⑶不吉な予言
死んでいるみたいだ。
昏々と眠る霖雨を見下ろして、和輝は背中を焼かれるような焦燥感に襲われた。
蒼い顔はマネキンのようで、唇は血の気を失って白く染まっている。固く閉ざされた瞼は開かれる様子も無く、僅かに上下する胸部ばかりがその生命を知らせている。
寝息すら聞こえない静かな室内に、霖雨がこのまま溶けて消えてしまうのではないかと思った。
今すぐに叩き起こしたい衝動に駆られるが、葵の話によると朝方に落ち着いて眠ったばかりだそうだ。起こす訳にはいかない。
霖雨は、日付上では今日の深夜に起き出して、嘔吐していたらしい。
上手く吐けない様子だったので、葵が喉の奥に手を突っ込んで吐かせた。それが介抱と呼べるかは別として、一応、それで霖雨は落ち着いたようだ。
ストレス性の胃炎とのことだが、何が彼を深夜に嘔吐するまでに追い込んでいるのか、和輝は知らない。知らないということが、何より歯痒かった。
念の為に脈拍と体温を測るが、凡そ平常値だった。呼吸は安定している。
和輝は僅かに乱れた毛布を掛け直してやり、そっと部屋を出た。
リビングでは、葵がソファで胡座を掻いていた。マグカップを片手に悠々とコーヒーを啜る様は、他人事と割り切っているらしい。
事実として、現時点の自分達に出来ることは何も無かった。
和輝はソファへ歩み寄った。
「ストレス性って、何があったんだ」
何が霖雨の胃を破壊したのだろう。
和輝が問い掛けると、葵は顔も上げずに答えた。
「俺が知る筈無いだろ」
「昨日までは普通だったのに」
「ストレスって、借金と似てるよな。小さな積み重ねが、或る日突然、爆発する」
ストレスとは程遠い隠居生活をしているみたいに、葵が達観して言った。
霖雨は感受性が豊かだ。他人の気持ちに共感し易い。本人も知らず知らずの内に、何かを抱え込んでいたのかも知れない。
同じ屋根の下で暮らしていても、解らないことは沢山ある。だからこそ、人は言語というコミュニケーションツールを使用して互いのことを知ろうとするのだ。
思えば、ここのところトラブル続きで、ろくに彼の話を聞いていなかった。霖雨はいつも巻き込まれるばかりだ。当たり前のようにフォローしてくれるから、甘えてしまっていた。
和輝が俯いていると、漸く顔を上げた葵が退屈そうに言った。
「あいつは弱いんだよ。もっと負荷を与えて鍛えた方がいい」
「お前と違って、繊細なんだよ」
「お前に言われたくない。恐竜並みに神経図太いだろ」
「恐竜って、神経太いの?」
「比喩だろ。そのくらい、察しろよ」
葵は溜息を零した。
多分、自分はストレス耐性が高いのではなく、鈍いのだろう。和輝はそんなことを思った。霖雨は思慮深いのだ。
「薬、呑んだかな」
「呑んでないよ。消化物と胃液を全部吐いたから、胃の中は空っぽだ」
「何か、消化に良いものを作るよ」
「チゲ鍋が食べたいな」
「引っ込んでろ」
吐き捨てて、和輝はキッチンへ向かった。
自分が図太く愚鈍だというなら、葵も大概だ。けれど、和輝はキッチンの戸棚から土鍋を取り出していた。
冷蔵庫の中にはキャベツと豚肉がある。ニラは無いけれど、豆板醤は常備している。
土鍋に水を張り、コンロへ掛ける。もう一つ、湯を沸かす為に手鍋を用意した。
コンロの火を点けて、湯が煮えるのを待つ。俎板の上にキャベツと水菜を乗せて、和輝は包丁を取り出した。
食材を用意すると、途端に空腹を感じた。
野菜はざく切りにした。手抜きなのではなく、食感を残したかった。
湯が煮えて来たので、土鍋に野菜と豚肉を投入する。手鍋では冷凍していた白米を煮る。
ぐつぐつと煮え滾る鍋の向こう、湯気に消えそうな気配で葵が覗き込んでいた。
「魚が良かったな」
「言うの、遅ぇ」
土鍋に味噌と粒状の和風出汁の素を入れる。同時進行で粥が煮えて来たので、卵を落として掻き混ぜた。
「締めは雑炊?」
「米、炊いてない。今日は饂飩」
冷凍庫から、凍り付いた饂飩を取り出す。
手抜きだねえ、と葵が笑った。空腹なのだから、仕方ないだろう。
三十分程でチゲ饂飩と玉子粥が出来た。
粥は薄い塩味にした。和輝は湯気に霞む葵へ声を掛ける。
「霖雨、起きられそうなら、起こして来てくれよ」
「お前が行け」
