⑵拍手
夜勤明けの朝は、奇妙な達成感がある。
冬の朝日を浴び、疲れ切った身体に力が満ちて行く。仕事の達成感に反比例して一日が始まるのは、妙な心地だった。けれど、兎に角、今は一刻も早くベッドで眠りたかった。
日光は体内時計を調整させ、自浄機能を促進させる。だが、眩しくて目を背けたくなるのも事実だ。というか、朝日が目に沁みる。
凍えるような寒風も少しは和らいで来ている。もうすぐ春が来るのだ。
そうだ。
厚手のコートをクリーニングへ出さなければならない。
期末試験は追試だったが、如何にか進級出来た。あと一年で卒業だ。医師免許を取るには二年足りないから、何処かの大学へ編入する必要がある。
そうか。
自分は受験生なのか。
取り留めのないことを考えながら、和輝は帰路を辿っていた。思考がぼやけて纏まらない。
腹が減った。帰ったら食事にしよう。
霖雨と葵はまだ寝ているだろうか。冷蔵庫の中に豆腐があったから、味噌汁にしよう。冷凍庫には鮭の切り身もある筈だ。夜勤明けの朝くらい、手を抜いたっていいだろう。
味噌汁が煮えるまでにシャワーを浴びて、二人を起こして、洗濯機を回そう。
朝ご飯を食べたら、ベッドで眠るのだ。今日の予定は特にないから、大学の課題のレポートを仕上げよう。昼過ぎまで眠っていていい。でも、余り寝過ぎると生活リズムが狂ってしまうから、早めに目覚めることにして、夜になったら早く眠ろう。
これから電車に乗るのか。転寝したら、終点まで行ってしまいそうだ。
どこでもドアがあればいいのに。
誰か、家まで運んでくれないかなあ。
和輝は病院を出た。
両手を広げるように聳える病棟に、駐車場が抱かれている。白い朝日を浴び、夜露に濡れたアスファルトは鏡のように光っていた。
その時、間抜けなクラクションの音が背後から届いた。
錆び付いた意識を総動員して振り向くと、黒のスポーツセダンが鋭く朝日を反射していた。
運転席に見覚えのある顔が見えたので、腹の底から溜息が溢れた。
黒薙が、退屈そうな仏頂面で此方を見ている。
和輝が気付くと、黒薙は運転席の窓を開けて手招きした。同時に腹の虫が鳴いたので、清々しい朝なのに気分は急下降する。
渋々と和輝は歩み寄った。黒薙は助手席の扉を開けた。まさか、家まで運んでくれる筈もない。
車高の割に内部は広かった。だが、置き型の消臭剤が設置されていても尚煙草臭い。とても快適とは言えない。
不機嫌な顔をした黒薙は、無言でダッシュボードを指した。睡魔と空腹に苛まれながら、和輝は指示された通り開いた。
中には、数枚の写真が入っていた。
真っ赤な写真だった。それが人体だと気付いた時、和輝は顳顬が押し潰されるような鈍痛を感じた。
「お前は医療に携わる人間だから、大丈夫だな」
煙草の火を点けながら、黒薙が言う。
言うのが遅い。
和輝は口にはせずに、黙って睨んだ。
写真には、グロデスクな人体が映し出されていた。首から下の上半身だった。鋭利な刃物で右脇から腹部を切り裂かれている。皮膚に血の気はなく、作り物のような質感だった。傷の大きさからして、内臓が無事であったとは思えない。むしろ、傷口から臓物が溢れていたのではないだろうか。
そう考えると、腹部の奇妙な凹凸も理解出来る。死んだ人間の写真を撮る為に、取り敢えず臓物を押し込んだのだろう。
和輝は、この傷口を知っている。
「あの男の人、亡くなったんですか」
深夜に緊急搬送されて来た血塗れの男を思い出す。閉ざされた手術室の前で、自分は如何しようもなく無力だった。
和輝が問い掛けると、黒薙は怪訝そうに眉を寄せた。
「搬送された時点で、助かる見込みはなかっただろう」
「可能性が零になるのは、諦めたその瞬間です」
「お前が医者になって、同じ状況で同じ言葉が言えたなら評価してやるよ」
煙と共に、黒薙が吐き捨てる。和輝は何も言い返せなかった。
「あの男は、俺達が追っていた薬の売人だ。深夜に通報を受けて急行した先で、血塗れになって倒れていた」
「そんなこと、俺に言っていいんですか。捜査情報の漏洩じゃないんですか?」
「病院関係者のお前が知ろうと思えば、知ることの出来る情報だ」
「求めていない」
「捜査に協力すると言っただろう」
話が進まないと、黒薙は煙草を灰皿へ押し付けて言った。そのまま次の煙草へ火を点ける。典型的なチェーンスモーカーだ。
