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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Xの悲劇
25/68

⑷疑念

 朝起きると、家の前に黒のスポーツセダンが停められていた。既視感ある光景だ。

 和輝は朝日を反射する車体を如何したものかと考えながら、取り敢えず、無視することにした。


 今日も夜勤のある事務職という名の便利屋へ出勤だ。余計な体力は使いたくない。

 見送りに玄関まで来ていた霖雨が、まるで軽蔑するみたいに車を顎でしゃくった。




「あれが、噂の捜査官?」




 車の窓がするすると下ろされて、中からは不機嫌そうな顔の黒薙が現れた。

 黒薙は軽く手を上げ、助手席の扉を開けた。

 送ってくれるのかも知れない。満員電車に乗るのと、違法薬物捜査に巻き込まれるのは、どちらがマシなのだろう。


 和輝が恐る恐る歩み寄ると、仏頂面の黒薙がハンドルを握ったまま此方を睨んでいた。

 元々の目付きが悪いので、機嫌が悪そうに見えるのはデフォルトなのかも知れない。




「乗れ」




 傲慢に言い放った黒薙に、和輝は苦笑する。

 悪い人間ではないのだと思うが、この顔や言動で損をして来たことだろう。


 見送りに来てくれた霖雨へ声を掛けようと振り返る。すると、玄関にいた筈の霖雨がサンダルを突っ掛けて側まで来ていた。

 大きな瞳が運転席の男を品定めするように映している。




「貴方が、黒薙さん?」

「ああ」

「悪いんですけど、和輝を巻き込むのは止めて欲しい」




 低姿勢ながらきっぱりと、霖雨が言った。

 黒薙は驚いたように目を瞬かせたが、仏頂面は崩れなかった。多分、元々表情豊かな性質ではないのだろう。




「心配なのも解るが、彼の安全は保障する。話を聞くだけだ。捜査には彼が必要なんだ」




 自分が果たして何の役に立つのか知らないが、必要とされると断れない。

 和輝は困ってしまって、結局、霖雨を見た。

 霖雨は毅然とした態度を崩さないまま、言った。




「こいつは善良な一般市民だよ。貴方達が保護するべき対象だ」

「ああ」

「頼むから、危険な目には遭わせないで」




 霖雨の声は、懇願するような響きを帯びていた。和輝は励ますようにその肩を叩き、助手席へと滑り込んだ。


 車が発進する。その姿が見えなくなるまで、霖雨は其処で待っていた。


 車内は沈黙に支配された。静かなエンジンの音ばかりが響き、黒薙は一向に話を切り出さない。これでは、話が終わる前に勤務先へ着いてしまう。


 協力してもいい。だが、優先順位がある。

 和輝がそっと顔を上げて様子を伺うと、黒薙が言った。




「心配性なお友達だね」

「俺の保護者みたいなものなんだ」




 悪戯っぽく笑うと、黒薙も幾らか肩を楽にした。

 緩慢な安全運転で、車は勤務先の病院へ向かっている。本当に送り届けてくれるらしい。


 中々話題を切り出さない黒薙に代わり、和輝は口を開いた。




「今度は、Xだって?」




 黒薙は冷ややかな一瞥を送った。今更、怖気付くような細い神経は持ち合わせていない。和輝は続けた。




「何のメッセージか知らないけど、犯行はまだ終わらないんだろ」




 引用元は明かさずに言葉にすると、黒薙は訝しむように眉を寄せた。




「神木葵に話したのか?」

「いけませんでした?」

「いや、予想の範疇だ」




 和輝に犯罪者の心理なんて解る筈も無い。誰かに助言を仰ぐことくらい、予想していただろう。


 黒薙の表情には変化が無い。表面からその真意を探ることは難しい。

 車が信号で停まった時、黒薙が言った。




「足の裏に、messengerという文字が焼き鏝で刻み込まれていた。どういう意味だと思う?」

「何で、足の裏なんだ。裸足だったんですか?」

「靴を履いていた。一度脱がせて、焼き鏝を当ててから、戻したんだ」

「手が込んでいますね」




 和輝は、顎に指を添えて想像した。

 自分が誰かにメッセージを届けるのなら、如何するだろう。


 電話?

 メール?

 否、自分ならば直接、話をする。相手の顔を見て、自分の言葉が正しく届いているのか確認したいと思う。間違っても、他人の足の裏になんて刻みはしない。


 足の裏に刻まれたというメッセージを想像して、何かが頭に引っ掛かる。遺体の状態を想像しようとしたが、和輝にはそれが酷く困難だった。まるで、人の死を冒涜しているような気がして、恐ろしかった。