「手が離せない」
「鍋なら見て置いてやるよ」
どうせ、見ているだけで何もしない癖に。
和輝は火を弱めて、キッチンを離れた。
霖雨の部屋に戻るが、彼は相変わらず眠ったままだった。
既に夕飯の時刻だ。そろそろ起こしてもいいだろう。
身動き一つしない霖雨の肩を叩き、呼び掛ける。余程体力を消耗していたのか、中々目を覚まさなかった。
「霖雨、起きろ」
少しだけ声を大きくして呼び掛けると、長い睫毛に彩られた瞼が痙攣するみたいに開かれた。
茫洋とした焦点の定まらない目で、霖雨は天井を見ていた。その視線はゆっくりと下降し、静かに和輝を捉える。
「和輝?」
「うん。お粥作ったから、ちょっとでもいいから、食べろよ」
身を起こす介助しながら、和輝は霖雨の目の下に刻まれた隈を見ていた。
疲れていたのかな。眠れてなかったのかな。俺に、何か出来たのかな。
そんなことを思った。
部屋着のまま眠っていたらしい。シャツは皺だらけだった。
身体を起こした霖雨が、覚束ない足取りでベッドを出る。和輝は先導するつもりで歩き出した。
ふと、寝静まっていた家の中を想像した。
霖雨の嘔吐した深夜に自分はいなかった。葵は、大丈夫だっただろうか。
夜中に嘔吐した霖雨に気付いて、口にはしないが側にいてくれたのだろう。漸く落ち着いて眠った後、知らない男に送られて来た和輝を受け取ったのも葵だ。
眠っている自分達のことを、気に掛けてくれたことだろう。それこそ、自分が眠る暇も無かった筈だ。
キッチンでは、葵が粥を掻き混ぜていた。
見ているだけだなんていいながら、何だかんだで助けてくれる。結局、彼等は優しいのだ。
霖雨をソファへ預け、和輝はキッチンへ戻った。小さく礼を言うが、葵には無視された。
コンロの火を止めて、茶碗に玉子粥を装った。霖雨の元へ先に届け、今度はキャラクターものの鍋掴みを嵌めて土鍋を運ぶ。先回りした葵が、鍋敷き代わりに厚紙を敷いて待っていた。
食器を用意していると、霖雨が掠れるような声で言った。
「言いそびれてた。ーーおかえり」
和輝は笑った。
胸の奥がじんと温かくなる。
「うん。ただいま」
食卓を囲み、三人で手を合わせた。
これは和輝の持論だが、食事で最も大切なのは味や彩りではなく、誰と食べるか如何かだ。孤食程に虚しいものは無い。一人暮らしの経験のある和輝は、彼等と同居するまで孤食が多かった。
独りで食べるのは、味気無い。それが美味いのか不味いのか、何を食べているのかも解らなくなってしまう。
玉子粥を冷ましながら口へ運ぶ霖雨と、取り分けた饂飩を啜る葵を見ながら和輝は嬉しくなった。
独りは、寂しい。自分には、彼等がいて良かった。
「饂飩、伸びるぞ」
針で突くような鋭さで、葵が忠告した。和輝は苦笑して、土鍋へ手を伸ばした。
彼等も以前は独りで生きていた。湯気に包まれる食卓の温かさが、彼等にも伝わるといいな。そんなことを思う。
「和輝が知らない男を引っ掛けて来たぞ」
幸せに浸っていると、葵が爆弾を投下するみたいに言った。
霖雨は口へ運んでいたスプーンを止め、やけに鋭い目で此方を睨んだ。
「どんな奴?」
「身長は170cm無いくらいで、瘦せ型。浅黒くて、目付きは鋭いが隈があった。FBIの捜査官だそうだ」
スプーンを置いた霖雨が、頭を抱えて溜息を零した。うんざりする程に長い溜息だった。
「頼むから、これ以上厄介事に首を突っ込むなよ」
「俺が首を突っ込んだ訳じゃないよ。巻き込まれたんだ」
慌てて弁解するが、霖雨も葵も聞く耳は持たなかった。
胡乱な眼差しをして、霖雨が胃の辺りを撫でながら投げ遣りに呟いた。
「俺の最大のストレス要因は、和輝だな」
ぐうの音も出ない。
和輝は黙って箸を動かした。
Xの悲劇
⑶不吉な予言
食器を片付けていると、霖雨が手伝いを申し出た。迷う事無く、和輝はやんわりと断った。手伝わせるなら、葵にする。
そんな葵は、ソファに座って食後のコーヒーを楽しんでいた。
霖雨にもコーヒーを淹れてやりたいが、胃炎で嘔吐したばかりなので刺激物は避ける。代わりに葛湯を淹れてやった。薄味の蜂蜜檸檬ティーにしても良かったが、カフェインは止めておく。
霖雨は礼を言って受け取ったが、その顔に微かな陰りがあったので、和輝は密かに落ち込んだ。
