⑶齟齬
「昨日は大活躍だったね」
キッチンのカウンターの向こうで、鍋を掻き混ぜながら霖雨が言った。
和輝は、寝惚け眼を擦りながら首を傾げた。
リビングはうんざりする程カレーの匂いに満たされている。昨夜の残り物の処理を兼ねて朝食の用意をするつもりだったが、如何やら霖雨が代わってくれるらしかった。
何のことだろう。
和輝は疑問に思いつつ、霖雨へ声を掛けた。
「おはよう、霖雨」
「ああ、おはよう」
顔を上げた霖雨が霞んで見えた。それが立ち昇る湯気の為なのか、寝起きの為なのかは解らない。
身体が怠かった。睡眠時間の割に疲労が回復していない。夢見が悪かったように思うが、何の夢を見たのかは覚えていなかった。
和輝は大人しく洗面所へ向かった。
鏡に映る自分の顔が、酷く疲れているような気がした。頭が痛くなる程の冷水で顔を洗い、リビングへ戻る。何時の間に起き出したのか、葵がソファに座っていた。
「おはよう、葵」
葵は一瞥しただけで、何も言わなかった。
彼は手元のタブレットを忙しなく操作している。朝から何をしているのだろう。自分の理解出来るものとも思えなかったが、覗き込んで見る。葵は僅かに眉を寄せたが、拒絶はしなかった。
SNSのトップページだった。
崩壊するグラフィックがフラッシュバックのように瞼の裏に蘇り、和輝は頭痛に呻いた。
昨日の出来事は、夢ではない。
葵は冷ややかに此方を見遣り、和輝の個人ページを表示した。
買い物メモ以降の記事は全て削除されている。ネット上で繋がる大勢の人が、此方を労わる言葉を書き込んでいた。
余計な心配を掛けてしまった。如何にか弁解出来ないかと逡巡し、その手段の一つがSNSであることに気付く。
真偽不明の情報が横行する様は恐ろしいが、便利なのは事実だった。だが、とても書き込む気にはなれないので、母国の親友にフォローを頼むことにする。
調理を終えた霖雨が、皿を運んで来る。
丸い平皿の中央に褐色の半液体が固められていた。残り物のカレーはリゾットにアレンジされたようだ。
芸がないな、と葵が吐き捨てる。
和輝はそれを無視して、朝食の用意の手伝いへと参加する。
葵のように文句を言う気はないが、白い皿は避けて欲しかったなあと、遠いところで思った。染みになったら嫌だ。
料理をテーブルへ並べ終えた霖雨が、倒れ込むようにしてソファへ座った。和輝は冷めない内に食べようと席に着いたが、二人は何やらそれぞれ携帯電話とタブレットを覗いていた。
和輝は、徒競走でフライングスタートをしたような心地になった。仕方なく、揃えた手をおずおずと下げる。
二人が揃って顔を上げて此方を見た。和輝が咄嗟に身を引く間もなく、二人は尋問官のように厳しく詰問した。
「昨日は駅で痴漢を捕縛し、道路で轢かれそうな猫を救出し、勤務先で林檎を差し入れされた?」
「うん」
「じゃあ、デリカッセンでサンドイッチを購入し、公園で昼食。路上パフォーマーと意気投合して手品を披露し、勤務後には本屋で母国の漫画を立ち読みしたか?」
「何で知っているの?」
和輝は目を丸めた。
そして、こんな遣り取りを昨日もしたことを思い出す。知らない誰かが自分に成り済まして記事を投稿したのだろうか。
二人が何かを悟ったように顔を見合わせた。
疎外感にいじけそうになっていると、葵が言った。
「お前の目撃情報が、ネットに上げられている」
虚偽の投稿ではなく、目撃情報?