煙草が人体に及ぼす影響を此処で講演しようかと思ったが、一蹴されることが目に見えていたので、和輝は結局黙っていた。
「次の写真を見ろ」
言われるまま、和輝は写真を捲った。
其処にもまた、グロデスクな人体が映っている。如何やら、件の薬の売人らしい。今度は背中だ。
青褪めた皮膚が、刃物によって切り刻まれている。その傷口が何か意図的なものを感じさせ、和輝は凝視した。
「G?」
傷口は、大文字のアルファベットに見える。意図的に傷付けたのでなければ、有り得ない形状だった。
和輝は首を捻った。
「ダイイングメッセージ(dying message)かな」
「被害者の背中だぞ。残したとしたら、犯人だ」
馬鹿か、お前は。
そんな言葉が聞こえるような気がした。
素人なのだから、仕方ないだろう。
和輝はその言葉を呑み込んで、写真を朝日に透かした。
「如何いう意味なんだろう。誰に向けられたメッセージなのかな」
「それを調べているんだ」
和輝は、頭の中にGの文字を浮かべてみた。
Gとは、何だろう。
ガストリン?
重力?
記号?
蜚蠊?
思い浮かべてみて、自分の脳は凄惨な殺人事件には向いていないと理解する。慣れないことをすると疲れる。
兎に角、寝たい。
「駄目だ。眠くて、頭が働かない」
「若い癖に貧弱だな」
「夜勤明けなんですよ」
「奇遇だな。俺は徹夜三日目だ」
言われてみると、黒薙の目の下には青痣のような隈がある。肌が浅黒いのだと思っていたが、本当は顔色が悪いのかも知れない。
不眠症なのではないだろうか。専門機関への受診を勧めてもいい。
和輝は投げ遣りな気持ちになった。
「俺の脳味噌は殺人事件向きには出来ていない」
「赤点常習犯だしな」
「それって、個人情報でしょ。そういうのって何処から漏れるんだろう」
和輝が言うと、黒薙は舌打ちをした。中々に迫力があった。平素ならば口を噤んだだろうが、如何せん、今は眠くて堪らない。
「これだけじゃ、何も解らないですよ。その薬の売人だって、初対面だし」
まあ、もう二度と会うこともないのだけど。
顳顬を揉みながら言った。感情と思考が乖離して、正常な判断を下せない。
「悪いんですけど、家まで送ってくれませんか。殺人事件の捜査は、起きてからにして下さい」
「俺をタクシー代わりに使う気か?」
「あんただって、俺を麻薬犬代わりに使う気じゃないですか。おあいこですよ」
もう堪え切れない。和輝はいそいそとシートベルトを装着し、リクライニングシートを倒した。瞠目する黒薙には構わず、睡眠の姿勢に入る。
「お前、他人の前でよく眠れるな」
「人間なんて、他人の方が多いでしょ」
「俺がお前に害を与えるとは思わないのか?」
「思わない」
いや、帰宅を阻まれているのだから害は与えられているのかも知れない。
それなら、家まで送ってくれたってバチは当たらないだろう。
何かを言いたげな黒薙はそのままに、和輝は瞼を下ろした。
Xの悲劇
⑵拍手
「起きろ、クソガキ」
ドスの効いた声が降って来て、和輝の意識はゆっくりと浮上した。瞼を押し開けると、其処は見慣れた自室だった。
差し込んだ夕日に照らされ、オレンジ色に染まっている。慌てて携帯電話で時刻を確認した。午後四時を過ぎていた。
枕元に葵が立っていた。幽霊みたいで縁起が悪い。
寝過ぎて身体が怠かった。悪循環だ。
和輝は鈍く痛む顳顬を揉んだ。
「何時帰って来たのか覚えてない」
「知らない男に運ばれて来たぞ。お前が起きないから、俺が代わりに文句を言われたんだ」
如何やら、黒薙が送り届けてくれたらしい。
お疲れ様と社交辞令のように労うが、葵には無視された。
「FBI捜査官とか言ってたが、また面倒なことに首を突っ込んでいるんじゃないだろうな」
「俺が首を突っ込んだ訳じゃない。巻き込まれたんだよ」
欠伸を噛み殺しながら和輝が言うと、葵は嫌そうに顔を顰めた。
「身の丈に合わないトラブルには介入するな」
「俺がチビだって言っているのか?」
喧嘩を売っているなら、買ってやる。
腕捲りをして息巻く和輝を鮮やかに無視して、葵は沈んで行く夕日を見ていた。
なあ。
葵が言った。
「変な夢は見なかったか?」
「夢はあんまり見ない」
「お前が健康で何よりだよ」
胡散臭い程の綺麗な笑顔を見せて、葵が言った。
如何いう質問だろう。何故、そんなことを気にする?