霖雨は、甘い物が得意でない。かと言って、玉子粥の後に玉子酒を提供するのも気が引ける。自分のレシピのレパートリーが少ないことを恥じて、今後は病人食の勉強をすることを誓う。
自分の好き嫌いが無いから、配慮が難しい。
霖雨は甘い物が苦手で、葵はーー。
其処でふと、和輝は思い出した。
葵は換気扇の下を陣取って煙草を吹かせている。
「葵って、豆腐嫌い?」
「何で?」
「いや、そんな気がしてたから」
責める意図は無い。そもそも、葵が嫌いであっても食卓に豆腐は並ぶ。
葵は紫煙を吐き出して、あっさりと答えた。
「嫌いだよ」
「何で?」
「だって、味がしないだろ」
そうかなあ。
泡だらけの皿を洗い流していると、葵が言った。
「西瓜と胡瓜も嫌いだな。虫みたいな味がする」
「虫食ったことあるのかよ」
テンプレートみたいな会話をしながら、和輝は蛇口を閉めた。
片付けも終わったので、自分の分のコーヒーを淹れる。相変わらず、あの喫茶店の店主のような深い味わいには届かない。何が足りないのか、まだ解らない。けれど、何時か辿り着いてみせる。
退屈なので、コーヒーを片手にテレビでも見ようとリビングへ向かう。その後ろで、葵が言った。
「ーーさっきのGってメッセージだが、それ一つじゃ解読出来ないんじゃないかな」
和輝は振り向いた。葵は相変わらず悠々と煙草を吹かしている。
霖雨ばかりが怪訝そうに眉を寄せているが、葵は構わないらしかった。
「多分ね、同じような犯行が続くんだよ」
不吉な予言だ。
和輝は何と答えたら良いものなのか解らず、曖昧にお茶を濁した。
テレビでは、近隣で起きた殺人事件がワイドショーで放映されている。
駅前の公園、身元不明の男性が刺殺。彼は如何やら薬の売人でーー。
それらは和輝の知る情報と同じだったが、あの謎のメッセージには触れられなかった。警察が情報操作しているのだろう。
さて、次のニュースです。
今日の昼頃、市内で一人暮らしをしている女性宅へ何者かが押し入り、彼女を絞殺しました。凶器は電気コードのようでーー。
物騒な世の中だ。
現実から乖離した思考で、和輝はぼんやりとそれを見ていた。だが、次の瞬間には思考は現実へと舞い戻っていた。
ブルーシートに覆われた住宅地から、担架に乗せられた女性の遺体が運ばれる。担架からはみ出した腕が血塗れだったので、和輝はぎょっとした。
絞殺ではなかったのだろうか。
嫌な予感がして、心臓が痛い。テレビを食い入るように見ている霖雨の横で、ポケットに押し込めていた携帯電話が鳴り響いた。
電話着信ーー黒薙灯。
「もしもし」
硬い声で、和輝は応対した。
『今朝ぶりだな、蜂谷君。君にホットなニュースがあるよ』
「テレビなら見てますよ」
『一人暮らしの女性が絞殺された事件かい? 本来はNY市警の仕事だったんたが、外れられなくなってしまってね』
その理由も、和輝は何となく察していた。
『新しいメッセージが見付かった。今度はXだ』
「また、背中に刻まれていたんですか?」
『ご明察だな。これは、我々に対する挑戦状だ。犯行はまだ続くだろう』
「人が亡くなったのは悲しいけれど、俺に介入する義務はない」
『足の裏にね、焼鏝を当てたみたいな火傷があった。この前の薬の売人も、今回の女性も』
足の裏なんて、普通気付かない。
回りくどいメッセージだ。ーーつまり、これは特定の誰に向けられたメッセージなのだ。
警察への挑戦状?
それとも。
和輝が黙っていると、電話の向こうで黒薙が言った。
『足の裏にはmessengerと記されていた』
メッセンジャー(messenger)とは、使いの者、使者、或いは配達人のことだ。この犯人は正しく、特定の誰かに対してメッセージを届ける配達人なのだ。
『明日の朝、迎えに行くよ』
そう言って、通話は一方的に切られた。
和輝は携帯電話の電源を落として、大きく背伸びをする。せっかく淹れたコーヒーだが、味わっている時間は無い。
隣で葛湯を啜っていた霖雨も、それを一気に飲み干した。
「明日は早起きしないと」
「何で?」
「和輝の引っ掛けて来た男の品定めしないといけないからね」
肩を竦めて、和輝は笑った。
笑う以外の方法が、見当たらなかったのだ。