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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
名前殺し
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⑵ヒーローごっこ

 自宅の最寄り駅から帰路を辿る。時刻は午後七時を過ぎ、駅前は人で賑わっていた。

 改札を抜けると、霖雨が立っていた。如何やら和輝の買い物を手伝おうと待っていたらしい。

 霖雨は葵を見付けると訝しげに眉を顰めた。




「珍しい組み合わせだね」




 皮肉なのか、純粋な感想なのか解らない。

 葵が応えずにいると、和輝が経緯を告げた。




「買い物に付き合わせようと思ったんだ。一人で運べる量じゃなかったから」

「俺を呼べばいいのに。葵なんかいたって、何の戦力にもならないだろう」

「いないより、マシさ。それに、霖雨は忙しそうだったから」




 勝手なことを言う二人の会話を横で聞いていると、謎の疎外感を抱いた。だが、介入する気力もなくて、結局、葵は黙って歩き出した。

 葵の後を追うようにして、和輝と霖雨が歩き出す。二人の会話を背中に聞きながら、葵は前だけを見ていた。




「今日はカレーか」

「そうなんだよ。ーー何で、知っているの?」

「SNSに、買い物メモを投稿していただろう」

「そうだっけ。投稿した覚えがない」




 惚けた和輝の返答を聞き、やはり、あの投稿は間違いだったのだと知る。霖雨は呆れたように笑っていた。




「患者さんに林檎を貰ったんだろ。隠し味にでも使うのかい?」

「隠し味なら、もう大蒜を用意しているよ。林檎のこと、言ったっけ?」

「SNSに投稿していただろう」

「投稿した覚えがないんだけど」




 この男は、とうとう惚けてしまったのだろうか。機械に疎いせいで、記憶まで曖昧になってしまったのかも知れない。




「猫は如何したんだ?」

「猫?」

「轢かれそうなところを、助けたんだろ?」




 其処で、和輝が黙った。内心の動揺を取り繕うまでのコンマ数秒、葵は振り向き、霖雨と顔を見合わせた。

 和輝は普段と変わりなく微笑んでいる。




「猫は、勤務先に預けて来た。飼い主が見付かるまで、皆で世話をすることにしたんだ」




 和輝が取り繕った僅かな逡巡は、解らない。彼は巧みに嘘を吐く。だが、隠し事には向かない性格だ。


 葵は足を止めた。霖雨もまた足を止め、和輝を見詰める。其処で観念するような可愛らしい神経ならば、苦労しない。

 軽薄な笑みを浮かべて歩き出す小さな背中を、葵はじっと見ていた。







 名前殺し

 ⑵ヒーローごっこ








 夕飯のカレーを食べた後、和輝は片付けを早々に済ませて自室へ籠った。

 携帯電話からSNSのアプリを起動する。自分の管理ページへアクセスし、和輝は息を呑んだ。


 草野球のこと。

 買い物メモのこと。

 痴漢のこと。

 猫のこと。

 林檎のこと。


 全て、事実だった。だが、和輝は草野球以降の記憶がなかった。

 買い物メモは、恐らく何か操作を誤ったのだろう。投稿した覚えはないが、携帯電話にメモを取った記憶がある。しかし、それ以降の記録については、誰かに話した覚えすらなかった。


 此処にあるのは事実だ。問題なのは事実か否かではなく、誰が投稿したかということだ。

 自分は夢遊病なのだろうか。一日を振り返るが、自分が意識を失った記憶はない。それなら、自分の認識しない別の人格がこの記事を投稿したのか?

 まるで、チープなSFだ。そんな可能性は加味する必要すらない。


 和輝は棚に置いていた電話帳を手に取った。五十音毎に記されるアナログな電話帳だった。携帯電話に記録すれば手間を省けて便利であるが、それを第三者に奪われた時、自分以外の人間がリスクを負うことになる。

