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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Xの悲劇
24/68

⑶不吉な予言

 死んでいるみたいだ。


 昏々と眠る霖雨を見下ろして、和輝は背中を焼かれるような焦燥感に襲われた。

 蒼い顔はマネキンのようで、唇は血の気を失って白く染まっている。固く閉ざされた瞼は開かれる様子も無く、僅かに上下する胸部ばかりがその生命を知らせている。

 寝息すら聞こえない静かな室内に、霖雨がこのまま溶けて消えてしまうのではないかと思った。


 今すぐに叩き起こしたい衝動に駆られるが、葵の話によると朝方に落ち着いて眠ったばかりだそうだ。起こす訳にはいかない。


 霖雨は、日付上では今日の深夜に起き出して、嘔吐していたらしい。

 上手く吐けない様子だったので、葵が喉の奥に手を突っ込んで吐かせた。それが介抱と呼べるかは別として、一応、それで霖雨は落ち着いたようだ。


 ストレス性の胃炎とのことだが、何が彼を深夜に嘔吐するまでに追い込んでいるのか、和輝は知らない。知らないということが、何より歯痒かった。


 念の為に脈拍と体温を測るが、凡そ平常値だった。呼吸は安定している。

 和輝は僅かに乱れた毛布を掛け直してやり、そっと部屋を出た。


 リビングでは、葵がソファで胡座を掻いていた。マグカップを片手に悠々とコーヒーを啜る様は、他人事と割り切っているらしい。

 事実として、現時点の自分達に出来ることは何も無かった。

 和輝はソファへ歩み寄った。




「ストレス性って、何があったんだ」




 何が霖雨の胃を破壊したのだろう。

 和輝が問い掛けると、葵は顔も上げずに答えた。




「俺が知る筈無いだろ」

「昨日までは普通だったのに」

「ストレスって、借金と似てるよな。小さな積み重ねが、或る日突然、爆発する」




 ストレスとは程遠い隠居生活をしているみたいに、葵が達観して言った。


 霖雨は感受性が豊かだ。他人の気持ちに共感し易い。本人も知らず知らずの内に、何かを抱え込んでいたのかも知れない。

 同じ屋根の下で暮らしていても、解らないことは沢山ある。だからこそ、人は言語というコミュニケーションツールを使用して互いのことを知ろうとするのだ。

 思えば、ここのところトラブル続きで、ろくに彼の話を聞いていなかった。霖雨はいつも巻き込まれるばかりだ。当たり前のようにフォローしてくれるから、甘えてしまっていた。


