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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Xの悲劇
22/68

⑴魔法の薬

 We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.

(私たちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在する為に、二回目は生きる為に)


 Jean Jacques Rousseau


 






 時刻は午後零時を過ぎ、病院内は常夜灯のみが点され、死んだようにひっそりと静まり返っている。

 自身の呼吸すら聞こえる静寂の中、和輝は無人の廊下を懐中電灯を片手に歩いていた。


 自宅を強襲した謎の男の正体を巡り、和輝はN.Y.P.D.へと駆り出された。

 懇意にしているFBI捜査官は不在だったが、代わりに香坂という男が応対してくれた。

 香坂は葵の名義上の保護者で、FBI捜査官をしている。彼は自分達の身の周りに起きた事件を怪訝そうに聞き、捜査を継続することを約束してくれた。


 そして、他愛のない世間話を挟み、収入を得る手段を失っている和輝の現状を聞くと、地元病院のアルバイトを紹介してくれた。

 表向きは事務員であったが、実際は救急救命士の見習いとしての経験を買われ、当時と同じく違法ぎりぎりのラインで医療に携わっている。


 苦い思い出が蘇り、和輝はそれを振り払うようにして前を見据えた。懐中電灯の照らす先は、不気味と称するに相応しい。


 辺りに人はいない。入院病棟に押し込められた患者も寝静まっているのだろう。リノリウムの床が非常灯を反射し、深夜の病院という限定的な状況も合間って不気味さに拍車を掛ける。正直、幽霊が何時出てもおかしくはない。


 事務員という役職でありながら、何故か夜勤を命じられ看護職の仕事まで背負い込んでいる。院内の見回り等、事務員の業務の範疇ではない。

 それでも、命じられるままに熟そうとするから、余計な仕事まで背負い込む羽目になるのだろう。NOと言えない自分が悪い。だが、知人の紹介で辿り着いた職場で、大きな顔が出来る程に和輝は豪胆ではない。