 携帯電話に依存しない自分が、それに無頓着である自覚があった。インターネットについて自分は無知であるから、必要以上に慎重にならなければならない。


 電話帳を捲り、或る連絡先を辿る。母国にいる高校時代の戦友の名前だった。

 高校野球に打ち込んでいた頃、地区予選で幾度となく戦った相手だ。母国を離れた今でも細く長く付き合いは続いている。


 見浪翔平。

 和輝の持つ情報通の友達の一人だった。


 番号をタップする。母国との時差は七時間。向こうは夜半を過ぎた頃合いだが、彼と自分の間に遠慮はない。幼馴染との親しさではなく、気遣いなど薄ら寒いと思える友達だ。


 数秒のコールの後、電話は繋がった。

 国際電話は料金が高いが、この際、気にしている場合ではない。

 スピーカーの向こうから、寝起きのような掠れた声が聞こえた。




『久しぶりだねえ』




 和輝はデスクに据え付けた椅子に浅く腰掛けた。正直、非常識な時間帯だ。なるべく低姿勢を心掛ける。




「夜遅くに悪かったね。でも、如何しても相談したいことがあったから」

『お前が相談なんて、気味が悪い。用件を言えよ』




 雑音が聞こえる。就寝していただろう見浪が身を起こし、話を聞く体勢を取ったのだと解る。

 和輝は促されるまま、言った。




「SNSを始めたんだ」

『知ってるよ。リプライしてる』

「リプライって何?」




 知らぬ単語を問うと、見浪が溜息を吐いた。




『お前の投稿した記事に対する反応のことだよ』

「便利な世の中になったねえ」

『お前が解らないままSNSに加入していることは、よく解ったよ』




 返す言葉もないので、和輝は苦笑した。

 見浪は、まるで此方の心を読み取ったかのように言った。




『誰かにアカウントを乗っ取られたのかい?』

「如何して、そう思う』

『ーー質問を質問で返す時、嘘を吐いたり隠し事をしたりしている場合が多い。はっきり言って、時間の無駄だ』




 和輝としては、そんな意図はなかった。だが、話が早い分には助かる。




「俺が夢遊病や離人症でないのなら、誰かに乗っ取られたのだと思う」

『訳の解らない買い物メモの後からか?』

「エスパーみたいだねえ」

『お前のことをよく知る人間なら、違和感を覚えただろうさ。SNSに、誰かを中傷する可能性のある個人的な意見を上げるとは思えないからね』




 其処まで馬鹿じゃないさ。

 和輝は笑った。


 痴漢に対する投稿は、自分ならばしない。加害者は兎も角、被害者を晒し者にする可能性がある。

 轢かれそうになった猫についての記事も同じだ。不注意はあったかも知れないが、悪意があって猫を轢きそうになった訳じゃない。

 林檎を分けてくれた患者も、特定される可能性がある。医療に携わる者として、患者のプライバシーは断固として守らなければならない。


 些細なことかも知れないが、世界中に繋がるインターネットに取り上げることではない。無知であるが故に、慎重にならなければならない。これは、当たり前のことだ。


 和輝が言うと、見浪は嬉しそうに言った。




『相変わらず、反吐が出る程の正論の塊だね。生きてて楽しい?』

「アウトローには憧れるけど、人を傷付けて喜ぶ趣味はないんだ」




 スピーカーの奥で、パソコンの起動する音がした。和輝もまた、パソコンを起動する。

 古い型なので起動に時間が掛かる。しかし、使い熟せるとは思えなかったので、身の丈に合ったもので充分だ。


 凄まじい勢いでキーボードを叩く音がする。和輝のパソコンは未だに起動中だ。七時間の時差があるから仕方ないと、意味の解らない言い訳を内心で零した。

 見浪が呆れたように言った。



『お前、パスワードが簡単過ぎるんだよ。名前と誕生日の組み合わせじゃないか。これじゃあ、乗っ取られても仕方ないな』

「難しいのは覚えられないし、面倒じゃないか。第一、ネット上で俺に成り代わったところで何のメリットがある?」

『目的は様々だろうが、一般的に考えると、ターゲットはお前の友達だ。下らない記事に対する膨大なリプライから察するに、お前の影響力は大きい。悪質な宣伝行為や詐欺に繋がるんだ』




 無意識に、手に力が入った。

 一番恐れていた事態だ。自分の無知が、誰かを危険に晒している。

 不甲斐ないし、情けない。和輝が俯き掛けたところで、今更になって漸くパソコンが起動した。


 落ち込んでいる場合じゃない。

 和輝は件のSNSに繋ぎ、自分の管理ページへアクセスしようとした。だが、既に別の場所端末でもから操作されていると言ってアクセス出来なかった。恐らく、これは見浪だろう。

