⑵違法ドラッグ
フローリングが、悲鳴を上げた。
現実感を喪失させた状況で、やけに拍動ばかりが鮮明に聞こえていた。
リビングへ駆け込む後ろから、刃を振り翳した大男が迫っていた。
先導する葵は、和輝の腕を引っ付かんで真っ直ぐに自室へ飛び込んだ。訳も解らないまま、霖雨も後を追った。
葵は窓際でくるりと踵を返した。
転がり込んだ霖雨は、急ブレーキを掛けたみたいにつんのめり、そのまま呆気なく体勢を崩した。倒れ込む寸前のところで、子どものような体格のヒーローに支えられる。
迎撃の姿勢を取った葵が、身を低く構える。迫る男は一瞬の躊躇もなく、部屋へ飛び込んで来た。
霖雨の目には、それがコマ送りに見えた。
男の身体は磁石に吸い寄せられる砂鉄みたいに、葵の拳へ突っ込んだ。
葵の腕が槍のように突き出され、鈍い音と共に男は衝撃に後方へ倒れた。
俗に言う、クリーンヒットだ。
鼻っ柱を殴り飛ばした葵は、口元に好戦的な笑みを浮かべていた。
「Serves you right!!」
葵の流暢な外国語が室内に反響した。
男の倒れる地響きが聞こえ、霖雨は深い息を零した。
正体不明の男が強襲した玄関先から、僅か数十mの距離だった。その間で体勢を立て直し、更には迎撃した葵には、最早、感嘆の声も出ない。
状況も解らず突っ込んで来た和輝にも、自分より一回りも上の大男に立ち向かう葵にも、住んでいる世界が違うと改めて思った。
無呼吸状態で過度な運動をしていたみたいに、視界が白く滲んでいる。今更になって、殴られた頬の痛みを感じた。その場所に座り込んでしまいたい衝動に駆られるが、霖雨は今にも倒れてしまいそうに蒼白な顔色をした和輝が気に掛かった。
じんじんと熱を持つ頬を撫でながら、霖雨は和輝の様子を窺った。
我らがヒーローは、その細い首筋に赤い掌の痣を残している。息も絶え絶えに、和輝が微笑んだ。
葵は、満身創痍の霖雨と和輝を見下ろして眉を顰めた。
「原因はどっちだ?」
この訳の解らない状況を引き起こした犯人を探る葵は、それが二人のどちらかであると決め付けている。
霖雨は身に覚えがなかったので、咳き込む和輝へ目をやった。葵も釣られるように其方を見遣る。しかし、和輝は緩く首を振った。
「俺じゃない」
根拠のない反論は無視して、霖雨は倒れている大男を見た。
大男は身動き一つせず、昏倒しているーー筈だった。
ゆっくりと、大男が起き上がる。
顔色をさっと変えた葵が、場違いな程に冷静な声で呟いた。
「嘘だろ」
俺だって、嘘だと思いたいさ。
霖雨の嘆きは、冬の冷たい空気の中に霧散した。
逃げるぞ。
弾かれたように、三人は窓から脱出した。
世紀末の夢
⑵違法ドラッグ
何が悲しくて、朝っぱらから同性の男に追い掛けられなければならないのだろう。
人気のない街路を疾走し、三人は転がり込むように近くの警察署へ駆け込んだ。
常にない三人の様子に、平和呆けした署員は目を真ん丸にしていた。
たどたどしく状況を説明する霖雨を、まるで妄想に取り付かれた精神病患者みたいに白い目で見ている。構わず、霖雨は保護を求めて警察官へと訴えた。
受付の奥から、見覚えのある男が現れた。幾度となく世話になって来た、和輝と親しいFBI捜査官だった。
如何して、警察署にFBI捜査官がいるのかは解らない。だが、それを問う余裕もなかった。後ろからあの大男が迫っているような気がして、今は一刻でも早く安全な場所へ避難したかった。
半ば動転している霖雨の言葉を重く受け止めたFBI捜査官の厚意で、三人は署内の奥へと案内された。
相談室のソファに座り、紅茶を提供されたところで漸く、霖雨は正常な呼吸を思い出したような気がした。
個室には霖雨と和輝と葵の三人きりだった。
紅茶は三人分用意されている。透明人間の葵の分まで用意されていたことに、霖雨は少しだけ感動した。
