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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
世紀末の夢
21/68

⑷夢魔

「お前は悪くない」




 足先に迫る血の川を見詰めて、和輝が言った。

 滲み出る悔恨の念が可視化して、其処此処へと充満しているようだ。

 葵は何かを言おうとして、止めた。この言葉は自分へ向けられたものではなく、鏡に映る自分へ言い聞かせているのだ。


 お前は悪くない。誰も悪くない。回避不能の事故だった。

 葵には、それが言い訳のようにも聞こえた。目に映る全てを救いたいと願うヒーローが、取り零したもの。取捨選択した末に切り捨てたもの。それが何時か、真綿で包むようにして彼の首を絞めるのだろう。

 足先へと迫る血の川の如く、じわじわと。


 けれど、葵はそれでいいと思った。

 罪悪感も後悔も、彼が背負う必要はない。それでも救いたいと願い、取り零し、後悔し、嘆く。それがヒーローの宿命なのだ。




「お前は悪くないよ」




 呆然と立ち竦む和輝の頭を撫で付けて、霖雨が言った。労わるように、その首を絞めるように。


 葵は、瓦礫の下に死んだ大男を見ていた。

 これは、自分の相似形だ。何時でもこの光景を鏡に映し、戒めなければならない。


 お前は悪くない。

 お前は、選ばれなかったのだ。







 世紀末の夢

 ⑷夢魔







 夜半、リビングで和輝がグラスビールを呑んでいた。


 珍しい光景だ。

 シャワーを浴びた葵は、湯冷めしないようにと丹念に頭髪をタオルで拭いながら、それを見ていた。


 リビングには和輝しかおらず、点けっ放しのテレビばかりが喧しく騒いでいる。その声も映像も届いてはいないだろう。葵は、タオルを洗濯機へ放り込んでからソファへ腰を下ろした。


 和輝は、何も言わなかった。

 流木が暗い淵へと沈み込むようにして、何かを考え込んでいるように見えた。

 碌な事を考えてはいないだろう。葵は、彼の思考に水を差すべきか逡巡した。けれど、それは結局、何の形にもならなかった。代わりに、テレビの音声を遮るようにして、ローテーブルへ缶チューハイが叩き付けられた。


