⑴天泣
The future starts today, not tomorrow.
(未来は今日始まる。明日始まるのではない)
Pope John Paul II
「電車の中でジャンプしても、着地点が変わらないのは何でだろう」
不思議だねえ。
窓の向こう、後方へ流れていく車窓を眺めながら和輝が首を傾げた。
行儀良く膝を揃えて座る様は、躾の行き届いた子どものようだ。
思わず振り向きたくなるような可愛らしい顔立ちをしているが、生憎、車内は回送電車のように伽藍堂だった。紅い夕陽に照らされた横顔は物憂げで、後頭部の跳ねた寝癖がアンバランスだ。
格好の付かない男だ。
葵は溜息を零した。
「慣性の法則だよ」
等間隔に響く擦過音の中、葵は教えた。
「外部からの力が働かない時、静止している物体は静止を続け、運動している物体は等速度運動を続ける」
「真上にジャンプしているのに?」
「真上に跳んでも、周囲の空気は移動している。これと一緒に、物体には前進しようとするエネルギーが掛かっている。車が急には止まれないように、跳躍した物体も前進する」
葵としては、幼児にも解るように丁寧に答えたつもりだった。だが、青年ーー蜂谷和輝は、納得行かないようで眉を寄せていた。
「不思議だなあ。じゃあ、電車の上でジャンプしたらどうなるのかな」
「周囲の空気は静止しているから、空気抵抗で着地点は後方へ動くだろう」
その前に、振り落とされるのではないだろうか。
葵は言おうとして、止めた。常人離れした身体能力を持つ彼ならば、見事に着地するかも知れない。
空気抵抗を物ともせず、同じ場所に着地する可能性すらある。もしくは、無意識的に前方へ跳躍して首を傾げるのかも知れない。
和輝は、初めて科学に触れた子どものように純真に目を輝かせている。
不思議だねえ。面白いねえ。
そんなことを言って微笑む。
世界は面白い。賢者よりも、愚者である方が世界は広く見えるのかも知れない。世の中は馬鹿の方が多く、彼等の為に世界は動いている。
「良かったね」
四百年も前に提唱された物理法則を、今更知ったみたいに和輝が喜ぶので、葵はどうでも良くなってしまった。
世の中は馬鹿の方が多い。そして、馬鹿である方が世界は面白いのだ。
ただし。
「今、何処に向かっているんだっけ?」
ただし、同じ馬鹿になろうとは思わない。
小春
⑴天泣
葵が生まれた時には、世界に明確な正義が存在していた。人生にはレールが敷かれ、道を踏み外すことは許されなかった。
国家の為の犠牲となることが、正義だった。
神木家は代々警察官の家系だった。両親も当然、警察官だった。そして、彼等は警察官としての職務を全うし、殉職した。
彼等は立派だった。国家の為に命を投げ出し、周囲の人間はそれを褒め称えた。
名誉の死だよ、と皆が拍手をした。
その頃から、葵には解らなくなってしまった。
両親が死んだことを、喜ぶべきなのか?
拍手を送るべきなのか?
同じ道を選び、命を投げ出すことが正解なのか?
それなら、機械で良いじゃないか。
自分は何の為に生きているのだろう。
周囲の人間は、殉職を褒め称えたのではない。生き抜いたことを認めたのだ。
そんなことは解っていたけれど、誰もそれを口に出してはくれなかった。だから、葵は解らなくなってしまった。
両親の葬儀は盛大に行われ、まるで何かの祭典みたいだった。火葬場へ送られる両親を見ていた葵は、兄と手を繋いでいた。それだけが自分の存在を肯定していた。
兄は警察官になった。
周囲の人間もそれを認めた。ーーそして、兄も殉職した。
兄の葬儀も盛大だった。両親を失った日と同じように周囲の人間は拍手をした。けれど、葵の手を繋いでくれる人はいなかった。
喜ぶべきなのか?
