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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
名前殺し
17/68

⑷全能者の理

「早く死ねばいいのに」




 野次馬犇く街中で、透明人間が小高いビルを見上げて言った。その独白にも似た言葉は騒音に紛れながらも、確かに霖雨の元へと届いていた。


 周囲は人で溢れ返っている。皆が一様にビルの頂を見上げている。彼等は恐怖、或いは好奇の眼差しを向け、対岸の火事とばかりに好き勝手なことを囁き合っていた。


 五階建てのビルの上にはスーツ姿の女がいる。女性と呼ぶには幼く、少女と言うには些か齢を重ねている学生のような女だった。彼女は安全の為に設置された欄干を越え、地上を見下ろして死んでやると喚いていた。


 自殺を図っている。

 頭が痛くなるくらい、平和的で愚かな嘆きだった。


 早く死ねばいいのにね。

 周囲の人間から知覚されないのをいいことに、他人事と割り切った葵が、心ないことを言う。それを口にはしないが、概ね、霖雨も同感だった。


 死にたいなら、死ねばいい。けれど、その自己満足に他人を付き合わせるな。霖雨はそう思った。


 普段ならば、霖雨は無関係を決め込んで通り過ぎていた。他人の生死など霖雨の介入するところではないし、如何にか出来るとも思わない。

 生きることが許されるなら、死ぬことだって許されてもいいのだろう。ーーただし、身内が絡んでいなければ。




「Freeze!」




 他人の筈なのに、まるで関係者みたいに叫ぶ青年がいる。


 あいつは馬鹿か。

 葵が吐き捨てる。言葉にする必要もなく、彼は馬鹿だった。


 SNSのアカウントを乗っ取られた和輝は、妙に人を惹き付ける存在感の為に、芸能人のように私生活を監視されている。

 霖雨は葵と共に、類稀なトラブルメーカーの和輝の安全を確保しようと、GPSで行動を追っていた。その矢先、早速トラブルに巻き込まれている。ーー現状を鑑みると、首を突っ込んだというのが正しいのかも知れない。


 自殺を図る女を止める勇気ある一般市民だ。

 彼の行動は賞賛に値するかも知れないが、霖雨と葵の評価は最低だった。


 和輝の交友範囲は広いが、如何考えても無関係の他人の筈だ。其処で無視出来ないところが彼のヒーローたる所以なのだけど、その他人の為に迷惑を被っている真っ最中ということを考えると、人が好過ぎると思う。




「馬鹿なことは止めろ!」




 異国の地ということも忘れてしまったのか、和輝が拡声器を通したような声量で叫んだ。だが、その母国語が通じる筈もなく、女は今にも飛び降りそうだった。




「馬鹿はお前だ」




 奇しくも、霖雨の声は葵と重なった。


 女の転落に備え、辺りは規制線が張られ、警察官によって取り囲まれている。野次馬という名の一般市民の中から、霖雨は半ば呆れて彼等を見ていた。


 その時、カメラのシャッターを切る音がした。

 ふと目を向けると、野次馬の一人が携帯電話を屋上へ向けていた。それをきっかけに、次々とシャッターが切られる。

 霖雨のポケットからは電子音が鳴った。件のSNSアプリの機能の一つで、蜂谷和輝というキーワードを設定して更新される度に通知されるようにしていたのだ。


 この人混みの中にいる誰かが、写真を投稿したのだ。全く、馬鹿な世の中だ。




「トレンド入りだねえ」




 退屈そうに、葵が言った。

 全く、世の中は狂っている。


 さて、あのヒーローはこの騒ぎの落とし前を如何やって付けるつもりなのだろう?

