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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
世紀末の夢
20/68

⑶救済する者

 突き抜けるような空を見ていた。

 通り過ぎて行く人は、何の変哲もない穏やかな日常を送っている。


 葵は、町外れの廃ビルの前に立っていた。

 指先で挟んでいた煙草は足元へ落とし、踏み消す。そのまま放置しようとしたら、和輝が環境汚染だと声を上げた。


 和輝を鮮やかに無視していると、やれやれと言わんばかりに霖雨が吸い殻を拾っていた。


 警察署を出た後、葵は何も言わずにこの場所を目指した。何となく、人のいないところへ行かなければならないと思ったのだ。

 二人は文句一つ言わずに付いて来た。葵の考えは一言だって伝えていないのに、身の保証もないのに付いて来るので、彼等には危機感というものが欠落していると思う。


 進む先が地獄であっても、彼等は付いて来てくれるのだろうか。


 葵は、そんなことを思った。

 その時だった。




「お出ましだ」




 和輝が身構える。猛禽類の如く研ぎ澄まされた眼差しは、無人の帯となったアスファルトの道の先を見ていた。

 石像のように大きな男が、身体を左右に揺すりながら、一歩一歩と距離を詰める。


 警察の捜査網なんて当てにはしていなかったが、こうも簡単に自分達の居所を知られる様を見ると、誰かさんのように発信機でも付けられているのではないかと懸念してしまう。

 大男は、獲物を捕らえたとばかりに愉悦に口角を吊り上げた。




「行くぞ」




 葵は身を翻し、廃ビルに向かって走り出した。






 世紀末の夢

 ⑶救済する者







 廃ビルの内部は、解体作業を途中放棄したみたいに瓦礫や物品が其処此処に転がっていた。昼間だというのに薄暗い室内を駆け抜け、葵は只管、頂上を目指していた。


 人通りの多いところで鉢合わせてしまえば、誰を巻き込むか解らない。

 あの大男が妄想に取り憑かれた精神病患者でも、違法薬物に侵された一般人でも構わない。問題なのは、ターゲットが誰かということだった。


 玄関先で鉢合わせた霖雨は、突然、殴られた。それを見て和輝は飛び掛かり、逆に首を掴まれた。彼等の立ち位置が逆になったところで、男の行動は変わらないだろう。


 霖雨なのか?

 和輝なのか?