 和輝が俯いていると、漸く顔を上げた葵が退屈そうに言った。




「あいつは弱いんだよ。もっと負荷を与えて鍛えた方がいい」

「お前と違って、繊細なんだよ」

「お前に言われたくない。恐竜並みに神経図太いだろ」

「恐竜って、神経太いの?」

「比喩だろ。そのくらい、察しろよ」




 葵は溜息を零した。

 多分、自分はストレス耐性が高いのではなく、鈍いのだろう。和輝はそんなことを思った。霖雨は思慮深いのだ。




「薬、呑んだかな」

「呑んでないよ。消化物と胃液を全部吐いたから、胃の中は空っぽだ」

「何か、消化に良いものを作るよ」

「チゲ鍋が食べたいな」

「引っ込んでろ」




 吐き捨てて、和輝はキッチンへ向かった。

 自分が図太く愚鈍だというなら、葵も大概だ。けれど、和輝はキッチンの戸棚から土鍋を取り出していた。

 冷蔵庫の中にはキャベツと豚肉がある。ニラは無いけれど、豆板醤は常備している。


 土鍋に水を張り、コンロへ掛ける。もう一つ、湯を沸かす為に手鍋を用意した。

 コンロの火を点けて、湯が煮えるのを待つ。俎板の上にキャベツと水菜を乗せて、和輝は包丁を取り出した。


 食材を用意すると、途端に空腹を感じた。

 野菜はざく切りにした。手抜きなのではなく、食感を残したかった。


 湯が煮えて来たので、土鍋に野菜と豚肉を投入する。手鍋では冷凍していた白米を煮る。

 ぐつぐつと煮え滾る鍋の向こう、湯気に消えそうな気配で葵が覗き込んでいた。




「魚が良かったな」

「言うの、遅ぇ」




 土鍋に味噌と粒状の和風出汁の素を入れる。同時進行で粥が煮えて来たので、卵を落として掻き混ぜた。




「締めは雑炊?」

「米、炊いてない。今日は饂飩」




 冷凍庫から、凍り付いた饂飩を取り出す。

 手抜きだねえ、と葵が笑った。空腹なのだから、仕方ないだろう。


 三十分程でチゲ饂飩と玉子粥が出来た。

 粥は薄い塩味にした。和輝は湯気に霞む葵へ声を掛ける。




「霖雨、起きられそうなら、起こして来てくれよ」

「お前が行け」

「手が離せない」

「鍋なら見て置いてやるよ」




 どうせ、見ているだけで何もしない癖に。

 和輝は火を弱めて、キッチンを離れた。


 霖雨の部屋に戻るが、彼は相変わらず眠ったままだった。

 既に夕飯の時刻だ。そろそろ起こしてもいいだろう。


 身動き一つしない霖雨の肩を叩き、呼び掛ける。余程体力を消耗していたのか、中々目を覚まさなかった。




「霖雨、起きろ」




 少しだけ声を大きくして呼び掛けると、長い睫毛に彩られた瞼が痙攣するみたいに開かれた。

 茫洋とした焦点の定まらない目で、霖雨は天井を見ていた。その視線はゆっくりと下降し、静かに和輝を捉える。




「和輝?」

「うん。お粥作ったから、ちょっとでもいいから、食べろよ」




 身を起こす介助しながら、和輝は霖雨の目の下に刻まれた隈を見ていた。

 疲れていたのかな。眠れてなかったのかな。俺に、何か出来たのかな。

 そんなことを思った。


 部屋着のまま眠っていたらしい。シャツは皺だらけだった。

 身体を起こした霖雨が、覚束ない足取りでベッドを出る。和輝は先導するつもりで歩き出した。


 ふと、寝静まっていた家の中を想像した。

 霖雨の嘔吐した深夜に自分はいなかった。葵は、大丈夫だっただろうか。

 夜中に嘔吐した霖雨に気付いて、口にはしないが側にいてくれたのだろう。漸く落ち着いて眠った後、知らない男に送られて来た和輝を受け取ったのも葵だ。

 眠っている自分達のことを、気に掛けてくれたことだろう。それこそ、自分が眠る暇も無かった筈だ。


 キッチンでは、葵が粥を掻き混ぜていた。

 見ているだけだなんていいながら、何だかんだで助けてくれる。結局、彼等は優しいのだ。


 霖雨をソファへ預け、和輝はキッチンへ戻った。小さく礼を言うが、葵には無視された。

 コンロの火を止めて、茶碗に玉子粥を装った。霖雨の元へ先に届け、今度はキャラクターものの鍋掴みを嵌めて土鍋を運ぶ。先回りした葵が、鍋敷き代わりに厚紙を敷いて待っていた。


 食器を用意していると、霖雨が掠れるような声で言った。




「言いそびれてた。ーーおかえり」




 和輝は笑った。

 胸の奥がじんと温かくなる。




「うん。ただいま」




 食卓を囲み、三人で手を合わせた。

 これは和輝の持論だが、食事で最も大切なのは味や彩りではなく、誰と食べるか如何かだ。孤食程に虚しいものは無い。一人暮らしの経験のある和輝は、彼等と同居するまで孤食が多かった。


 独りで食べるのは、味気無い。それが美味いのか不味いのか、何を食べているのかも解らなくなってしまう。


 玉子粥を冷ましながら口へ運ぶ霖雨と、取り分けた饂飩を啜る葵を見ながら和輝は嬉しくなった。

 独りは、寂しい。自分には、彼等がいて良かった。




「饂飩、伸びるぞ」




 針で突くような鋭さで、葵が忠告した。和輝は苦笑して、土鍋へ手を伸ばした。


 彼等も以前は独りで生きていた。湯気に包まれる食卓の温かさが、彼等にも伝わるといいな。そんなことを思う。




「和輝が知らない男を引っ掛けて来たぞ」




 幸せに浸っていると、葵が爆弾を投下するみたいに言った。

 霖雨は口へ運んでいたスプーンを止め、やけに鋭い目で此方を睨んだ。




「どんな奴?」

「身長は170cm無いくらいで、瘦せ型。浅黒くて、目付きは鋭いが隈があった。FBIの捜査官だそうだ」




 スプーンを置いた霖雨が、頭を抱えて溜息を零した。うんざりする程に長い溜息だった。




「頼むから、これ以上厄介事に首を突っ込むなよ」

「俺が首を突っ込んだ訳じゃないよ。巻き込まれたんだ」




 慌てて弁解するが、霖雨も葵も聞く耳は持たなかった。

 胡乱な眼差しをして、霖雨が胃の辺りを撫でながら投げ遣りに呟いた。




「俺の最大のストレス要因は、和輝だな」




 ぐうの音も出ない。

 和輝は黙って箸を動かした。







 Xの悲劇

 ⑶不吉な予言







 食器を片付けていると、霖雨が手伝いを申し出た。迷う事無く、和輝はやんわりと断った。手伝わせるなら、葵にする。


 そんな葵は、ソファに座って食後のコーヒーを楽しんでいた。

 霖雨にもコーヒーを淹れてやりたいが、胃炎で嘔吐したばかりなので刺激物は避ける。代わりに葛湯を淹れてやった。薄味の蜂蜜檸檬ティーにしても良かったが、カフェインは止めておく。