 死のうとしているのが和輝だったならば、流石に葵もじっとはしていないだろう。だが、彼は安全な欄干の内側から声を上げている。


 当事者には悪いが、多くの人にとって、こんなものは退屈な日常の刺激でしかないのだ。

 だから、死にたいなら、さっさと死ねばいいのにと思う。

 女が和輝を巻き込んで死のうとしているのなら、話は別なのだけど。


 霖雨は、テレビの向こうのドラマを見ているような心地で物語の収束を待つことに決めた。どのみち、透明人間でもない限り、規制線の向こうには足を踏み入れることは出来ない。

 その透明人間も見物と決め込んでいるのだから、霖雨には最早如何しようもなかった。


 膠着する状況で、SNSの通知ばかりが喧しい。


【ヒーロー、助けてやれ】

【如何するんだ?】

【期待しているよ】

【ドキドキする】

【彼はヒーローだから、きっと見事な方法で救ってくれる筈だ】


 何なんだ、この狂った空間は。

 もう、何でもいいから如何にかして欲しい。


 他人の勝手な期待を寄せられるヒーローは、相変わらず声を張り上げて制止を訴えている。女は今にも飛び降りそうなのに、その一歩を踏み出せない。

 これで見す見す女が死ねば、責められるのは和輝だ。


 SNSに投稿された他人の言葉を一通り見てから、霖雨は携帯電話の電源を落とした。面倒になってしまったのだ。


 普段の和輝ならば、今頃、既に女を助けていただろう。言葉で情に訴えたのか、強引に欄干の内側へ引き戻したのかは解らない。だが、何時までもこんな膠着状態にはしないだろう。


 そういえば、朝から顔色が悪かった気がする。体調でも悪いのだろうか。

 昨日の夕食で山盛りのカレーを食べていたのに、朝食にまでカレーを持ち出して、悪いことをしたなと反省する。霖雨としては親切のつもりだったが、余計な御世話だったかも知れない。


 電源を落とした携帯電話をポケットへ押し込み、霖雨は屋上を見た。相変わらず、惑星のような強烈な引力で人目を惹き付けるヒーローが其処にいる。

 葵が隣で言った。




「見ないのか?」

「もう、飽きた」




 こんな他人の呟きなんて見なくても、現実は目の前にある。そして、彼等の歪んだレンズよりも自分の見る目は正確で、和輝のことを解っている。


 霖雨が言うと、葵が意外そうに目を丸めた。むしろ、霖雨はそれが意外だった。




「彼等は和輝のことを解ってない」




 寄せられる多大な期待と羨望。規模は違えど、和輝はそんなもの、慣れている筈だ。他人の評価が如何に下らないものなのか、誰より解っている。




「彼等は和輝を見縊っていると思うし、過大評価していると思う」




 女が、欄干から手を離す。

 無関係な他人の群れがざわめいた。

 女が金切声で叫んだ。




「どうせ、誰も解ってくれない!」




 霖雨は、欠伸を噛み殺した。




「子供の頃から毎日勉強ばかりで、ろくに友達も出来なくて、やっと有名な大学に入ってゴールしたと思ったのに、今度は就職! 勉強ばかりではなくて、経験を重視しています? コミュニケーション能力? ーーそんなの、何処で培えって言うのよ!」




 気が遠くなる程、平和な愚痴だ。

 モラトリアムなのだろうか。就職氷河期でもあるまいし、何を言っているのだろう。




「こんな社会、間違ってる! 頑張った分だけ評価してくれないなんて、こんなのおかしい! 働いていることがそんなに偉いことなの? それなら、私は必要のない人間なの!?」




 世の中は狂っているが、平和で何よりだ。

 こんな馬鹿な愚痴の為に、時間が失われるのが惜しい。早々に収束して欲しいものだ。


 和輝は黙って足元を見ていた。何かを堪えているようなその姿は、まるで爆発する寸前の風船みたいだ。

 彼等は、和輝のことを解っていない。


 その瞬間、風船が許容量を超えて破裂するように、和輝が叫んだ。




「ーー死にたきゃ、死ねよ!!」




 途端、辺りは、水を打ったように静かになった。

 女は何を言われたのか理解出来なかったようだった。


 よく堪えたよ。

 霖雨は、場違いと知りながらも拍手を送りたかった。自分ならば無理だ。




「何を甘えたこと言ってるんだ! 頑張った分だけ評価してくれない? そんな都合の良い世界ある筈ないだろ! 楽しいことばかりな筈ないだろ! 毎日毎日、辛くて苦しくて、それでも、皆、下らねえ社会と折り合い付けて、身を切る覚悟で血を吐きながら踏み止まっているんだよ!」