追及するべきなのだろうか。
葵が出て行こうとするので、和輝は追い縋るようにして、引き留めるつもりでその背中に問い掛けた。
「なあ、Gって何だと思う?」
扉の前で振り向いた葵が、眉を寄せて答えた。
「蜚蠊?」
和輝は笑った。
自分と葵には絶望的なIQの差があると思っていたが、案外、似たようなことを考えるらしい。親近感を覚え、和輝はベッドから抜け出した。
「俺を運んでくれた人、違法薬物の捜査をしているんだって。それで、何か思い付くことはないかって訊かれたんだよ」
和輝が言うと、葵は能面のような無表情になった。
何かまずいことを言っただろうか。
内心の動揺を隠しながら、和輝は葵を見ていた。
「違法薬物ーーGLAY」
言われてみて、和輝ははっとした。如何してその可能性を思い付かなかったのか、疑問に思う程だった。
直前まで、その話をしていた筈だ。真っ先に行き着く答えだった。だが、葵はつまらなそうに言った。
「お前は兎も角、そのFBI捜査官が無能でないのなら、可能性は視野に入れているだろうさ」
けれど、あの時、黒薙は何も言っていなかった。黙っていたのか。それとも、ーー試していた?
解らない。そういえば、自分は黒薙という男の素性も知らない。
FBI捜査官だと言っていたが、身分なんて幾らでも詐称出来る。けれど、彼は嘘を吐いていなかった。
否、過信は止そう。自分が嘘を見抜けるというのが、既に驕りだ。嘗て見抜けなかった嘘がある。
ぐるぐると思考は螺旋階段を下り、やがて袋小路に迷い込む。ーー其処で和輝は顔を上げた。
考えたって仕方ないなら、考えなくていい。
和輝はベッドを整える。
寝過ぎてしまった。夜眠れないかも知れないが、その時のことは、その時に考えよう。
地図を見ながら頭を抱えて目的地を目指すより、走りながら考える方が性に合っている。
思考を放棄した和輝は、迷路から抜け出したような開放感を味わっていた。
「夕食の準備をする。リクエストはあるかい?」
此処で無理難題を吹っ掛けられても、今なら間に合う。買い物に行って考えたっていい。
葵はそっと言った。
「出し巻き卵」
「いいよ」
何だか拍子抜けするリクエストだ。
けれど、望むのなら応えよう。それがどんなに困難なことであっても。
その代わり、上手く出来たら拍手を頂戴。
富や名誉なんて求めないから、たった一人でもいいから迎え入れて欲しい。それでいいよと言って欲しい。
手術室の扉の前で、自分は如何しようもなく無力だった。
自分の弱さは嫌という程に知っている。上手く行くことなんてちょっとしかない。けれど、それでもいいと言うのなら、どんな荒波だって越えて見せる。
仏の御石の鉢でも、蓬莱の玉の枝でも、火鼠の裘でも、龍の首の珠でも、燕の産んだ子安貝でも用意してやろう。
ベッドを整え終え、和輝は扉へ向かった。一足先に出て行った葵は、真っ直ぐにキッチンへ向かっている。
換気扇の下を陣取って、煙草に火を点ける。使い捨てライターの乾いた音を聞きながら、和輝は冷蔵庫を覗き込んだ。
夜勤の前に用意して置いた食事は無くなっていた。葵が霖雨と食べたのだろう。自分のいない時、二人はどんな顔をして食卓を囲むのだろうか。
想像してみると、何だか可笑しい。
そういえば、霖雨の姿が見えない。
「霖雨は?」
卵を取り出しながら問い掛ける。葵は悠々と煙草を吹かして答えた。
「寝込んでる」
「何で?」
「夜中に嘔吐したんだよ。ストレス性の胃炎だそうだ」
何で、もっと早く言わないんだ!
和輝は卵を放り出して、霖雨の部屋へと駆け出した。