 考えを整理する為に、和輝は口を開いた。




「あのアルファベットは、特定の誰かへ向けられたメッセージなんだ。靴を履いていた遺体の足の裏を見るなんて、警察関係者くらいでしょ」

「現場保存を考えると、その場で遺体の靴を脱がせることは少ない。確実なのは、検視する時だ」

「じゃあ、犯人は検視官へメッセージを残したの?」

「それにしては、回りくどいだろう。俺ならメッセージは傷口に仕込むよ」




 和輝は顔を顰めた。

 俺なら、他人に焼き鏝なんて当てない。




「俺の頭は捜査向きじゃない。犯人の立場で考えるのは難しい」




 そうだな。

 黒薙が短く言って、車は発進した。それ以降、車内は沈黙に包まれた。








 Xの悲劇

 ⑷疑念







 喧騒に包まれるナースステーションに、緊急搬送のベルが鳴り響いた。一台の担架が颯爽と滑り込み、救命救急医の白衣が翻る。女性の悲痛な嗚咽が、リノリウムの床を滑る車輪に吸い込まれる。


 和輝が見たのは、廊下を通過する一団の姿だった。一日に運ばれて来る急患の数を鑑みると、それは特筆すべきことではなかった。ただ、蛍光灯の光を眩しく反射している美しい金髪がやけに目に付いた。


 事務職という体の良い雑用から解放され、和輝は真っ直ぐに更衣室へ向かった。

 帰り道に買い物を済ませるつもりだった。葵がリクエストした出汁巻き卵を作ろうと思う。胃炎を患う霖雨のことも気掛かりだった。


 烏の行水の如く大急ぎでシャワーを浴びて、着替えを済ませて病院を出た。サービス残業有給未消化が当たり前になるのは、雇用主は勿論だが、被雇用者側にも問題ある筈だ。献身的に働いたところで、アルバイトの見返りは少ない。時間は有限であるからこそ、有意義に使うべきだ。


 門扉に黒塗りのスポーツセダンが横付けされていた。見覚えのある光景だった。

 和輝はそっと目を背けて帰路を急ごうとした。けれど、車窓がするすると下りて、運転席から黒薙の仏頂面が見えた。




「メッセージが届いたよ」

「郵便屋さんみたいですね」




 おどけてみるが、黒薙は眉一つ動かさなかった。相変わらずの鉄面皮だ。

 助手席を勧められたが、和輝は断った。正直、これ以上、関わりたくなかった。


 医療現場に携わる仕事とはいえ、血腥さに慣れている訳ではない。凄惨な殺害現場を見て、何も思わない訳ではない。被害者の苦痛や、遺族の悔恨を想像すると胸が潰されるように苦しい。




「三つ目のメッセージは、Aだ。被害者は、九歳の女の子だったよ」

「ーー子どもが、」




 和輝は言葉を失った。

 フィクションの出来事が、急に熱を持って目の前に現れたみたいだった。


 写真を見せられて、息を呑む。血塗れの少女が路上に投げ出されている。放射状に広がった美しい金髪に木の葉が落ちて、犯行現場はまるで一枚の完成された絵画のようだった。


 遣り切れなくて、和輝は目を伏せて問い掛けた。




「それは、何を意味しているのですか」

「解らない。だから、手掛かりを探している」




 言われてみて、三つのアルファベットを思い浮かべる。

 最初はG、次はX、三つめはAだ。並べてみても、区切ってみてもさっぱり解らない。果たして、自分に捜査情報を漏洩して、その見返りはあるのだろうか。リスクの方が高そうだ。


 訝しむように黒薙が見詰めている。黒曜石のような瞳に感情の機微は無く、まるで、鏡を覗き込んでいるような不安な心地になった。


 深淵を覗く者は。

 何処かで聞いた格言が耳の奥に蘇り、和輝はその思考を放逐するようにして頭を振った。




「犯人の考えが解りません。伝えたいメッセージがあるのなら、伝わるようにしなければ何の意味も無い」

「それを誰に宛てたのかが問題だ。対象以外に伝わることを避けているんだろう」

「誰が対象で、誰が対象外なんですか。messengerは、誰に」




 其処で、和輝は口を噤んだ。

 犯人は誰へメッセージを残したのか。そして、それは、誰から託されたものなのだろうか。


 違法薬物、犯罪組織、異常殺人、残されたメッセージ、足の裏の刻印。和輝の脳裏にはこれまでの情報が目まぐるしく再生された。messengerは、ただの郵便配達員なのではないだろうか。それを指示した何者かがいる。