 それとも、自分か。

 誰でも良かったのなら、こんなところまで追い掛けては来ないだろう。


 罅の入った階段を駆け上がる。

 地上七階建ての廃ビルには電気もガスも水道も通っていない。

 五階に差し掛かった時、踊り場の先が二手に分かれていた。

 陽動とは、大男の狙いがはっきりしている時にこそ有効な手段だ。戦力と言えるかは疑問だが、わざわざ二手に分かれる必要はない。


 葵が先導して右手を選ぶと、殿を走っていた霖雨が奇妙に足を止めた。

 そして、何を考えたのか声を上げた。




「こっちだ、デカ物!」




 そう吐き棄てて、霖雨が左手へ走って行った。

 あの男は、何をしているのだろう。


 霖雨どころか、和輝でさえ歯が立たなかった相手に単身挑むというのか。何か切り札でもあるのか。それとも、ただの自己犠牲か。


 見えない糸で引っ張られるみたいに、和輝の歩調が鈍った。葵は舌打ちを噛み殺し、その手を強引に引っ張った。




「霖雨が!」

「いいから、来い!」




 霖雨には尊い犠牲となってもらおう、なんて言えば逆上することが解り切っていたので、葵は黙ってその手を引いた。

 階下から迫る男の足音が、微かに鈍ったようだった。しかし、大男は僅かな逡巡の後、右手へと走った。


 可能性が一つ消去される。

 大男のターゲットは、霖雨ではない。


 結果から鑑みると、危険を承知で単独行動を選んだ霖雨が滑稽だ。

 葵は和輝の手を引き、走り続ける。


 男の狙いは何だ。

 確かに、大男は和輝に過度な暴力を加えた。それは反撃の一つだと思っていたが、端からターゲットが和輝ならば筋が通る。


 男が零した、助けてくれ、という言葉も気に掛かる。




「お前、何をしたんだ」




 この際、和輝の浅はかな行動を咎める気はない。

 葵が言うと、和輝は泣きそうに顔を歪めて訴えた。




「俺じゃない」




 嘘を吐いているようには、見えない。だが、彼は巧みに嘘を吐くので、いまいち信用に欠ける。

 信じてくれ、と和輝が懇願する。

 この後に及んで嘘を吐いて罪を逃れようとする人間じゃない。

 葵は、今度こそ舌打ちを零した。




「じゃあ、何で俺達を追って来るんだ」

「解らないよ。でも、あの人が言っていた。ーー助けてくれって」




 葵は衝動的に、拳を振り上げそうになった。


 この男の悪い癖だ。目に見えるものを何でもかんでも救おうとする。例え、それが命を狙う悪人であっても。


 和輝は何かを考え込むみたいに顎に指を添えた。




「きっと、俺達に何か出来ることがあるんだ」

「馬鹿か、お前は。それなら、あいつが自分の為に死んでくれと言ったら、命を差し出すのか?」

「死ぬ気はないよ」




 既視感を覚える遣り取りだ。

 葵は、暴力的な衝動が萎えていくのが解った。


 そんなことより。

 階段は屋上までは続かなかった。最上階の踊り場から、瓦礫に埋まった廊下を駆け抜ける。

 窓硝子のない壁には、憎らしい程の蒼穹が映っていた。


 世界はこんなに平和なのになあ。

 現実逃避のようなことを考える。その罰だったのか、廊下は突然、途切れた。


 崩落したのか、吹き抜けの如く床が抜けていた。大きな穴と化した其処を飛び越えることは物理的に不可能だった。

 流石に二人は足を止めた。背後には、地響きのような足音が迫っている。


 背水の陣だ。どのみち、こうなることは解っていた。

 葵と和輝は、迫り来る大男に身構えた。

 その時、廊下の向こうからスキンヘッドの大男のシルエットが見えた。


 大男は、足を止めた二人を認めると口元を歪めて笑った。




「助けてくれ」




 葵は、大男と同時に隣に立つ和輝の様子を観察していた。

 和輝がどのような行動を起こすのか、知りたかった。




「何から?」




 愚直にも、和輝が問い質す。

 大男がまともな応答を熟すとは思えない。だが、意外にも大男は答えた。




「終末だ」

「ーー週末は、リフレッシュした方がいい」




 酷く真面目な顔で、和輝が言った。

 これでふざけている訳ではないのだから、頭が痛い。


 此処で漫才に於けるツッコミというものをするべきなのか考えたが、葵は黙って顳顬を揉んでいた。


 和輝の的外れな返答は、大男の耳に入らなかったらしい。愉悦の笑みを浮かべたまま、大男が言った。




「夢を見るんだ。毎晩、同じ夢を」

「どんな?」

「荒廃する世界で、自分は一人きり。救助の手はなく、瓦礫に埋もれて俺は死ぬーー」




 其処で、大男の顔から笑みが消えた。

 和輝は困ったように眉を寄せている。




「頑張り過ぎですよ。少し、休んだ方がいい」




 相変わらず、会話は噛み合わない。

 大男の言っていることは理解出来ないが、和輝の返答が的外れであることは解る。


 妄想癖の患者と応対するときは、真に受けず、話を逸らすしか手段がないという。和輝はそれに則って応対しているのだろうか。


 表情を失った大男は、まるで岩壁のようだった。葵の太腿程もある二の腕を持ち上げ、大男は指差した。

 強張った指先が、此方を指し示している。




「意識が途切れる寸前、お前を見た」




 その時。

 大男の指先が指し示すものの正体を知るより早く、地震の如く世界が激しく揺れ動いた。




「何だ?!」




 余りの揺れに立っていられず、葵の身体はぐらりと後方へ傾いた。




「葵!」




 悲鳴のような切羽詰まった声が聞こえた。

 ヒーローが、らしくないじゃないか。


 地の底まで続くような虚穴へと、葵の身体は吸い込まれていた。


 揺れ動く世界から切り離された葵の脳は、落下しながら目まぐるしく情報を収集していた。周囲にあるものを察知し、自身の助かる術を必死に探っている。

 非現実的な状況で、頭ばかりが冷静だ。


 何か、何かないか。

 この状況を打破する起死回生の一手はないのか。


 溺れる者が藁に縋るように、葵はそれを探していた。


 不思議だった。別に生き長らえたいとは思っていなかったのに、死を前にすると回避の手段を探す。


 おかしいねえ。

 転落の最中、葵はそんなことを思った。


 生き長らえたいだなんて、微塵も考えてはいなかった。誰かを犠牲にしてまで、生に執着する気もない。それなのに、自分は此処まで生き残って、本当に生きたかっただろう周囲の人々が死んで来た。

 両親も、兄も、友人も。


 こんなの、おかしいじゃないか。


 生き長らえたいとは、思わない。ーーでも、此処で俺が死んだら、彼等が犬死じゃないか!