 仕方なく、自分に成り代わった何者かの投稿を流し見る。どれも事実であるということが、最も恐ろしい。何処かで監視されていたのだろうか。




『今のところ、悪質な宣伝行為や詐欺の様子はないな。何というか、ネット上でお前に成り代わることが目的のような気がするよ』

「何で」

『ヒーローに憧れる子どもの戦いごっこと同じだよ。お前の行動に感化されて、お前になりたいと思った人間がいるんだろう』




 俺になんてなって、如何する。

 社会的地位も名誉もない。接骨院でアルバイトしながら、わざわざ欧州の大学へ通う貧乏な学生だ。

 自分の失策と相俟って、そんな場合じゃないと頭では解っているのに、落ち込んでしまう。和輝は思考を切り替える為に頭を振った。




『とりあえず、パスワードを変えておいてやるよ。面倒だろうが、多少難解なものにしたから。乗っ取られたままでいるよりはマシだろ』

「うん、ありがとう。でも、俺がアカウントを削除した方が手っ取り早くないか?」




 見浪が労力を費やす様を思えば、当然、上げられる選択肢の筈だった。

 だが、見浪は呆れ果てたみたいに腹の底から溜息を吐いた。




『お前、何の為にSNSに登録したの? 近況報告の少ないお前の身を案じる奴等の為だろう? それがこのまま消えたら、余計な心配を掛けるんじゃないのか?』




 確かに、その通りだ。

 見浪の言うことは正論だ。問題があるからそのもの自体を辞めてしまえばいいというのは短絡的だ。必要なのは問題解決の方法を見付け、試行し、確立するということだ。それでも、和輝は食い下がる。





「それでも、悪い芽は小さい内に摘んで置いた方がいいかも知れない」

『随分と弱気だな。お前なら、顔の見えない何者かのところに、押し掛けるくらいのことはすると思っていたよ』

「俺一人がリスクを負うなら、それでもいい。でも、危機に晒されているのは、俺ではなくて友達だ」




 下らねえ。

 口汚く、見浪が吐き捨てた。




『兎に角、パスワードは変更したから確認してみろよ。今、ログアウトするから』




 見浪の合図を待って、和輝は旧式のパソコンの操作を始める。

 大してデータや機能が入っている訳でもないのに、動作が亀のように鈍い。中々表示されない画像を無視して、和輝は構わずパスワードを打ち込んだ。


 Enterを叩く。ーー途端、Errorを知らせるポップアップ画面が現れた。

 既に別の端末でログインしています。


 見浪がログアウトに手間取っているのだろうか。和輝はパスワードの入力画面に戻る。


 パスワードを打ち込む。Enterを叩く。

 Errorーーログイン出来ません。




「見浪」

『何だ』

「ログインできないんだけど」

『パスワード間違ってるんじゃないか?』

「別の端末が既にログインしてるって」




 見浪は僅かな沈黙を挟み、言った。




『俺じゃない。ーーちょっと待っていろ』




 待っていろと言われても、パソコンの前でぼうっとしている訳にはいかない。

 ログインは後回しにして、自分の名前を検索する。ヒットした件数は幾つかあるが、自分はアルファベットの綴りを間違えているので見付け易い。


 最新の記事が投稿されていた。


【夕飯はカレーを作ったよ。霖雨と葵も美味いって褒めてくれた。林檎の隠し味が効いたんだと思う】


 ぞっとした。

 顔の見えない誰かに悪意はないのだろう。買い物メモから夕飯のカレーを予測し、患者から林檎を分けてもらった様を何処からか見て、隠し味に使ったと思ったのだ。


 事実と多少異なるが、それはこの際、構わない。問題なのは、実在する二人の名前を何も知らない癖に簡単に晒すことだ。

 霖雨と葵は、特殊な境遇を抱えている。自分ならば、こんな真似はしない。

 今すぐに記事を消し去って遣りたかった。

 だが、ログインすら出来ない現時点では何も出来ない。自分はコンピュータやインターネットに対して余りにも無知だ。


 ふと顔を上げると、誰かが自分に成り代わって書いた記事の下、リプライがあった。

 投稿してから一分と経たない内に反応した返信は、見浪だった。


【お前は誰だ?】


 母国の言葉だった。

 和輝ならば、返答出来る。ーー尤も、使い熟せていないので、操作出来るかは怪しいところだが。


 返答は、なかった。

 その間に、何も知らない大勢の人がリプライする。二人の名前が知れ渡っていく様を、手を拱いて見ていることしか出来なかった。




「アカウントを、消そう」




 和輝が言うと、見浪は舌打ちした。




『まだ、犯人が特定出来ていない。もう少し泳がせよう』

「駄目だ。これ以上、情報漏洩する様を見ていられない」

『ログインも出来ないのに、如何やってアカウントを消すつもりなんだ。システムの運営元にチクっても、対応には時間がかかる』




 じゃあ、如何しろというのだ!