 しんと静かになった異様な空間で、和輝の正論が炸裂した。それは大人から見た当たり前の現実だ。




「むかつく客の相手して、上司は仕事しない癖にセクハラで、正社員だからなんて偉そうな顔したクソガキに馬鹿にされて、若いから大丈夫だろなんて仕事押し付けられて、それでもほんのちょっとの楽しみ目指して、毎日毎日、うんざりしながら生きてんだよ!」




 疲れていたのだろうか。

 彼はストレスを溜めない人間だと思っていたが、ヒーローもやはり、人の子だったらしい。溜め込んだストレスを吐き出すように、和輝が声を上げる。




「勉強ばかりさせた親が悪い? 自分を認めない社会が間違ってる? ふざけんな! 自分の殻に閉じ籠って、飛び出す覚悟もなくて、自分の責任一つ取ろうとしないで、何が社会人だ!」




 女もまさか、自殺しようとしているその場で説教されるとは思わなかっただろう。

 和輝の剣幕は凄みを増して、口を挟むことすら憚れる。

 押し黙った女の元へ、和輝が無言で詰め寄る。女は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。


 欄干の向こうにいる女の胸倉を掴み、和輝が叫んだ。




「他人に値踏みされるような人生しか送れていないガキが、社会人語るんじゃねーよ!」




 破裂した風船は元に戻らない。

 頭に血が上ってしまったのだろう。彼は冷静な人間ではあるが、元来、短気だ。


 和輝は衝動のままに、右手を振り上げた。

 まさか、と霖雨は思わず目を覆った。


 小気味良い程の乾いた音を響かせて、和輝の平手打ちが炸裂した。

 女の身体は反動で欄干の内側へ引き戻され、そのまま倒れ込んだようだった。


 それを見ていた葵が、抑揚のない声で呆れたように言った。




「普通、女を殴るか?」




 時代遅れの頑固親父みたいだ。

 霖雨は最早笑いを殺し切れなかった。腹を抱えて笑ってしまった。


 膠着状態にあった警察官が一斉に動き出し、女の確保を急ぐ。それは見物だと、霖雨はいそいそと携帯電話の電源を入れる。

 勝手なことを言う他人の呟きは全て無視して、今夜は酒を買って帰ろうとメールを送った。返事は、なかった。


 警察官に引き摺られながら、和輝と女が降りて来る。どよめく衆人環視の中で、霖雨だけが晴れ晴れと拍手を送った。


 今度、酒でも呑みながら、愚痴を聞いてやろう。

 そんなことを思った。


 その時、野次馬の一人が声を上げた。




「女を殴るなんて最低だ!」




 御尤もだ。

 それでも、霖雨は笑いながら拍手していた。

 暴走した和輝は止まらない。ブレーキの壊れたダンプカーみたいだった。


 警察官の腕を振り解いて、和輝がアスファルトを蹴った。振り切られた拳は目にも止まらぬ速度で振り切られ、野次馬の頬を殴り付けていた。




「うるせーよ!!」




 辺りは騒然となった。

 殴られた方も黙ってはいない。枯野に炎が広がるように、瞬く間に乱闘が始まった。


 パトカーのサイレンが鳴り響く。

 野次、罵声、怒声。無関係の男に掴み掛かる和輝の口元に微かな笑みが浮かんでいた。


 葵は、訳の解らない乱闘を見て溜息を零した。




「あんなヒーローいねえよ」

「あいつはまあ、色々と振り切れちゃってるからねえ」




 でも、こんな人間がいてもいいのだろう。

 やれやれと肩を落とし、霖雨は捕縛され連行されるヒーローを助ける為、一足先に警察署へと向かった。








 名前殺し

 ⑷全能者の理








 全能の逆説というものがある。

 全能者は、誰にも持ち上げられない程に重い石を作り出すことが出来るか、という論理における逆説だ。

 そのような石を作れないなら全能ではない、作れるならその石を持ち上げられないのでやはり全能ではないことになる。


 この逆説を解消する一つの方法として、全能者という定義に制限を与える。

 全能者なので、石を作り出すことは出来る。だが、全能者は常に全能である必要がないのだ。作り出した時点では持ち上げられない石なのだが、重力などを操作することも出来る全能者は、一時的に石を軽くすることも出来る。