 和輝は痙攣のように肩を震わせて、漸く顔を上げた。子犬のような真ん丸な瞳に、不機嫌そうな霖雨の顔が映っていた。




「何を考えている」




 地を這うような低い声で、霖雨が詰問する。

 柔和な普段の姿から掛け離れた様子に、葵は二人を見守ることにした。

 和輝は肩を竦めて、少しだけ、笑った。




「あの男の人は、何で死ななければならなかったんだろう」




 テレビの喧騒に掻き消されそうに小さな呟きだった。

 相変わらず、碌な事を考えない男だ。

 馬鹿らしくなって、葵は席を立った。冷蔵庫から缶ビールを取り出す。よく冷えたそれを持って戻ると、霖雨が睨むようにして和輝を見詰めていた。




「それは、お前が考えなければならないのか?」




 尤もだ。

 葵も、霖雨に同感だ。

 和輝が背負う必要はない。そもそも、あの大男のターゲットは葵であって、和輝ではない。


 廃ビルから脱出した後、面倒事に巻き込まれる前に三人は帰宅した。緊急車両のサイレンを遠くに聞きながら、三人は揃って口を噤んでいた。

 後程、和輝が懇意にしているFBI捜査官から経緯を聞いていた。如何やら、あの大男は建物の倒壊に巻き込まれて事故死として処理されたらしい。

 内部にいた葵は、あの建物の倒壊が偶然によるものではないと解っていた。あれは自然発生的なものではなく、何者かが意図を持って爆破したのだ。

 目的は解らない。だが、件の捜査官は終に口を割ることはなく、一切の説明もされなかった。同様に、自分達の関与も問われなかった。


 あの大男の素性も解らない。妄想癖のある精神病患者だったのか、違法薬物に侵された異常者だったのかも解らない。


 全ては、闇に葬られるのだろう。

 そして、その深淵を覗き込んだヒーローばかりが闇に取り憑かれている。


 ミイラ取りが、ミイラだ。

 葵は、皮肉っぽく思った。黙って缶ビールのプルタブを起こす。空気の抜ける間抜けな音がした。




「もしかしたら、俺はあの人を救えたのかも知れない」




 独白のように、和輝が言った。

 葵は、その横顔を叩いてやりたかった。だが、それは葵の役目ではなかった。

 霖雨が、やけに鋭い眼差しで突き刺すように言った。




「驕るなよ、和輝」




 霖雨が、警告するように、叱り付けるようにして言った。




「目に映る何もかもを救えると思うな」

「何でも救えるとは思っていない。それでも、救えるなら、救いたい」




 和輝はグラスへ手を伸ばした。しかし、それを口へと運ぶことはなかった。

 グラスの隆線を辿るように水滴が落下する。




「俺はあの人が死ぬ可能性に気付いていた。それでも、自分の価値観を優先して取捨選択したんだ。それなら、あの人を殺したのは、俺なのかも知れない」

「自己犠牲も過ぎると、傲慢だな」

「道の先に石ころがあって、転ぶと解っていながら、取り除きもしなければ警告もしない。それは怠惰じゃないかな」

「転ぶか如何かなんて、その時にならないと解らないだろう。自分が全ての未来を予知出来ていると思っているのか?」

「解らない。でも、怠惰は習慣になる。一度でも諦めて割り切って考えるようになったら、何時か本当に大切なものを見落としてしまうような気がして、怖いんだ」




 怖いんだよ。

 そんなことを呟いて、和輝は目を伏せた。その様がまるで、神へと頭を垂れる罪人のようで、滑稽だった。


 彼に何の罪があるのだろう?

