰かを殺すのと、大切な誰かが殺されるのは?」
嫌な質問だ。和輝は答えられなかった。
自分の命か、大切な誰かの命かなら、選ぶまでも無かった。だが、この質問は、卑怯だ。どちらを選んでも、自分以外の誰かが殺される。
沈黙を答えと受け取ったらしい霖雨は、苦笑しながら謝罪した。
「意地の悪いことを訊いて悪かった。でも、安心した」
「何に」
「君の誠実さに」
誠実なのだろうか。和輝には、よく解らない。優柔不断は不誠実なのではないだろうか。
加害者になるよりは、被害者である方が良い。こんな自分は、ずるいと思う。
和輝は問い返した。
「霖雨は?」
「大切な誰かが殺されること」
霖雨が即答したので、和輝は困ってしまった。
確かに、そうかも知れない。それが正解にも思える。葵が言ったなら、何をしてでも止めなければと思うのに、霖雨が言うと窮鼠猫を噛むというような正当防衛の状況が目に浮かぶ。
和輝は言った。
「葵も、同じことを言うような気がする」
「あいつも俺も、交友関係が狭いからね」
そう言って、霖雨は席を立った。
「遅くにごめんな。おやすみ」
此方の返事を聞くより早く、霖雨の姿は扉の向こうに消えた。
独りきりになった室内が、奇妙に広く、静かに感じられた。
霖雨なら、殺すくらいなら、殺されるのだろう。
葵なら、殺されるくらいなら、殺すだろう。
人の価値観や考え方はそれぞれで、其処に正解や不正解は無いのだろう。
彼等には彼等の判断基準や優先順位がある。極限の状態で正常な判断が下せなかったとしても、責められる謂れは無い。
和輝は、訊いてみたかった。
ーー彼なら、どんな答えを出すのだろう。
棚の奥から、飾り気の無い不織布で覆われた箱を取り出した。母国からの溢れんばかりのエアメールが保管されている。
その、一番下。隠すように、閉じ込めるように、一通の真っ白い封筒が仕舞い込まれている。差出人の無い白亜の封筒には、女性的な美しいインクの文字が記されていた。
宛先は和輝だった。
中には二つ折りの真っ白いコピー用紙と、小指の第一関節程も無い小さな緑色の石が入っていた。
See you again!
滑らかな筆記体は、自身の正体に触れることなく、それだけを告げている。
また会いましょう。また、会うのだろう。それも、そう遠くない未来に。
そんな予感がして、和輝は窓の外を見た。
窓硝子は薄く凍り付き、ビロードの空にはバナナみたいな三日月が光っている。窓を開けると冷たい夜風が吹き込んで来て、和輝は身震いした。
夜風と共に吹き込んだ雪の結晶が、皮膚に付着し溶けて行った。
もうすぐ、春が来る。
独り言と共に吐き出した白い息は、何処かに霧散してしまった。