 そう、つまり。

 全能者は常に全能者である必要はないのだ。


 霖雨はビニール袋一杯にアルコール類とツマミを詰め込んで、警察署から帰宅した。和輝は一時的に拘束されていたが、理由が理由なので、間も無く釈放となった。

 SNSの荒れ方は凄まじかった。


 和輝の行動を批判する側と、肯定する側に分かれて子どもの口喧嘩みたいに揉めている。当事者は早々にアカウントを削除し、宙ぶらりんの中で成り済ましの何者かがとばっちりを受けていた。

 正直、よく解らない状況だ。


 頬に青タンを作った和輝は不貞腐れたような顔をしていた。良い薬になっただろうと、霖雨は笑った。


 和輝をバイクの後部座席に乗せ、法定速度のギリギリで飛ばして帰宅する。

 すでに帰宅していた葵は夕食の用意を済ませてくれていた。ーーといっても、ツマミしかない。

 日頃から不摂生な葵なら兎も角、育ち盛りみたいに大食いの和輝には足りないだろう。


 文句があるなら、食うな。

 極論を吐き捨てて葵はビールを開けた。


 和輝が黙ってジントニックの缶を開けたので、霖雨はカンパリソーダを選んだ。

 乾杯する理由もないが、何となく缶の縁を当てた。


 和輝はそのまま一気にジントニックを煽り、テーブルに叩き付けた。




「来るの、遅えよ!」

「お前が勝手に首を突っ込んだんだろう。如何して俺達が尻拭いをしてやらなきゃならないんだ?」




 違いない。

 憮然と口を尖らす和輝には悪いが、葵の言っていることは正論だ。だから、和輝も反論出来ない。


 和輝はジントニックの缶を弄びながら、がっくりと肩を落とした。



「疲れちゃったんだよ」

「うん、今日、見てて思ったよ。お疲れ様」




 霖雨は苦笑して、次の酒を勧めた。

 和輝はモスコミュールを選び、プルタブを起こした。空気の抜ける微かな音がした。




「俺は弱い者虐めが嫌いなんだ」

「うん?」

「皆で寄ってたかって、勝手なこと言って、俺が何をしたんだっつーの! こちとら、日々の生活で精一杯で、先の見えないトンネルを一人で持久走してるつもりなんだよ」

「でも、持久走は好きだろ?」




 霖雨が言うと、其処で漸く和輝が口元を綻ばせた。

 まあね、嫌いじゃないよ。

 じゃあ、いいじゃないか。


 そんな問答を横で聞いていた葵は、ビールをちびちびと啜りながら言った。




「弱い者って、お前自身のことを言っているのか?」

「そうだよ!」




 頬を紅潮させた和輝が叫んだ。

 青くなったり、赤くなったり忙しい奴だ。葵は溜息を零した。




「お前くらい図太いと、民衆が団結して独裁者を打ち倒したくらいの様相を呈しているけどな」

「誰が独裁者だ!」




 その叫びを最後に、和輝はテーブルに突っ伏して寝てしまった。自分勝手な奴だ。


 霖雨は空き缶を片付けながら、笑っていた。


 多分、民衆の期待するヒーローは聖人君子なのだろう。個人を救う振りをして、実は世界を救ってしまうような英雄を望んでいる。

 けれど、和輝は人並みに煩悩を抱え、下らないことで一喜一憂するような小さな人間なのだろうと思う。


 全能者は、常に必ず全能である必要はない。


 寝息を立てる可愛らしい横顔を見下ろし、葵は些か納得行かないような顔をしている。




「期待外れだったか?」




 霖雨が訊くと、葵は緩く首を振った。




「まあ、こいつはこれでいいんじゃないかな」




 面白いし。

 葵が、口角を吊り上げて笑った。悪童のような笑みだ。だが、其処に悪意や害意の類はないのだろう。


 全能者が常に必ず全能である必要がないのならば、それは不可能を抱える人間と同じではないだろうか。


 人を救うのは、神や奇跡ではなく、人なのだろう。世界を変えられるのは、何時だって勇気ある人間だ。そして、それは時にヒーローと呼ばれるのかも知れない。


 ヒーローの生きる世界は向かい風が吹き付ける。肩で風を切るには、向かい風でなければならないのだ。


 霖雨は寝息を立てる和輝を寝室へと運ぶ為に、重い腰を上げた。

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