インターネットに疎い和輝には、その意味が解らなかった。
葵は黙って複数のページを表示した。此方で知り合った友人の個人ページらしかった。其処から連鎖的に他人の個人ページへ繋がり、和輝のことを知った誰かが投稿したのだ。
【今日、デリカッセンで目撃した】
【サンドイッチとコーヒーを購入していた】
【近くの公園で誰かと昼食を取っていた】
【路上パフォーマーだよ】
【簡単な手品を教わって、披露してくれた】
【手先が器用なんだね】
【何故、そんなところにいたのだろう?】
【勤務先が近いんだ】
インターネット上の顔も知らない他人が、自分のことを語っている。これは個人情報ではないのかと、和輝は疑問に思った。
無関係の他人が監視しているような現状は、まるで芸能人だ。中身のない話題を延々と繰り返す他人は、知人とも呼べないような縁の薄い人々を巻き込んで何が楽しいのか盛り上がっている。
【彼は素晴らしい人間なんだよ】
【優しくて、思い遣りのある人なんだ】
【運動神経が抜群だ】
【可愛らしい顔をしている】
【僕も、彼みたいになりたい】
顔も名前も知らない人間から、便所の落書きみたいなところで賞賛されても素直には喜べない。むしろ、話題の中心にいながら、輪から外されているという疎外感を強く抱いた。
其処に、本人が登場する。ーー否、和輝は投稿した覚えがないので、これは自分に成り代わろうとしている他人だ。
賞賛を受け止め、謙虚に対応している。その姿勢がまた高く評価され、人々は共通の話題に盛り上がる。
【彼は、ヒーローなんだよ】
そんな投稿を見て、和輝は足元ががらがらと崩壊していくかのような錯覚に陥った。
インターネット上の彼等は、自分のことを受け入れている。だが、それは虚構で質量がない。欺瞞に塗れた他人だ。
そして、和輝には自己証明の方法がない。
【昨日は痴漢を捕まえて、女の子を助けたんだ】
【流石はヒーローだ】
【彼ならば、当然だろう】
【そういう人間だ】
【困っている人がいれば、必ず助けてくれる】
【そうだ、その通りだ!】
【彼は誠実な人間だから、私達の期待を裏切るようなことは絶対にしないわ】
ーーなんだ、これは。
他人の評価を一々気にしていられない。そんなことは解っている。けれど、その評価に引き摺られてしまいそうになる。
インターネット上に作られた虚構の自分にならなければと、正体不明の脅迫観念に駆られてしまう。
「群集心理だよ」
葵が、言った。
抑揚のない声はいっそ冷淡ですらあるのに、和輝にとっては、それがまるで船を港へと繋ぎ止める錨のように感じられた。
オニオンスープは既に冷めてしまっている。
霖雨はレタスを千切ったサラダにドレッシングを回し掛け、溜息を零した。
勝手に首を突っ込んで来た葵は兎も角として、霖雨まで巻き込むつもりは毛頭なかった。
食事の挨拶よりも先に、謝罪をすることになるとは思わなかった。
「巻き込んで、ごめん」
和輝が言うと、二人は揃って溜息を吐いた。
霖雨は酷く怠そうに溜息を零した。そして、和輝を指差しながら葵を睨んだ。
「ーーこれは、お前のせいだろ」
「お前の教育の結果だ。今まで何をして来たんだ」
「そんなこと言って、お前は普段、俺に任せ切りで何もしないじゃないか」
「お前の仕事だろうが」
「こんな時ばっかり俺のせいにして!」
痴話喧嘩か。
和輝は溜息を漏らして、結局、先に食事を始めた。
名前殺し
⑶齟齬
食事の後片付けは霖雨に頼んだ。和輝は出勤時間が迫っていたので、早足に駅へ向かっていた。
和輝には、夢がある。
子どもの頃は、野球選手になると言って憚らず、誰に何を言われても曲げなかった。そして、なれると信じていた。
だが、高校の時に事件に巻き込まれ、右肩と腕に致命的な怪我を負い、スポーツ選手を目指すことは物理的に不可能となった。
そして、代わりに見えたのはスポーツドクターという新しい夢だった。
再起不能の怪我を負った頃の和輝は、出口の見えないトンネルを彷徨っていた。その頃に出逢ったスポーツドクターが、和輝を励まし、支えてくれた。お蔭で高校最後の年まで如何にかプレーすることが出来た。
既にこの世にはいないが、和輝は、彼のようになりたいと思った。
しかし、現実は厳しい。
目指すものがスポーツドクターである以上、医師免許は必要だ。その為には六年制の大学を卒業し、試験を突破しなければならない。
和輝は現在、欧州の四年制の医大に通っている。現場経験はあるが、もぐりでしかない。足りない二年間は、何処かの医大へ編入することになるだろう。
そして、卒業するまでに掛かる経費は七千万以上で、自分の収入や貯蓄と照らし合わせてみても明らかに足りない。
援助を求めれば、兄や父は快く受け入れてくれるのだろう。だが、自分の夢を叶えたいと勝手に国を飛び出して、のこのこ戻って、お金を貸して下さいと頭を下げるのは、プライドに反する。
安っぽいプライドなんて捨ててしまえと思うけれど、そのプライドが今まで自分を支えて来たのだ。
現在は厳しい。ーーそんなこと、知っている。
勤務先に着くと、受付の女性が笑顔で挨拶をしてくれた。和輝もそれに応える。ーーと同時に誰かが肩口に強くぶつかり、和輝は体勢を崩した。
悪いね、なんて言葉だけで、露程も思っていないだろう顔で同僚が去って行った。
彼はこの接骨院で勤務する正規雇用の所謂正社員だ。ほんの数ヶ月ではあるが、一応、先輩に当たる。経験を考慮しても、自分の方が明らかに仕事に貢献している。自分の存在を面白く思わない年下の先輩。
受付の女性社員が同情の目を向けていたが、和輝は笑顔で躱して更衣室へ向かった。
薄暗い更衣室を開けると、人影があった。
白衣を纏った医師の一人だ。口髭を蓄えた初老の男性は、上司に当たる。
和輝が挨拶をすると、男は濁った眼を細めて笑っていた。
男は既に支度を終えている筈だったが、その場に座って此方を見ていた。
勤務の為に着替える和輝を、眺めているのだ。
こんな痩せっぽちの身体の何処を見て楽しいと思うのか解らない。だが、和輝はある時に気付いてしまった。
男の股間が、奇妙に膨らんでいる。
最悪だ。
この男は、自分を性的対象と見做している。
ぶるりと身を震わせて、これは真冬の寒さのせいだと誰の為にもならない言い訳を心の内で吐き捨て、和輝は早足に更衣室を出て行った。
勤務は、楽しい。ーー否、楽しいと思いたいだけなのかも知れない。
毎日、肩凝り腰痛に悩む老人の世話をして。
大した怪我でもない患者に、心にもない同情の言葉を吐いて。
料金請求すると、子どもみたいに喚くいい大人を宥めて。
同僚の下らない嫉妬に当てられて。
上司の気持ちの悪いセクハラを受けて。
それでも誰かが助けてくれる訳でもない。
こんな仕事がしたい訳じゃない!
