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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
世紀末の夢
18/68

⑴暗示

 Change before you have to.

(変革せよ。変革を迫られる前に)


 Jack Welch


 




 後ろ指差される居心地の悪さに、霖雨は息の塊を吐き出した。それは冷たい街の雑踏の中に踏み消され、やがて霧散していった。


 SNSを賑わせたヒーローのスキャンダルは、当人が思う以上に根深い。悪事千里とはよく言ったもので、噂は尾鰭を付けて人々の中を泳ぎ回っていた。


 彼の輝かしい経歴から理想像を抱いていた者は裏切られたと嘆き、唾を吐き捨てるように非難が殺到している。

 その影響は凄まじく、和輝の勤務先に悪質な嫌がらせをする馬鹿な人間も現れたようだ。


 勤務先に迷惑を掛ける訳にはいかないと言って、和輝は早々に辞職したらしい。その為、彼は現在、経済能力のない一介の学生となっていた。学生の本分は勉強だが、中々アルバイトが続かない男だ。彼に非がないとは言え、如何なものだろうか。


 医療関係者を目指す彼の障害とならぬことを祈りながら、霖雨は恐々と日常を過ごしている。和輝が束の間の休息と言って毎日のように遊び回っているのが、正直、理解出来ない。


 彼は母国にいた頃、根も葉もない劣悪なマスコミのバッシングに随分と苦しめられたという。そのせいで神経が麻痺してしまったのだ。




「如何して他人の評価なんて気にするんだ?」




 不思議そうに、和輝が言っていた。

 下世話な他人の視線に晒されながら、彼は普段と変わりなく過ごしている。霖雨には理解出来ない神経の図太さだ。


 日常生活に支障を来す程ではないにしろ、和輝の行いは褒められたものではない。

 ビルの屋上から飛び降りようとしていた少女を救ったとはいえ、和輝はその手を上げて彼女の頬を打った。女性の権利保護団体から抗議の電話があったらしい。少女が被害届を出さなかったことが不幸中の幸いだ。そうでなければ、和輝は傷害罪で然るべき措置を取られていたのではないだろうか。


 少しは反省した方がいい。

 霖雨はそんなことを思う。けれど、彼の頭に間抜けな寝癖が残っていて、苦言を呈す気さえ失ってしまった。


 そんな和輝の買い物に付き添った霖雨は、自分の選択を後悔した。どうせ、この男は何も反省しない。

 鏡を見る習慣がないのだから、自身の行いを省みること等ないのだ。自分の行為の結果、責任は一人で背負う覚悟がある。聞こえはいいが、側にいる人間から見ると非常に扱い難く、面倒臭い。


 そんな彼は、神様の依怙贔屓とばかりの美しい顔で街を闊歩している。

 霖雨は、和輝の寝癖の残る後頭部を叩いた。




「鏡くらい見ろよ。最低限の身嗜みを整えるのは、社会人のマナーだろ」

「鏡に映るものが真実とは限らないじゃないか」




 馬鹿の癖に屁理屈を捏ねるので、霖雨は呆れてしまった。訳の解らない言い訳は無視して、撫で付けるようにして寝癖を直してやった。

 少年のような可愛らしい顔で「ありがとう」と微笑むので、霖雨は肩を落とした。


 衆目監視の中で街を歩いていると、自分が芸能人になったのではないかと錯覚してしまう。霖雨は他人の視線を振り払う為に早足で歩き出した。


 街角を曲がった時、覚えのある独特の匂いがして、霖雨は足を止めた。

 真っ白い移動販売車が止まっていた。カジュアルな服装をした女性が、これまた真っ白な前掛けをして、何かの紙コップを配っている。

 霖雨は漂う匂いから、配られているものの正体を悟った。




「いい匂いだねえ」




 霖雨が言うと、その呟きが聞こえたらしく女性が穏やかな笑顔で紙コップを差し出してくれた。予想した通り、中は闇色の液体ーーコーヒーが注がれている。

 立ち昇る柔らかな湯気と香りが鼻腔を擽る。霖雨は断る理由もないので、それを受け取った。辺りでは、通勤途中のサラリーマンやキャリアウーマンといった調子のスーツの人々が、コーヒーブレイクとばかりに一息吐いているようだった。


 霖雨がその群れに紛れようとした時、眉間に皺を寄せた和輝が言った。




「変な臭いがする」




 母国語の呟きは、周囲の人々には伝わらなかったらしい。だが、その表情に不穏な空気が広がる。

 和輝は警戒を滲ませて、それを受け取りはしなかった。

 ぐるぐると辺りを見回しては頻りに首を捻っている。


 そういえば、何の為の配給なのだろう。

 試飲にしても、メーカー名が記されている訳でもない。移動販売車はキャンバスのように真っ白で、窓はシールドで覆われている。


 不穏な空気を察した女性店員が、仮面のような温度のない笑顔で言った。




「通勤途中の方を中心にサービスでお配りしています」




 なるほど、ボランティアか。

 通勤途中ではないが、お零れに預かったところで文句も言うまい。


 和輝の不穏な言葉を横に、霖雨は恐る恐る舐めるようにしてコーヒーを啜った。

 舌先で転がすように味を確かめるが、変わったところはない、と思う。インスタントに比べると深い風味と香ばしい匂いがする。


 霖雨は、綺麗な微笑みの女性店員を見た。真っ白い前掛けの胸元に、オレンジ色のマークが一つ刻まれていた。ーー流線型の、飛び跳ねる魚だろうか?