霖雨は深呼吸して、紙コップへ手を伸ばした。喉がからからに乾いて、紙でも貼り付いているみたいに気持ちが悪かった。
スポーツ飲料があったら、一気飲みしたいくらいだ。
その時、和輝が言った。
「飲むな」
お前は鬼か。
霖雨が睨んだ先で、和輝が酷く真剣な顔をしていた。身を竦ませるように動きを止めた霖雨に、葵がそっと言った。
「飲むべきじゃない」
「なんで」
「この馬鹿の言うことは、馬鹿に出来ない」
変な文章だな。
霖雨は、葵の言葉を聞きながらそんなことを思った。
其処で、扉が軋むように開いた。
先程のFBI捜査官が現れたので、結局、霖雨は紙コップを机上へ戻した。
正面の席に座った捜査官は、取り調べを始めるみたいに固い声で質問を始めた。
霖雨は、何処かに嘘発見器でも仕掛けられているのではないかと不安に思いながら、今朝からの出来事を一つ一つ報告した。
案の定、捜査官は怪訝そうに眉を寄せている。けれど、霖雨も俄かには信じ難いが、虚偽の申告等一つもしていない。捜査官がこの言葉を受け入れてくれることを祈りながら、重く苦しい沈黙が過ぎ去るのを待った。
「原因に心当たりは?」
その問い掛けに、霖雨と葵は揃って和輝を見た。
和輝は寝耳に水とばかりに目を丸めて、熱り立った。
「俺じゃない!」
「信用出来ない」
葵の言葉は酷いが、霖雨も同感だ。
和輝はいじけてそっぽを向き、状況も忘れ、子どもの喧嘩みたいだと思った。
「普段の行いが悪いんだよ」
先日も、自殺未遂の女を殴り、野次馬と乱闘をしたばかりだ。彼が悪人でないことは知っているが、トラブルメーカーであることは否めない。
一息吐こうと、霖雨は机上の紙コップを見た。琥珀色の液体に、恨めしそうな自分の顔が映っている。
如何して、飲んではならないのだろう。
大きな溜息を吐き出して、和輝が言った。
「この紅茶、何方が淹れて下さったのですか」
詰問のような強い口調で、和輝が言った。
流石に捜査官も怪訝に感じたようだった。
「署員が淹れてくれたものだよ。何か、問題が?」
「その人、注意した方がいいですよ」
「如何して、そう思う?」
「変な臭いがする」
紙コップを取り上げて、和輝が鼻先を寄せる。
「添加物みたいな甘さと、薬の臭いだ」
言われてみて、霖雨も臭いを嗅いでみる。
正直、何の変哲もない安っぽい紅茶だとしか思わない。僅かに香る茶葉の香ばしさに、乾いた喉を潤したいと思った。
捜査官は立ち上がって、部屋を出て行った。
彼はすぐに戻って来て、今度はペットボトルのミネラルウォーターを一本ずつ差し出してくれた。
先陣を切って和輝がそれを開封する。
警察犬みたいにミネラルウォーターの匂いを嗅ぎ、一口呑み下す。
そして、一気に煽った。
ごくごくと喉を鳴らす、気持ちの良い飲みっぷりだった。
半分以上を一気に飲み干した和輝は、満足そうに満面の笑みを浮かべていた。
「生き返るねえ」
不穏な空気を作り出した張本人とは思えない。霖雨は溜息を零し、ペットボトルに手を伸ばした。
忙しなく水分補給に勤しむ三人を尻目に、捜査官はポケットから小さなピルケースを取り出した。軽い音を立てる中には、灰色の錠剤らしきものが二つ転がっている。
捜査官が言った。
「これを、知っているかい?」
ペットボトルから口を離し、霖雨は首を振った。和輝も同様だった。葵だけが、訝しむようにそれを見詰めている。
捜査官はケースを開封し、和輝の鼻先へ突き付けた。危険物だったら、如何するのだ。
霖雨は内心、冷や汗を掻きながら遣り取りを見守っていた。
和輝は灰色の錠剤を嗅ぎ、思い出したように口を開いた。
「この臭いだ」
何が、とは訊けなかった。目の前にいる捜査官の真剣な眼差しに、言葉は喉の奥に消えてしまった。
「紅茶と同じ臭いがする」