「葵!」




 視界の端で、何かがきらりと光った。

 轟音の中でも明瞭に届いた声に導かれるように、葵は目を向けていた。


 何処から沸いて出たのか、霖雨が見えた。

 今にも死にそうな真っ青な顔で、此方へ手を伸ばしている。


 葵の手は、それを取っていた。

 霖雨の掌は僅かに汗ばんでいた。確かな熱量を感じながら、葵の身体は現実に繋ぎ留められた。


 しかし、霖雨は、葵の手を取りながら支え切れずに体勢を崩した。

 こんなところで、霖雨まで死なせる訳にはいかない。それでも、葵の手は離されなかった。


 霖雨は上半身を乗り出していた。今にも転落しそうな最悪の状況だ。

 揺れは未だに続き、まるで、この世の終焉を思わせた。


 頭上では、建物の崩壊する音に混ざって誰かが戦っている。

 瓦礫の隙間に見えたのは、あの大男と対峙する和輝の姿だった。


 やけに真剣な横顔が、何故か兄の死に顔と重なって見えた。


 和輝の勝てる相手じゃない。そんなことは解っている。精神論が通用するのはフィクションの世界だけだ。


 案の定、和輝は大男の強烈な蹴りによって吹き飛ばされ、呆気なく転落した。

 葵は状況を忘れ、手を伸ばしていた。


 転落して来る和輝が、一切の迷いなく葵の手を取った。

 二人分の体重を支え切れず、霖雨がくぐもった呻き声を漏らす。関節の軋む嫌な音がした。


 霖雨の身体はずるりと引き摺られるようにして、空中へ投げ出された。

 一蓮托生だ。同時に、葵と和輝も虚空へ投げ出される。


 その酷い転落感の中で、小さなヒーローが恐るべき力を発揮する。火事場の馬鹿力とでも言うのか、和輝は二人分の体重を引っ張って、崩落する瓦礫を足場に建物の縁へ手を伸ばした。


 張り詰めた糸のように、繋がった腕が軋む。

 絶体絶命の状況でありながら、和輝は此方を見下ろして笑ってみせた。




「大丈夫」




 何が、とは訊けなかった。

 葵の頬に、一粒の血の雫が落ちた。大男の一撃を喰らったのか、和輝の口元は切れて鬱血している。顳顬から流れた血液が、涙のように頬を伝って落下する。




「必ず、助けてみせるから」




 ヒーローが、そんなことを言って泣きそうに笑う。


 この状況で、お前が?


 それでも、ヒーローが言うのなら、きっと助けてくれるのだろう。


 助けて、くれるのだ。

 命を賭して自分を救った兄と同じように。




「霖雨!」




 和輝が叫んだ。


 返事をする間もなく、霖雨は空中で反動を付けて揺れ動いた。阿吽の呼吸だ。

 その勢いを殺さぬまま、霖雨は一気に側にあった階下の廊下へと着地した。弾みで葵の身体も引き寄せられた。


 亀裂だらけの廊下に着地すると、すぐさま和輝も猫のように飛び降りて来た。


 和輝と霖雨が、葵を見た。




「行くぞ、葵」




 何時の間にか、二階まで戻って来てしまっていた。穴の下には、出口のある一階が見える。

 今更、階段を使うのも馬鹿らしく思えて、葵は下を覗き込んだ。あの大男は当然ながら、此処にはいない。


 渋る霖雨を強引に連れて、三人は一階へと飛び降りた。軽々着地した和輝と葵とは打って変わり、霖雨ばかりが鈍く着地する。

 両足に伝わる振動を殺し切れなかったのか、霖雨は頻りに足を摩って痛みを誤魔化している。


 建物の崩壊は続いている。

 何が起こっているのかは、解らない。窓の向こうは相変わらず平和そのもので、この世の終焉とは程遠い。如何やら、この建物だけが崩壊しているらしかった。


 兎に角、脱出しよう。

 警察に通報する必要がある。


 葵が携帯電話を取り出した時ーー、背後であの地響きが聞こえた。




「助けてくれ」




 嘘だろ。

 霖雨が、力なく呟いた。


 振り返った先には、あの大男が立っている。まるで、悪夢のようだ。

 躙り寄る大男の前に、庇うようにして和輝が立ち塞ぐ。葵はそれを退けた。




「お前がどんな悪夢を見ているか知らないが、それは夢で、現実じゃない」

「夢の終わりを告げるのは、いつも、お前だった」




 大男の濁った双眸は、葵を映していた。

 葵は、舌打ちを零す。


 解っていたことだ。この男の指す者が誰かなんて、もう解っている。

 追われていたのは、霖雨でも和輝でもない。理由は解らないが、葵なのだろう。




「助けてくれ!」




 叫んだと同時、天井が崩落した。

 瓦礫が大きな影となって、大男と葵へ降り注いだ。何かを判断する余裕など、欠片もなかった。視界一杯を埋め尽くす瓦礫を葵はただ、呆然と見ていた。


 ずしん、と。

 瓦礫が地面に沈む重低音が響いた。

 もうもうと立ち込める粉塵の中、葵は尻餅を着いていた。




「葵、無事か」




 和輝と霖雨が、葵の腕を掴んでいた。

 足先まで迫る瓦礫の下から、血液が川のように流れている。


 間一髪というやつなのだろう。

 葵は、自分を繋ぎ留めた二人を見ていた。

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