 けれど、葵には、それが解る。


 今の和輝は、何時かの自分と同じだ。

 兄の死を予測出来た筈なのに、回避出来なかった自分と同じなのだ。こんな後悔が、霖雨に解るだろうか。


 その時、和輝が顔を上げた。丸い双眸に、テレビの発する光の三原色が反射して輝いて見えた。吸い込まれそうな虹彩の輝きに、葵は声を失った。

 彼の後悔は、絶望によるものではないのだ。




「絶望しながら生きるには、人生は長過ぎる」




 これは、戒めなのだ。

 葵が、あの大男の死骸を見て自分と重ね合わせたように、和輝は其処に未来を見たのだ。


 手にしたグラスを漸く口へと運び、和輝はそれを一気に煽った。瞬く間にビールは失われ、空になったグラスがローテーブルへと叩き付けられる。




「もしも、俺が間違った時には、止めてくれよ」

「殴ってでもね」




 霖雨が、困ったように笑った。

 テレビには、何の因果なのか見覚えのある男が映っていた。神の信託者であるかのように驕るコメンテーターと並び、男は何時もの丸眼鏡を正している。

 Sven=Svenssonだ。何時の間にか、テレビ進出を果たしたらしい。




『勇気とは、決断力のことです。壁に行き着いた時に、回り道をするのではなく、その壁を乗り越えることなのです』




 相変わらず、中身のないことを嘯いている。

 その壁を乗り越える方法が解らなくて、誰もが思い悩むのだ。

 だが、参列する者は異論を挟むことなく、それを有難がって聞いている。

 テレビを眺め、和輝が鋭く言った。




「回り道をしたって、ゴールは出来るだろう」




 霖雨が頷いた。




「兎と亀の競争だね。遅れたっていいから、ゴールを目指すことに意味があるんだろう」




 だが、葵は異なる童話を思い出していた。

 兎と亀の競争で、亀は兎を出し抜く為に、身代わりを立てるのだ。その作戦は功を奏し、兎はまんまと騙される。そして、兎は敗北するのだ。


 果たして、この話は何処で耳にしたのだろう。




「正義や勇気という言葉は美しいけれど、難しい。彼の話を聞いていると、言葉に囚われて、本質を見失ってしまいそうだ」




 珍しく、和輝が他人に対して否定的な言葉を口にする。

 酔っているのだろうか。だが、その目は明瞭にテレビの向こうのSven=Svenssonを映し出している。


 そして、和輝は姿勢を正して此方を見た。葵は、ぼんやりとそれを見ていた。




「葵が無事で、本当に良かった」




 不思議な色を帯びた虹彩が、柔らかに潤んで見えた。アルコールによるものなのか、睡魔によるものなのか、葵には判別出来ない。


 天才の思考回路はよく解らない。

 葵は、狐に摘まれたような奇妙な心地でそれを受け止めた。


 和輝の首筋には、大男の掴んだ指先の跡が赤黒い痣として残っている。霖雨の頬は、殴られた為に今も腫れている。

 それでも、五体満足で傷一つ負っていない葵を、問い質すこともなければ、責めることもない。その心理作用は理解不能だ。


 だが、一つ、確かなことがある。

 あのビルの倒壊に巻き込まれた時、葵の命を守ったのは、和輝と霖雨なのだ。

 自分は、彼等によって守られた。そして、今、此処で生きている。


 ヒーローは、いる。

 何時か何処かで聞いた声が耳元に蘇る。


 脳裏に過るのは、兄の死に顔だった。

 自分のせいで犬死したのだ。そう思っていた。でも、本当は違ったのだろう。

 自分は、兄に守られた。兄は犬死ではなくて、名誉の死だった。


 何故だか鼻の奥がつんと痛み、正体不明の熱が込み上げる。それが眼窩から零れ落ちる前に、葵は鼻を啜った。


 おやすみ、と短く言い置いて、和輝は席を立った。置き去りにされた空のグラスが汗を掻いて、自室へと消えるその背中を恨めしく見ているようだった。

 当事者に代わり、霖雨がグラスを下げる。

 キッチンへ向かう背中を見遣り、葵は缶ビールを飲み下した。




「なあ、葵」




 グラスを流し台に置いた霖雨が、顔を上げぬままに言った。




「あの大男と面識は?」




 直球だ。だが、葵も躱す必要がないので、平然と答えた。




「ないよ」

「じゃあ、ただの異常者だったのか?」

「知るか」




 キッチンから戻った霖雨は、何か納得が行かないようだった。




「以前、駅前で無料でコーヒーが配られていたんだ。俺がそれを飲もうとした時、和輝が止めた」

「何で?」

「変な臭いがすると言っていた」




 警察署で、紅茶を提供された時にも和輝は同じことを言っていた。何の確証もないけれど、安易に無碍にも出来ない。




「実は、そのコーヒーを一口飲んだんだ。繋がりがあるのか解らないけれど、奇妙な夢を見た」




 霖雨はぼんやりとテレビを見ながら言う。




「真っ暗な闇の中で、俺は独りきりだった。だけど、突然、誰かの声がした。夢の終わりを告げる声が聞こえて、俺は目を覚ました」




 葵は、相槌を打つべきなのか解らなかった。

 本人でさえ意味不明な夢の話をされたところで、応える術もない。何の関連性もない。




「葵の言いたいこと、解るよ。ただの夢だ。でもね、俺には、それがただの夢だとは、思えないんだよ」




 幽霊の正体見たり枯れ尾花というくらいだから、人は不安に思うと何でもないものにも無意味に想像力を働かせる。

 全ては偶然だ。普段なら、それで終わる筈だった。ーーヒーローが意味深な言葉を吐かなければ。


 葵は溜息を吐いた。




「お前は、違法薬物を投与されて、あの大男と同じく世紀末の夢を見たというのか?」

「解らないよ。全ては後付けだ。それでも、一人で抱え込むよりはマシかなと思ったから」

「地蔵に懺悔するのと同じだな。それこそ、あの馬鹿に言えよ」

「和輝に言うと、些事も大事になりそうだろ?」




 違いない。

 葵は其処で漸く笑った。長く無表情でいた為か、表情筋の強張りを感じた。




「夢は記憶の整理の為に見ると言うけど、あの時の声に聞き覚えがあったように思う」




 もしかしたら、葵だったのかも知れないね。

 霖雨がそんなことを言う。笑えない冗談だ。だが、葵とて、曖昧に笑う以外の方法を持ち合わせていなかった。


 夢のメカニズムは、今も科学的に解明されてはいない。夢に取り憑かれて現実を蔑ろにする等、愚か者のすることだ。ーーけれど、安易に無碍にも出来ない。




「もう、寝るよ」

「おやすみ。ーー良い夢を」




 葵が言うと、霖雨は肩を竦めた。だが、それには何も答えずに自室へと戻って行った。


 独りきりのリビングで、テレビばかりが虚しく騒いでいる。

 Sven=Svenssonが、高らかに言った。




『人は解り合えるのです。他者の思想を受け容れる。それが、思い遣りです』




 人は解り合えないよ。

 葵は、胸の内に吐き捨てた。少なくとも、この男と自分は解り合えないだろう。


 テレビの電源を落とし、リビングの明かりを消す。辺りは闇に包まれた。

 何処か遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる気がした。聞き覚えのある声だ。

 それが妄想であると知りながら、葵は問い掛けずにはいられなかった。




「お前は、誰だ」




 当然、答えはない。静寂の中に響いた自分の声を自嘲し、葵もまた、自室へ戻った。

 嫌な夢を見そうだ。そんな予感がした。

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