偉いね、立派だね、素晴らしいね、と?
世界は結果が全てだ。兄は殺された。犯人は逮捕された。だが、そのきっかけを作ったのは葵だった。
俺が殺したのか?
こんなことを望んだ訳じゃない。
兄を死なせたい訳じゃなかった。生きていて欲しかった。この手を繋いで欲しかった。
遺影に映る兄が、自分を責めているような気がした。
「お前のせいじゃないよ」
天を突くような石碑を前に、和輝が言った。
変声期を迎えなかったようなボーイソプラノが鼓膜を揺らし、葵の意識は過去から回帰した。
周囲に人気は無い。まるで、この場所が現実から切り離された異世界みたいだ。
死に掛けの太陽の残光が辺りを紅く染めている。都市部から離れた公共の広場に利用者は無い。だだっ広い空間は、死んだ大勢の人間を弔い、遺族を慰める為に存在していた。
今から凡そ五年前、世界を震撼させる事件が起きた。先進国を狙った後進国の過激派犯罪組織が、旅客機を爆破したのだ。
所謂、自爆テロだった。
犯人は当然、死んだ。この事件をきっかけに戦争が勃発し、それは今も激化を続け、世界は終わりの見えない混沌の時代を迎えていた。
旅客機には、葵の友人も搭乗していた。
そして、友人は遺骨すら残らぬ程の劫火の中で焼かれ、死んだ。石碑には、友人の名前が刻み込まれている。
石碑が立派であればある程、世界が友人等の犠牲を望み喜んでいるように思った。
だから、葵は、この場所を訪れたことは無かった。
両親を見送った時、手を繋いでくれた兄のように側にいてくれる人はいない。
兄が死んだ日のように、世界から置いて行かれたみたいに独りきりになるのが怖かった。
石碑に刻まれた名前が、自分を責めているようで恐ろしかった。
解らなかったのだ。
喜ぶべきなのか?
拍手を送るべきなのか?
彼等の後を追って、国家の為に犠牲となるべきなのか?
「何が正しかったと思う?」
葵の口からはそんな言葉が溢れた。
口にするつもりは無かった。どんな言葉が返って来ても納得出来る訳じゃない。正解でも不正解でも認められる訳じゃない。
受け容れてくれると解っていて弱音を吐くのは、無責任だと思った。
ブルーパールの石碑が、夕陽を反射して輝いている。
まるで、我々は此処でお前を見ているぞ、と、お前を許さないと訴え掛けているようだ。
許されるなんて、端から思っていない。
罪は人を許さない。そんなこと、初めから解っている。
「泣けば?」
和輝の声が、一陣の風を連れて吹き抜けた。
当たり前のことを言うみたいに、和輝は不思議そうに小首を傾げていた。
「そうか」
反論が頭の中で津波のように押し寄せる。けれど、それを退けるようにして、葵は返していた。
そうか、そんな簡単なことだったのか。
泣けば良かったのか。ーー泣いても、良かったのか。
誰が否定しても、認めなくても、何を言っても、それで良かったのか。
世界中の人々が名誉だと褒め称えても、たった一人でも泣いて嘆いて悲しんでも、良かったのか。
ぽつりと、雨が降った。
頬を滑った雫は顎に到達すると、重力に従って落下した。コンクリートに出来た小さな黒点が、自分を笑っているようだった。
「雨だ」
葵が言うと、和輝がからりと笑った。
翳りの無い美しい微笑みは、世界の評価を覆す程に美しく見る者を魅了する。完成された一つの絵画のようで、何も知らない無垢な子どものようだった。
「雲も無いのに、不思議だね」
でも、そんなこともあるよね。
和輝の小さな掌が、肩を叩いた。血の通った温かい掌だった。
温もりを分け与えられたように、凍り付いた何かが溶けていく。
雨が止まない。
何故だか眼窩が熱く、溶けてしまいそうだった。