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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
名前殺し
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⑴歩き回る虚像

 is a duty which ought to be paid, but which none have a right to expect.

(感謝は支払われるべき義務であるが、誰であろうともそれを期待する権利はない)


 Jean-Jacques Rousseau





 年明けの退屈なテレビの前、和輝が携帯電話と睨めっこをしている。元来、携帯電話に依存しない彼が、それを操作することは珍しい。

 どのくらい向き合っていられるものだろうかと、観察記録を付けるつもりで眺めていたら、三時間程、ソファに掛けて集中していた。


 天才と呼ばれる類稀な集中力を発揮し、外界の刺激は一切遮断されている。もしも、自分がこのまま銃口を突き付けたとしても、彼は顔も上げることなく射殺されるだろう。


 葵は、そっと両手を伸ばした。気付く様子もない和輝の顔の前で、両手を叩いた。乾いた破裂音に、和輝が弾かれたように肩を跳ねさせた。




「びっくりした」




 大きな双眸を瞬かせて、和輝が漸く顔を上げた。

 天才の世界に介入し、それを壊してやったという満足感に満たされ、葵は口角を吊り上げる。

 葵としては親切な警鐘のつもりだったのだが、意地悪と受け止めたらしい和輝は、眉を寄せて小さく息を逃した。


 携帯電話を握っていた手を下ろし、凝り固まった肩の筋肉の柔軟をする。葵は、ローテーブルに置かれたマグカップを手に取り、すっかり温くなったコーヒーを啜った。




「さっきから、何を見ているんだ」

「携帯電話だよ」

「馬鹿か、お前は。そんなことは見れば解る。映画館で何を観たのかと訊かれて、映画を観たと答えるのか?」




 和輝は携帯電話をソファへ投げ出し、肩を竦めた。




「SNSだよ」

「SNSを知っているとは思わなかったよ」

「いや、よく知らないんだけど、勧められたから」




 そんな曖昧な理由で、万人が羨む驚異の集中力を発揮するなんて、才能の無駄遣いも甚だしい。


 葵が黙っていると、和輝もローテーブルからマグカップを取り上げた。真っ白いマグカップの表面には、筆跡の異なる無数の文字が記されている。曰く、彼の友人が落書きしたものらしいが、其処には嘲笑を漏らしたくなるような陳腐な賞賛の言葉が刻み込まれていた。




「友達に、小まめな近況報告をして欲しいと言われたんだ」




 他人の生活を覗きたいというのは、下世話なように思う。だが、和輝の生活は突拍子もなく、少し目を離した隙に、大都会の高層ビルから転落死することもあるので、理解出来なくもなかった。

 社会人の基本と呼ばれる報告、連絡、相談が不得手なのだ。いつの間にか職場を変えたり、翌日には飛行機に乗って渡欧する予定があったりする。小まめな近況報告は必要ないが、最低限の連絡はするべきだ。


 和輝は円を描くようにマグカップを揺らしながら、対岸の火事の如く騒ぐテレビを眺めている。




「SNSって色々な機能があって、難しいね。インターネットって世界中に繋がっているのに、皆、簡単に写真や日記をアップロードするんだよ。怖いと思わないのかな」

「インターネットの普及は人間の生活を豊かにしたが、その危険性については殆どの人間が無知だ。何故なら、利用者という集団になることで、自分は強者であると錯覚し、結果、危険性は検討されない。集団になると人間はリスクの高い選択を下し易い」

「ああ、あれだね。赤信号、皆で渡れば、怖くない」

「認知バイアスだよ」



 やけに的を射た下らない標語を切り捨て、葵は言った。


 認知バイアス(cognitive bias)とは、認知心理学や社会心理学の理論である。或る対象を評価する際に、自分の利害や希望に沿った方向に考えが歪められたり、対象の目立ちやすい特徴に引きずられて、他の特徴についての評価が歪められる現象を指す。


 和輝は曖昧に頷いた。同時に、投げ出されていた携帯電話が羽虫のような音を立てて震えた。

 世界的に名の知れた某企業の発売した最新鋭の機種だが、使い熟しているとは思えない。宝の持ち腐れだ。


 ディスプレイには、件のSNSからの通知が表示されている。和輝は携帯電話を一瞥し、結局、手にすら取らなかった。




「コンピュータは苦手だ」

「科学は好きだろう。その延長だと思えばいい」

「アナログ人間なもので、手に触れられないものはよく解らない」

「何が解らないのか、解らない」

「葵はプログラムは得意でも、コミュニケーションは苦手だろう。その反対だと思えばいいよ」




 からりと和輝が笑った。

 彼は、困難な壁に行き当たると体当たりをする馬鹿だ。体当たりの出来ないプログラムは、正に柳に風といった調子で太刀打ち出来ないのだろう。


 その内、自室から霖雨が出て来た。年明けの祝日だというのに、相変わらず大学院の課題に追われているらしい。日に焼けていない白い面と、目の下に刻まれた深い隈が幽霊のような印象を与える。