 霖雨は礼を言って受け取ったが、その顔に微かな陰りがあったので、和輝は密かに落ち込んだ。


 霖雨は、甘い物が得意でない。かと言って、玉子粥の後に玉子酒を提供するのも気が引ける。自分のレシピのレパートリーが少ないことを恥じて、今後は病人食の勉強をすることを誓う。


 自分の好き嫌いが無いから、配慮が難しい。

 霖雨は甘い物が苦手で、葵はーー。


 其処でふと、和輝は思い出した。

 葵は換気扇の下を陣取って煙草を吹かせている。




「葵って、豆腐嫌い?」

「何で?」

「いや、そんな気がしてたから」




 責める意図は無い。そもそも、葵が嫌いであっても食卓に豆腐は並ぶ。

 葵は紫煙を吐き出して、あっさりと答えた。




「嫌いだよ」

「何で?」

「だって、味がしないだろ」




 そうかなあ。

 泡だらけの皿を洗い流していると、葵が言った。




「西瓜と胡瓜も嫌いだな。虫みたいな味がする」

「虫食ったことあるのかよ」




 テンプレートみたいな会話をしながら、和輝は蛇口を閉めた。

 片付けも終わったので、自分の分のコーヒーを淹れる。相変わらず、あの喫茶店の店主のような深い味わいには届かない。何が足りないのか、まだ解らない。けれど、何時か辿り着いてみせる。


 退屈なので、コーヒーを片手にテレビでも見ようとリビングへ向かう。その後ろで、葵が言った。




「ーーさっきのGってメッセージだが、それ一つじゃ解読出来ないんじゃないかな」




 和輝は振り向いた。葵は相変わらず悠々と煙草を吹かしている。

 霖雨ばかりが怪訝そうに眉を寄せているが、葵は構わないらしかった。




「多分ね、同じような犯行が続くんだよ」




 不吉な予言だ。

 和輝は何と答えたら良いものなのか解らず、曖昧にお茶を濁した。


 テレビでは、近隣で起きた殺人事件がワイドショーで放映されている。

 駅前の公園、身元不明の男性が刺殺。彼は如何やら薬の売人でーー。


 それらは和輝の知る情報と同じだったが、あの謎のメッセージには触れられなかった。警察が情報操作しているのだろう。


 さて、次のニュースです。

 今日の昼頃、市内で一人暮らしをしている女性宅へ何者かが押し入り、彼女を絞殺しました。凶器は電気コードのようでーー。


 物騒な世の中だ。

 現実から乖離した思考で、和輝はぼんやりとそれを見ていた。だが、次の瞬間には思考は現実へと舞い戻っていた。


 ブルーシートに覆われた住宅地から、担架に乗せられた女性の遺体が運ばれる。担架からはみ出した腕が血塗れだったので、和輝はぎょっとした。


 絞殺ではなかったのだろうか。

 嫌な予感がして、心臓が痛い。テレビを食い入るように見ている霖雨の横で、ポケットに押し込めていた携帯電話が鳴り響いた。

 電話着信ーー黒薙灯。




「もしもし」




 硬い声で、和輝は応対した。




『今朝ぶりだな、蜂谷君。君にホットなニュースがあるよ』

「テレビなら見てますよ」

『一人暮らしの女性が絞殺された事件かい? 本来はNY市警の仕事だったんたが、外れられなくなってしまってね』




 その理由も、和輝は何となく察していた。




『新しいメッセージが見付かった。今度はXだ』

「また、背中に刻まれていたんですか?」

『ご明察だな。これは、我々に対する挑戦状だ。犯行はまだ続くだろう』

「人が亡くなったのは悲しいけれど、俺に介入する義務はない」

『足の裏にね、焼鏝を当てたみたいな火傷があった。この前の薬の売人も、今回の女性も』




 足の裏なんて、普通気付かない。

 回りくどいメッセージだ。ーーつまり、これは特定の誰に向けられたメッセージなのだ。


 警察への挑戦状?

 それとも。


 和輝が黙っていると、電話の向こうで黒薙が言った。




『足の裏にはmessengerと記されていた』




 メッセンジャー(messenger)とは、使いの者、使者、或いは配達人のことだ。この犯人は正しく、特定の誰かに対してメッセージを届ける配達人なのだ。




『明日の朝、迎えに行くよ』




 そう言って、通話は一方的に切られた。

 和輝は携帯電話の電源を落として、大きく背伸びをする。せっかく淹れたコーヒーだが、味わっている時間は無い。

 隣で葛湯を啜っていた霖雨も、それを一気に飲み干した。




「明日は早起きしないと」

「何で?」

「和輝の引っ掛けて来た男の品定めしないといけないからね」




 肩を竦めて、和輝は笑った。

 笑う以外の方法が、見当たらなかったのだ。


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