言われてみて、半ば奪い取るようにして霖雨もその臭いを嗅いでみる。しかし、無臭だった。これが何かは知らないが、こんなものが紅茶に混ぜられていたとしても判る筈がない。
捜査官は深い溜息を零した。
「この近辺でばら撒かれている違法ドラッグだよ」
「違法ドラッグって」
霖雨が零すと、その続きを葵が引き取った。
「巷で噂の違法ドラッグといえば、GLAYだな」
「知っていたのか」
「死者に逢えるという幻のドラッグ。その紛い物が出回っているんだ」
何処かで聞いたような話だ。
霖雨は黙って先を促した。
「従来とは段違いの依存性と幻覚作用。一度口にすれば、二度と健常者には戻れない。犯罪組織御用達の品、それが巷で噂の違法ドラッグだよ」
「D.C.か」
D.C.というのは、所謂田舎のヤクザだ。違法ドラッグを主な収入源として、界隈のティーンエイジャーを巻き込んで過激な犯罪行為を起こしている。
組織に目を付けられた和輝が襲撃されたこともあったし、拉致された霖雨が薬物を投与されたこともあった。
浅からぬ因縁があることは確かだが、今回、大男が襲撃して来たこととの繋がりが見えない。
兎に角、自分達に提供された紅茶には、違法ドラッグが混入しているらしい。
それを聞くと、有り触れた紙コップを満たす紅茶が恐ろしいものみたいに見えた。
何かを考え込むように、和輝は顎に指先を当てて言った。
「幻覚作用ーー。もしかして、あの大男は、薬物依存者なんじゃないか?」
そして、幻覚に惑わされて自分達を襲った。
自分達は、偶々巻き込まれたのだ。霖雨はそう思いたかった。だが、あの大男が零した声が、未だに頭の隅に引っ掛かる。
助けてくれ。
あの助けを求める声は、果たして誰に向けられたものなのだろうか。そして、彼の見ていた幻覚とは何だったのだろう。
溜息を零して、葵が言った。
「判断材料が、少な過ぎる。あれが偶々襲撃して来たのか、特定の誰かを狙ったのかは解らない。今は、一刻も早く、あの大男を拘束して欲しい」
「今、追っているところだ」
捜査官が苦い顔で言った。
葵はそれを聞くと、静かに席を立った。
「此処も長居していられない。混ぜ物をした紅茶を提供するような警察署だぞ。何処に危険があるのか解らない」
それもそうだな。
霖雨は名残惜しみながら、席を立った。ーー其処で、視界がぐらりと揺らいだ。
目の前には、あの闇の回廊が浮かんだ。
周囲に人気はなく、何処か遠くで反響する水の音ばかりが不気味だ。
「霖雨?」
労わるように優しく問い掛ける和輝の声で、霖雨の意識は急浮上した。
自分が白昼夢を見ていたことに気付き、身体中がどっと重くなった。
何だ、今の妄想は。
自分の思考回路を疑うと同時に、既視感を覚えた。同じ夢を、今朝も見た。
まさか。
顔色を悪くした霖雨に、和輝が言った。
「駅前で、コーヒーを配っていただろう。同じ薬の臭いがした」
ボランティアで配給された紙コップ一杯のコーヒー。道行く人々は違和感など微塵も抱かず、それを有難がって飲み干していた。
もしも、其処に違法ドラッグが混ぜ込まれていたら?
ぞっとして、霖雨は全身に鳥肌が立った。
知らぬ間に薬物中毒に陥ってしまう。これは、正に、テロ行為だ。
捜査官が能面のような無表情で立ち上がった。
「早急に捜査しよう」
「お願いします」
「ああ。それから、君達の身柄なんだが……」
捜査官の言葉を遮って、葵が言った。
「自分の身くらい、自分で守れます」
不敵に笑う葵に、捜査官は息を吐くようにして笑った。
警察に保護してもらうべきかも知れないが、警察が安全とは限らない。信じるものは、結局、自分しかないのだ。
それまで黙っていた和輝が、からりと笑った。
「大丈夫。必ず、守ってみせるよ」
それは誰に向けられた言葉なのだろう。霖雨には解らない。
だが、ヒーローが大丈夫と言うのなら、大丈夫なのだろう。根拠のない自信には、もう慣れていた。