和輝はいつも、そう思う。だが、全ては自分の能力の問題なのだ。その程度と言われるような仕事しか出来ない自分が一番嫌いだ。
彼はヒーローなんだよ、と顔も知らない他人が言った。
これが、ヒーロー?
子どもの頃に憧れたヒーローに、俺はなれているのか?
何故だか、どっと疲れてしまった。
昼休みには院内にいることも嫌になってしまって、駅前のデリカッセンでサンドイッチと野菜ジュースを購入して、公園へ向かった。昨日と同じ変わり映えのしない退屈な一日だ。
昨日と同じところに、路上パフォーマーがいた。側には小さなホワイトボードが置かれ、夕方の開演時刻を知らせている。
ネタを仕込んでいるのだろう。ピラミッド状に積み重ねられたワイングラスには、透明な液体が満たされている。
パフォーマーは和輝に気付くと、軽く手を振った。それに応えるように手を上げるが、昨日のように近付こうとは思わなかった。
ああ、なんて退屈な毎日だろう。
事件を望んでいる訳でもないし、この日々の積み重ねが、将来へ繋がると信じている。それでも、苦しくて、投げ出したくて、逃げ出したい。
自分は恵まれている。住むべき家があって、食事には困らず、目標がある。それでも、と願ってしまう。
一日の始まりには身体が重くて、布団から抜け出すことにまず気力が必要で、熱でもあるのではないかと検温してみるが至って健康で。
家を出る瞬間にはもう、うんざりして腹痛すら感じて。
仕事のことを考えると頭が痛くなって、馬車馬のように働いても給料は一向に上がらない。
有給休暇なんて取れる筈もなく、仮病を使う程には開き直れず、サービス残業なんて当たり前で、定時には帰れない。
帰宅した後は明日に備えて早々に床に着き、泥のように眠っても疲れは取れない。
大学の勉強は遅れがちで、試験は再試で、このままじゃ卒業出来ないぞなんて脅されて。
それでも、続けていく。
続けていくしか、ないのだ。
「Are you Mr.Kazuki?」
突然、降って来た声には答えられなかった。
階段を踏み外したかのような転落感に、和輝の意識は強引に現実へと引き戻された。
白く滲む視界に、数人の若い男女のグループが映った。此方を見下ろして、締まりなく笑っている。
先頭の女性が同じ質問を重ねたが、和輝は答えるつもりはなかった。見知らぬ他人に名乗る趣味はない。
黙ったままの和輝に苛立ったのか、一人の男が距離を詰めて来た。腰を上げるのも億劫で、ただそれを見ていた。
男が何かを言っている。それは雑音にしか聞こえなかった。灰色のノイズが聴覚だけでなく、視覚すらも埋めて行く。
何だか、面倒になってしまった。
ずっと、ヒーローになりたかった。
自分の望む理想像と、世間の見る自分の間に齟齬が生まれている。そんな気がした。だから、自分に成り代わろうなんて馬鹿な考えを起こす人間が現れるのだ。
何かを言い返せば、逆上する。かと言って、理路整然と不当性を訴えたところで面白がるだけだろう。
和輝は口を閉ざしたまま、真っ直ぐに相手を見詰めていた。睨みもせず、笑いもせず、只管、無関心を貫くのだ。
「Show me what you got!」
声高らかに一団が笑う。何も知らない馬鹿な人間だ。知ろうともせず、上辺の情報に踊らされて、覚悟もなく人を傷付ける。
耳障りな野次を飛ばす男と、締まりなく笑う女。こんな奴等の為に、時間も気力も消耗する必要はない。安い挑発だ。ーーけれど、腹が立たない訳じゃない。
疲れていたのだ。普段なら聞き流すことの出来る安い挑発の筈だった。けれど、寝起きで朦朧とした脳は、思考回路を通す間もなく行動を起こしていた。
和輝は勢いよく立ち上がった。弾かれたように体勢を崩した男が、何かを叫ぶ。その、刹那。
空気を震わせるような女の金切声が、遠く響き渡った。
「I'll be dead!!」
痙攣のように男は震え、次の動作を失ったようだった。和輝は彼等を押し退けて、耳を劈く声の元へと走り出していた。