 不甲斐ない自分を呪いながら、和輝は決められた経路を辿ってナースセンターへ戻った。

 容態急変や幽霊の出没もなく、無事に終わって何よりだ。

 年嵩の行った痩せっぽちの看護師が、帰還した和輝に気付いてそっと視線を上げた。けれど、そのままに目は伏せられ、当然の如く労いの言葉なんてある筈もない。


 看護師は自身の事務仕事に打ち込んでいる。それこそ、和輝の仕事の本分だ。肩透かしを食らったような心地で、充てがわれた席に着く。

 机の上には書類が塔のように重ねられていた。一晩かけても終わる気はしないが、やるより他にない。

 安いボールペンを片手に、和輝は姿勢を正した。ーーその時だった。


 emergencyを知らせるブザーが、ナースセンターの静寂を打ち破った。和輝は咄嗟に腰を上げ、看護師の存在も忘れて受話器を取った。


 緊急搬送ーー。

 救命救急士の状況から切り離された冷静な声が、矢継ぎ早に情報を送り込む。

 和輝は一言一句を逃すまいと手に力を込めた。そして、それに相槌を打とうとして、背後から受話器を奪われた。

 受話器を奪い取った看護師が、やけに鼻に付く尖った声で返事をしている。放逐するように手を振られ、和輝は肩を竦めて席へ戻った。


 看護師の態度も尤もだ。出過ぎた真似だった。今の自分は医療行為を許されず、搬送される患者の命の責任も取れない。

 萎縮する和輝を置いてけ堀に、状況は坂道を転がり落ちるように進んでいく。


 患者を受け入れるらしい。

 盥回しにされるようなことがなくて、良かった。


 看護師が当直の医師へ連絡を取っている。和輝は、何も出来ない自分が歯痒かった。

 だが、そんな和輝を見兼ねたのか、看護師が受け入れの指示を出した。


 和輝は二つ返事でそれを受け、ナースセンターを飛び出した。


 闇に包まれた街が、入口の硝子に透けている。やがて、真っ赤な回転灯を灯した救急車が滑り込んで来た。

 担架が運び込まれる横に、看護師がやって来た。其処で和輝はお役御免となり、すごすごと引き下がる。

 緊急搬送された患者は頭から血を被ったように真っ赤に染まっていた。衣服の上からの判断は難しいが、腹部は裂け、鼓動に合わせて血液が噴き出しているのが解る。

 顔は真っ白で、唇は青紫に染まっている。ショック症状が現れていた。細かく痙攣する指先は力なく開かれ、下された瞼は開く気配もない。


 遅れて到着した医師が指示を下す。和輝は、リノリウムの床を滑る担架に並んで手術室まで追い縋った。

 けれど、結局は両開きの扉の前で突き放された。


 手術中のランプが点灯する。

 和輝は、扉の前でただ立ち尽くしていた。


 自分は、無力だ。

 抗いようのない現実に膝を着きそうになる。弱い自分が嫌いだ。ーーだが、そのまま何もかも投げ出してしまう自分はもっと嫌いだ。


 仕事をしよう。和輝が顔を上げた時、蛍光灯の光を遮って黒い影が目に映った。




「君が、蜂谷君?」




 母国の言葉だった。

 影は、逆光の為か顔が見えなかった。滲むようにゆっくりと目が慣れて、その姿が鮮明になる。


 縒れたスーツを着た男だった。

 和輝程ではないにしろ、決して大きくはない。

 浅黒い肌、漆黒の瞳、通った鼻梁。結ばれた口は頑固そうな印象を与える。闇の中から抜け出して来たようなその男は、無表情に和輝を見下ろしている。




「貴方は?」




 和輝が問い掛けると、男は懐から警察手帳を取り出した。その身分を証明する頁を見て、和輝は名前を呼んだ。




「くろなぎ、あかし?」




 肯定を示すように、男が頷く。

 不意に、和輝は零していた。




「変な名前」




 途端、男の顔が不機嫌に歪められる。

 何処かの誰かを彷彿とさせる仏頂面が、酷く懐かしく見えた。和輝は自身の失言も忘れて、声に出して笑ってしまった。







 Xの悲劇

 ⑴魔法の薬






 男は、黒薙灯と名乗った。

 和輝とは同じ国の出身で、母国では厚生労働省地方厚生局麻薬取締部に在籍していた所謂ノンキャリアと呼ばれる捜査官だったらしい。現在はFBIへ引き抜かれ、犯罪行動科学部にて就業している。