 遺体の足の裏に刻まれた名前は、正しく、消印だ。messengerが正しくそれを届けたことを、依頼人へ知らせる為の手段なのだ。


 何故だ。

 何故、殺した。

 死者を刻まなくとも、それを伝える手段は幾らでもある。それでなければならなかった理由は何だ。


 違法薬物の売人、独り暮らしの女性、幼い少女。共通点は無い。多分、共通項が無いことに理由がある。




「お人形みたいだ」

「人形?」

「お人形はね、足の裏に製造番号を記すんだよ」




 見えないように、けれど、解るように。

 この犯人は最低だ。被害者に対する罪悪感、後悔や良心の呵責も無い。人間扱いすらしていないのだ。


 虫唾が走る。腸が煮え繰り返る。ーーけれど、この遣り口を、和輝は知っている。


 黒薙の目が細められ、鋭い眼光が和輝を射抜いた。




「お前、何かを知っているな」

「知りませんよ」

「情報は開示しろ」

「口は禍の元と言うし、確証の無いことは口にしない。黙秘権を行使する」




 肯定しているも同じだ。

 黒薙が吐き捨てた。だが、和輝は譲らなかった。根拠の無い悪質なデマが人を如何に傷付けるのか、痛い程に知っている。


 その時、聞き覚えのあるエンジンの唸りが聞こえた。反射的に和輝は其方へ目を向けた。

 夕日を反射するシルバーボディが目に眩しかった。




「帰るぞ」




 霖雨だ。

 厳しく眦を釣り上げて、此方を睨んでいる。

 渡りに船だと、和輝は駆け寄った。


 ヘルメットを投げ渡して、霖雨は黒薙を睨んで念を押すように言った。




「こいつを巻き込まないで、と言いましたよね?」

「情報提供を求めていただけさ」

「こいつは無関係だ」

「能動的か受動的かの違いだろう」

「何か、証拠でも?」




 黒薙は、何も言わなかった。

 彼の所属する犯罪行動分析課という業務を考えると、確たる証拠は後付けになるのだろう。統計データから犯人像を導き出し、其処に当て嵌まらない者を除外し、推論して行く。


 それは、現代において信頼の出来る捜査方法なのだろう。時を重ねるに連れてデータは蓄積し、肉付けされる。けれど、和輝には解らない。


 データが全てとは思わない。それでも、根拠は必要だ。だから、確かめなければならない。


 和輝は拳を握った。質量の無い鍵が、其処にあるような気がした。

 自分には、防ぐことが出来たのかも知れない。助けることが出来たのかも知れない。それが慢心であったとしても、諦められない。だから、苦しい。


 これ以上、自分の立場を悪くする必要も無い。時として、沈黙は雄弁になる。和輝は誤魔化すようにしてヘルメットを被り、バイクの後部座席へ座った。


 サイドミラー越しに、何か言いたげな霖雨と目が合った。和輝はそれを黙殺し、黒薙へと目を向けた。

 真っ黒な瞳に、自分達の姿が映っている。追及される前に、霖雨はバイクを発進させた。

 唸りを上げて滑り出した車体を、追い掛ける者はいなかった。


 帰路を辿る霖雨に、買い物に行こうとしていたことを告げる。霖雨は黙って商店街の方向へ帰路を変更させた。


 信号待ちの途中、霖雨が言った。




「いいかい。ーー道を選ぶ時、敢えて困難な道を選ぶ必要は無いんだよ」




 エンジンの鼓動に掻き消されそうな、けれど強さを滲ませた声だった。和輝は目を伏せ、その意味を頭の中で噛み砕く。


 霖雨の言いたいことは、解る。彼は何時だって自分の身を案じてくれる。危険なことには首を突っ込んで欲しくないと思っている。


 和輝とて、霖雨に心配を掛けるのは本意ではない。けれど、時々、解らなくなる。


 楽して選んだ道よりも、困難な道を選ぶ方が良い。自分に言い訳が出来る。


 アスファルトの道が悪い訳じゃない。獣道だって茨の道だって、間違っている訳じゃない。けれど、怠惰が習慣になるのなら、一度でも手を抜く事を覚えてしまうと、大切なことを見落としてしまうような気がする。


 信号が変わった。

 バイクが発進する刹那、和輝は言った。




「妥協は習慣になってしまいそうだから」




 掴めなかった掌がある。答えられなかった声がある。見抜けなかった嘘がある。

 常に自分に問い掛ける。

 慢心は無いか。最善を尽くしたか。後悔の無いように生きているか。


 排気音に掻き消されても構わなかった。だが、答えを求めなかった言葉に、霖雨は当たり前みたいに返した。




「難儀な性格だねえ」




 そう言って、霖雨は笑ったようだった。

 サイドミラーの向こう、霖雨の口元に微かな笑みが浮かんでいる。幼児の駄々を許容する保護者のようだ。


 でもね。

 霖雨が、言った。




「お前の歩く空が晴れていると、俺は嬉しい」




 その言葉に、何故だか許されたような気がした。途方も無い祈りが届いたように感じられて、和輝は息を呑んだ。


 今なら、届くかも知れない。許されるかも知れない。


 少し前の自分なら、黙っていた。他者を巻き込むことは本意ではない。友達が苦しむくらいなら、独りで抱え込んだ方が良いと思っていた。だが、和輝はもう、知っている。


 自分が傷付けられた分だけ、友達も傷付くことがある。ーーそして、自分が傷付くよりも、友達が傷付く方がずっと辛い。




「話を、聞いてくれる?」

「いいよ。その代わり、美味いコーヒーを淹れてくれよ?」




 易い対価だ。

 コーヒーくらい、幾らでも淹れてあげる。うんと美味いコーヒーを淹れる為に、幾らでも骨を折る。だから、それを飲む間だけでも良いから、話を聞いて。


 和輝は、釣られるようにして笑った。

 何故だか、涙が溢れそうだった。


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