 このまま、手を拱いて、友達が傷付く様を見ていろと?


 苛立ちのまま、拳を机に叩き付けた。電話の相手が見浪だったので、衝動を抑える必要すらなかったのだ。

 見浪は、笑ったようだった。




『何を焦っているんだよ。情報なんて曖昧なもので、見ている人間はその不明確さくらい知っているさ』

「大半はそれを知らない人間だ。顔の見えない書き込みは、過激になり易い。真偽不明の情報で、俺の信用が失くなるのなら、まだいい。でも、他の誰かが謂れのない言葉で傷付くのを、見ていられない」

『相変わらず、ヒーローごっこをしているんだねえ』




 小馬鹿にする見浪の言葉にすら、和輝は苛立ちを抑え切れなかった。

 焦っているのだ。余裕のなさは、自覚している。


 何も知らない友人達が、リプライする。それが増えて行くに連れて、和輝は遣り切れなくなる。


 ーーその時だった。

 突然、ディスプレイの下から、画像がパズルのように崩れ落ち始めた。見る見る間に画面は黒く染まって行く。


 何だ、これは。

 理解不能の事態に、和輝は困惑した。

 電話の向こうで、見浪が固い声で言った。




『俺じゃない』




 ならば、誰だ。

 和輝が身を起こしたその時、自室の扉が音もなく開かれた。




「コンピュータウイルスを送ったよ」




 扉の向こう、景色が陽炎の如く揺らいだ。

 ノートPCを抱えた葵が、幽霊のように立っていた。




「葵……」

「誰かにアカウントを乗っ取られたんだろう? 気味が悪いから、消させてもらった」




 飽くまで、緊急措置だけどな。

 そう言って、葵は舌打ちを零した。



「ページを消したところで、乗っ取った何者かを如何にかしないと、意味がない。これは鼬ごっこだよ」

「いや、助かった。……迷惑掛けて、ごめん」




 和輝は肩を落とした。

 巻き込むつもりなんて、なかった。全ては自分の無知による失態だ。彼等の手を煩わせることになり、酷く虚しくなる。

 だが、葵は不思議そうに眉を跳ねさせた。




「お前に過失があったのか?」

「解らない。でも、俺が引き起こした問題だ」

「お前ではなくても、同様の事態は幾らでも起こり得る」




 代われ。

 葵はそう言って、携帯電話を取り上げた。




「コンピュータウイルスで、とりあえずこのページは削除した。和輝の個人ページも封鎖して置く」

『この場を何とかしたところで、問題が解決した訳じゃない。犯人を叩くしかない。ーーこいつは、誰でもいいのではなくて、和輝になりたいんだから』

「履歴から犯人を辿るよ。それで、一件落着だろ」




 じゃあね。

 そうして、葵は勝手に通話を切った。和輝は礼くらい告げて置きたかったのだが、仕方ないので後でメールでも送ることにする。


 葵は携帯電話を投げ寄越し、和輝を見た。




「俺の大学院を調べたのも、こいつか?」

「さあね?」

「まあ、いい」




 葵は鼻を鳴らした。




「今日はもう、寝ろ。対策は明日、考えるぞ」

「うん。ーーごめん」

「謝るくらいなら、初めから相談しろ」




 返す言葉もない。

 和輝は苦笑した。


 葵が部屋を出て行った後、和輝は就寝の為にベッドに潜り込んだ。

 見浪へ感謝の言葉をメールで送るが、返信はなかった。眠ってしまったのかも知れない。

 目を閉じると、崩壊していくグラフィックが瞼の裏に映った。それは、アイデンティティの崩壊や信頼の断絶を暗示させる。


 嫌な夢を見そうだ。

 そんなことを、思った。

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