 話を聞いても、和輝にはよく解らなかった。

 きょとんとしていると、黒薙は僅かに眉を寄せ溜息を吐いた。




「賢い男だと聞いていたんだが」




 自分が賢いとは思わないが、馬鹿にされていることは解る。和輝は曖昧に笑って誤魔化した。


 黒薙は、和輝と懇意にしている壮年のFBI捜査官と、葵の名義上の保護者である香坂という捜査官の知り合いらしい。世間とは思う以上に狭いものだ。




「取り調べには答えられませんよ。アルバイトなので」




 和輝が言うと、黒薙は目を瞬いた。




「中々、話が解るじゃないか」




 黒薙が笑った、ような気がした。


 何しろ、彼の表情は鉄面皮で、凍り付いたように動かない。黒曜石を嵌め込んだような瞳ばかりがその感情の機微を知らせる。


 名前と同じく、変な男だ。


 和輝の失礼な心の声が聞こえたのか、その目は僅かに細められる。勿体無いな、とぼんやり思った。


 この調子では、彼は泣いたり笑ったりもしないのだろう。瞳はこんなにも饒舌なのに、損をしている。


 黒薙は、和輝を据え付けのベンチへ座らせると、その隣に腰を下ろした。

 目線が近くなると、漆黒の瞳に自分の弱った顔が鏡のように映り込んだ。




「或る薬物について捜査している」

「はあ」

「如何やら、君は鼻が利くらしいから」




 言われてみて、和輝は鼻を啜った。消毒液と血の臭い、それから、黒薙のスーツに染み込んだ煙草の臭いがした。


 黒薙はポケットを探った。摺り切れそうなスーツの下から、半透明のピルケースが取り出される。和輝は何となく嫌悪感を覚えた。

 不躾な黒薙の態度ではない。そのピルケースから立ち昇る奇妙な寒気に、脳内で警報が鳴らされているような気がした。


 和輝は眉間に皺を寄せ、手を突き出して距離を取った。




「それを近付けないで」

「何故?」

「嫌な感じがする」




 だが、黒薙は和輝の言葉も構わずにピルケースを開いた。中には灰色の錠剤が一つだけ入っていた。


 小指の爪の半分もない程に小さな錠剤だ。表面はツルツルとした光沢があり、その正体を知らせる刻印は何もない。

 何故だか、和輝にはそれが気味の悪いものに感じられた。


 和輝の挙動をじっと観察していたらしい黒薙は、ピルケースの蓋を閉じてポケットへ戻した。

 それでも、和輝の肌は薄く粟立っていた。エアコンのせいだろうか。否、物理的な要因ではない。黒薙のポケットに、それがあると知っているからだ。


 一度でも踏み込めば、二度と戻って来られないような気がした。腹の底から湧き上がるような不気味で恐ろしい感覚を、和輝は知っている。


 怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。


 そんな言葉が耳の奥で鮮明に再生される。これは、自分の覗き込んではならない深淵だ。


 和輝は目を背けるつもりで、視線を遠くへ投げた。煤けた廊下の壁を見ると、汚れた染みが人の顔のように見えて一層気分が悪くなる。

 何をしているのだろう。和輝は投げ遣りな気分になって、ゆるゆると視線を戻した。

 黒薙が怪訝な顔をして、此方を見ていた。まるで、何もないところを凝視する猫みたいだ。




「そんな薬、見たことない」

「だが、知っているのだろう」

「名前くらいはね。有名だもの」




 近頃、界隈では犯罪組織が活発に活動して、ティーンエイジャーを使って違法薬物を売り捌いている。

 犯罪組織の名前はD.C.で、違法薬物の名前はGLAYだ。馬鹿でも解るような簡単な名前だった。


 和輝は黙ったまま、黒薙を見詰め返した。何の情報も漏らす気はない。ーー特に、葵についての情報は秘密にしておかなければならない。


 先日、自宅に謎の大男が強襲した。彼が何者かは今も解らないままだが、ターゲットは葵だった。

 和輝と霖雨は、直前に違法薬物を盛られている。それを口にすることはなかったが、危なかった。

 葵に危害を与える為に、二人を狙った。もしかしたら、三人纏めて薬中にされていたかも知れない。


 理由は解らない。

 だが、警察署で薬物入りの紅茶を提供されたことを思うと、警察官だからといって安易に相談は出来ない。




「君は何か勘違いしている。俺が此処に来たのは、君の友達を検挙する為でも、取り調べする為でもない。麻薬犬のように鼻の利く男を探しに来たんだ」

「生憎、風邪気味でして。ご期待には添えないかと」

「何処までがジョークなんだ?」

「俺はずっと真面目に話してます」




 自分の言葉が軽んじられたことは解ったので、和輝は睨み付けるつもりで両目に力を入れた。だが、百戦錬磨の捜査官には毛程も効かなかった。


 黒薙は、これ見よがしに盛大な溜息を零した。




「俺が悪かったよ。君は他人の言葉を額面通りに受け取ってしまうんだな」

「馬鹿にしてます?」

「いや、褒めているんだよ。素直さは人の美徳だ」




 額面通りに受け取っている訳じゃないんだけどな。

 和輝は胸の内に吐き捨てた。その人の動作や仕草で嘘が解るから、疑う必要がないのだ。

 黒薙は嘘を吐いていない。正直者の目をしている。多分、自分より余程誠実で信用に値する人間だ。


 それでも、自分が嘘を見抜けるからと驕ることは出来ない。この世には、悪意のない殺意がある。嘘が解るからといって、その人の心が読める訳じゃない。


 黒薙は顔を上げ、和輝を見た。不思議な瞳だ。吸い込まれそうな輝きを放っている。




「単刀直入に言おう。捜査に協力して欲しい」

「アルバイトなので」

「俺は君が医療に携わる人間だから声を掛けた訳じゃないよ。ーーこれを見て、その本質を見抜くことが出来るから捜査協力を依頼しているんだ」




 黒薙がポケットから再びあのピルケースを取り出そうとしたので、和輝は慌てて制した。

 黒薙は手を戻した。




「この薬は無味無臭で、効果が出るまでは何の予兆もない。だから、知らない内に投与されることもある」

「そんな危ない薬、早く取り締まって下さいよ」

「今やっている。だが、何しろ犯罪組織御用達の品だからな。件数が多過ぎて処理出来ない」

「だからって、民間人に捜査協力を依頼するな」

「巷に出回る薬の大半は、紛い物だ。本物は極僅かで、何の手掛かりもない」




 和輝は、黒薙のポケットを見た。其処に収められているであろうピルケースを想像して問い掛ける。




「それも、偽物?」




 黒薙は首を振った。




「これは、本物」

「何が違うんですか?」

「出回る粗悪品は、依存性が高く、五感を麻痺させる。故に、他人を意のままに操ることが出来ると謳われている」




 嘗て、拉致された霖雨が投与されたのも粗悪品だ。少量ならば、更生の余地はあるのだろう。

 和輝が意味深に頷くと、黒薙が言った。




「本物の薬は、粗悪品とは段違いの重度の依存性がある。一度でも口にすれば、二度と現実には戻れないだろう。廃人だ。そして、望むものを見せる幻覚作用、天国へ行くかのような高揚感。ーー故に、死者に逢える幻のドラッグと呼ばれている」




 恐ろしいと、思う。だが、それ以上に和輝は疑問だった。




「まるで、体験談みたいですね」




 一度でも口にすれば、廃人なのだろう。それなら、薬の効能をこんなにも詳しく知っている筈がない。


 まるで、下手な怪談だ。その幽霊を見た者は皆あの世へ連れて行かれてしまう。それならば、目撃者だって連れて行かれてしまうのだから、怪談として拡まるのはおかしい。


 和輝が言うと、黒薙が相変わらずの無表情で答えた。




「俺は昔、本物を投与されたことがあるんだ」

「廃人にならなかったんですか?」

「組織の試作品で、液体と気体の薬物を投与されたんだ。固体に比べて効能は低かった」




 液体ならまだしも、気体だって?

 和輝は耳を疑った。無味無臭の薬物が、空気中にばら撒かれたら、大変なことになる。これはテロ行為に等しい。


 いよいよ、他人事ではなくなって来た。


 和輝は観念して、肩を竦めた。




「解りましたよ。俺に出来ることがあれば、何なりとお申し付け下さい」

「君は賢いね」




 偉い偉いと、黒薙が頭を撫でた。

 馬鹿にされている。和輝はそれを振り払った。

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