 そんなことをぼんやり考えていた時、和輝の上げた肘が霖雨の持つ紙コップに衝突した。紙コップはバランスを崩し、乾いたアスファルトへ木の葉のように落下してしまった。


 紙コップを満たしていたコーヒーは散乱した。衝撃で霖雨の掌にも飛び散って、熱さに思わず声を上げた。




「何するんだよ!」

「ごめんごめん」




 悪気なんて微塵も感じてないみたいに、和輝が軽薄な謝罪を口にする。

 霖雨は溢れてしまったコーヒーを見下ろして、女性店員の顔色を伺った。

 女性店員は気を悪くした風もなく、此方の心配ばかりをしていた。路上の掃除を始める彼女を前に、和輝は形だけは申し訳無さそうに謝罪する。


 その作り物めいた困り顔に、霖雨は直感した。ーー和輝はわざと、肘を当てたのだ。


 理由は解らないが、やり方が悪質だ。

 やはり、この男は一度殴ってやらないとならない。

 そんな物騒な決心を胸に、霖雨は和輝の頭を押さえ付けて平謝りしていた。






 世紀末の夢

 ⑴暗示






 真っ暗な回廊を一人で歩いていた。周囲には誰かがいたような気もするが、いつの間にか消えてしまった。

 自分が何処にいるのか、何を目指しているのかも解らない。ただ、進まなければならないということだけは理解していた。


 一人分の足音が遠く反響する。人気のない辺りには、幽霊すらも存在していないのだろう。

 霖雨には何故だか、これが夢だと解っていた。


 夢はお終いだよ。そろそろ、起きる時間だ。


 何処からかそんな声がした。

 その正体を訝しむ間も無く、霖雨はすとんと納得した。


 真っ暗だった視界が仄かに照らされ、目の前には天辺すら見えない巨大な階段が見えた。誰かが、足音を響かせながら降りて来る。

 霖雨はただ立ち止まって、それを見ていた。


 足音は目の前に迫り、停止した。

 霖雨が顔を上げて、その正体を探ろうとしても、辺りは黒い靄に包まれて解らなかった。

 知っているような気もするけれど、解らない。喉の奥に小骨が引っ掛かって取れなくなってしまったようなもどかしさを抱きながら、霖雨はその影を見ていることしか出来なかった。


 ぱちん。

 シャボン玉が割れるように、霖雨は覚醒した。其処は見慣れた自室の天井だった。


 何か、酷く懐かしい夢を見ていたような気がした。その内容は明瞭ではなく、思い出せない。


 鉛のように重い身体を引き摺って、霖雨は如何にかベッドから起き上がった。締め切られたカーテンを開けると、窓には薄く霜が降って、世界は踏み荒らされぬ白銀の世界が広がっていた。

 寝坊の太陽も既に顔を覗かせ、やがて雪を溶かすのだろう。

 もうすぐ、春が来る。

 そんなことを考えている内に、夢のことなんて忘れてしまった。


 リビングに出ると、香ばしい匂いが漂っていた。カウンターキッチンの向こうで、和輝が朝食の用意をしている。

 起き出した霖雨を見て、和輝が可愛らしく微笑んで挨拶をした。


 これで、性別が違えばなあ。

 不毛なことを考えて、一人で虚しくなる。


 和輝に挨拶を返して、霖雨は寝巻きのままソファへ座った。

 夜行性の葵は、当然ながら、いない。その内、和輝が御節介を焼いて起こしに行って、畳み掛けるような文句を言われるのだろう。


 賑やかで穏やかな日常の一コマが鮮明に想像出来る。彼等と出会って、色々なことがあったけれど、もうすぐ丸一年が経つのだ。

 感傷に浸っていると、リビングにチャイムの音が鳴り響いた。


 コンロの火を止めた和輝が、訪問者の為に玄関へ向かう。霖雨はソファから起き上がり、それを制した。




「俺が出るから、いいよ」




 そう? 悪いね。

 料理の途中だった和輝も、食い下がりはしなかった。


 寝巻きのままだったことを思い出して、申し訳なく感じつつも玄関へ向かう。

 センサーが作動して、薄暗い廊下は暖色の光に照らされた。


 厳重に施錠された鍵を解き、扉を押し開ける。

 朝陽が白く滲む扉の向こうには、見たことのない男が立っていた。

 2mを越えているのではないだろうかという、見上げる程の大男だった。

 光の中にいても尚、辺りが真夜中のように暗く感じられる昏い空気が漂う。

 頭部に髪はなく、顔面は岩のように厳しい。

 扉を開け放ったまま動けない霖雨は、刃物にも似た鋭い眼光に射抜かれた。


 今更になって、インターホンで確認しなかったことを悔いる。

 無言で立ち塞ぐ男に、霖雨は恐る恐る尋ねた。




「……何方様ですか?」




 浅黒く焼けた肌の下は、厚手のモッズコートを纏っていても解る程に隆々たる筋肉に覆われている。


 瞬き一つが命取りになるような気がして、霖雨はその一挙一動を見逃すまいと両目に力を込めた。


 男に表情はない。

 まるで、石像のようだ。

 固く結ばれていた口元が僅かに動き、地を這うような低い声が鼓膜を揺らした。




「助けて欲しいんだ」




 男が何を言ったのか、解らなかった。

 霖雨がその意味を追求しようとした刹那、視界の端に何かが映った。


 世界が一瞬、白く染まった。

 無重力空間のような浮遊感の後、背中に固い衝撃を受けた。


 激しく噎せ返りながら、頬に熱のような痛みを感じた。その時になって、殴られたと理解した。




「ーー霖雨!」




 リビングから、切羽詰まったボーイソプラノが飛んで来た。

 点滅する視界に、血相を変えた和輝が映った。


 和輝は廊下を一瞬で駆け抜け、大男へ飛び掛った。小さな身体がふわりと浮かび上がり、大男へ向けて拳を振り被る。


 その拳は大男の顔面へと叩き込まれた。

 肉を打つ乾いた音がした。


 しかし、大男は身動き一つしない。まるで痛み等、感じていないようだった。


 逆に腕を掴まれた和輝の顔がぐしゃりと苦痛に歪む。大男は、赤子の手を捻るが如く、そのまま和輝を地面へ叩き付けた。


 地面に衝突する刹那、和輝が猫のように着地する。だが、大男は拘束した腕を離さず、再度、地面へと振り上げた。


 今度は空中で態勢を整える間もなかった。

 耳を塞ぎたくなるような鈍い音がした。




「和輝!」




 霖雨が叫んでも、和輝は呻き声を漏らすだけだった。

 大男は起き上がれない和輝に馬乗りになった。酷く緩慢な動作で、尻ポケットから折り畳み式のナイフを取り出す。


 暖色の光と朝陽を反射した刃は、非現実的に感じる程の鋭利な光を放っていた。


 霖雨は唇を噛み締め、臓腑の痛みを呑み込んで起き上がった。刃は稲妻の如く振り下ろされた。ーーだが、顔面へ向けられた筈の刃は、硬質な音を立てて三和土へと衝突した。


 間一髪のところで、和輝が避けたのだ。

 霖雨は刃を持つ強靭な腕に掴み掛った。


 両腕でその腕を拘束しようとしているのに、びくともしない。其処には歴然とした力の差があった。


 ナイフを持たない大きな掌が、和輝の細い首筋を掴んだ。握力だけで絞め殺すことも容易いだろう。和輝の首が軋み、空気の抜ける妙な音が響く。


 苦悶を浮かべながら、和輝は自身の気道を押し潰す掌に爪を立てる。その指先は、固い表皮を破くことすら出来なかった。


 大男はいとも容易く霖雨を振り払った。

 自由になった腕が、刃を振り上げる。その切っ先はヒーローへ向かっていた。


 その時だった。


 陽炎のように世界が一瞬歪んだ。

 現実感を喪失した空間に、一筋の閃光が走った。


 ごつりとも、ぶつりとも付かない鈍い音がした。

 岩のように屈強な大男の身体が、ぐらりと後方へ揺らいだ。


 霖雨は、溺れる者が必死に喘ぐように、その名を呼んだ。




「葵」




 葵だ。

 透明人間の膝は大男の顔面を捉えていた。


 その一瞬を逃さず、転げるようにして和輝が拘束を逃れて距離を取る。

 葵は激しく噎せ返る和輝を庇うように立ち塞がり、蛇蝎の如く大男を睨んでいた。




「誰だ、お前」




 押し殺すような低い声で、葵が言った。

 大男は零れる鼻血を啜り、うっとりと笑った。




「助けて欲しいんだ」




 地獄の底から響くような恐ろしい声だった。

 一瞬で血の気が引いて、今すぐこの場を逃げ出さなければならないと理解した。


 大男は、眼光鋭い眼を恍惚に歪めている。

 全身に鳥肌が立っていた。


 眉を顰めた葵が囁くように言った。




「おい、逃げるぞ」




 言われなくとも。

 霖雨は引き攣った笑みを浮かべ、一目散にリビングへと駆け出した。

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