「和輝、コーヒー淹れて」

「ブラック?」

「目が醒めるくらい濃くしてくれ」




 承ったと、和輝が席を立った。

 ソファの隅では携帯電話が、再び通知を告げるように震えていた。和輝は気が付かなかったのか、それを無視してキッチンへ入って行った。







 名前殺し

 ⑴歩き回る虚像







【草野球の試合に出ました。切れのいいSFFを持っている投手と対戦して、最高に燃えました】


 噂のSNSに投稿された和輝の記事だった。

 葵はそれを見て、意味が解らずインターネットで検索しなければならなかった。


 SFFとは変化球の一種らしい。

 試合が楽しかったことは解ったが、結果は書かれていない。読者の知りたい情報が掲示されない様は、目に見えているのに届かないような歯痒さを感じさせた。


 正月の雰囲気も抜け、世間は日常へ戻りつつある。大学院も再開され、和輝は通常業務へ戻り、今日はその勤務の為に朝から出掛けていた。

 しんと静かになった家の中には、今にも意識を手放しそうな霖雨と葵の二人きりだった。互いに干渉することを好まない性質なので、必要最低限の会話しかしない。


 テレビばかりが、滑稽な程に虚しく声を張り上げている。ハリウッドスター、アイリーンのスキャンダルが世間を騒がせている。テレビの向こうは別の世界だ。

 葵は、大学院へ向かう為に支度を始めた。


 噂のSNSを表示していたノートPCを閉じて鞄へしまい込む。レポートの提出期限が迫っていたので、暫く研究室へ籠らなければならなかった。だが、葵は霖雨のように生活を圧迫される程に追い込まれはしない。


 出掛けようと、リビングの扉を押し開ける。その時、ソファに寝そべっていた霖雨が言った。




「今夜はカレーだってさ」

「はあ?」




 足を止めて振り向くと、霖雨が仰向けになって携帯電話を操作していた。この男は存外、だらしない。

 霖雨は携帯電話から視線を外し、葵を見た。




「和輝のSNSに、新しい記事が投稿されているよ。買い物リスト」

「なんで買い物リストが投稿されているんだ」

「暗に俺達に買って来いって言っているか、間違えたか」




 多分、後者だと思うけど。

 霖雨が、紙のようにへらりと笑った。


 SNS(social networking service)とは、人と人と繋がりを促進・サポートするコミュニティ型の会員制のサービスのことだ。

 日々進化するプログラム技術の最先端を買い物メモに使うなんて、宝の持ち腐れというか、最早、技術を侮辱しているようだ。


 最新の和輝の投稿を見る気にもならず、葵は黙って部屋を出た。


 他人の生活を知りたいとは思わないが、放って置くと野垂死にしそうな人間もいる。

 葵は玄関で靴を履きながら、自身のスマートフォンに件のSNSのアプリをダウンロードした。繋がりを持ちたい人間もいないので、会員登録はせずに和輝の個人ページだけをブックマークして置いた。


 玄関の扉を開けながら、和輝の投稿した記事を見る。草野球の記事にはグラウンドの様子が遠目から撮影された写真が添付されていた。知る人には解るだろうが、個人を特定することは出来ないだろう無難な写真だった。

 馬鹿の癖に、モラルはあるらしい。

 この記事に、百人近い人間がアクションを返している。賞賛や冗談交じりの揶揄、細かな質問もあるが、返事はなかった。


 最新の記事は、霖雨の言う通り買い物メモだった。これにも好意的なリプライをする人間が大勢いるのだから、世界は狂っていると思う。


 家を出た葵は真っ直ぐに駅へ向かった。

 通勤や通学の為に駅は人で溢れていた。人々の隙間を擦り抜けるようにして電車へ乗り込み、なるべく人の少ない車内の中程へ進む。吊革を掴んで一安心したところで、尻ポケットに入れていた携帯電話が震えた。


 SNSからの通知だった。それはつまり、和輝が新たに記事を投稿したということだ。

 自身をアナログ人間だと言っていたにも関わらず、既にインターネットの闇にどっぷりと浸かり込んでいるようだ。


【駅で痴漢を捕まえた。悪いことはするべきじゃないね】


 あの馬鹿は、何をしているのだろう。

 数秒の間に、大勢の人間がリプライする。


【駅で人だかりが出来ていたのは、そういう訳だったのか】

【流石、我らがヒーローだ】

【怪我はしなかったかい?】

【痴漢は最低だ】

【素晴らしい!】


 顔も知らない和輝の友人からのリプライに混ざって、母国語の言葉があった。

 投稿者は和輝の親友で、純粋に彼の身を案じるものだった。


 大学院に到着し、真っ直ぐに研究室へ向かう。

 壁は大量の書類や本に埋められ、室内は書籍による牢獄のようだ。葵はパソコンの設置された席に着き、書類作成のソフトを起動する。


 社会心理学の集団意思決定についてのレポートを纏めていた。人に限らず、生き物は集団になると強暴性を増す。田舎の烏よりも、大都会の烏の方が知性があるのは、環境に起因する競争率の為なのだろう。

 ならば、人口の日々増加する人類は過去に比べて強暴性を増していることになる。悲惨な第二次大戦の反省を活かし、人類はなるべく戦争を回避しようとしているが、大戦が繰り返されるに連れて規模は拡大し、より残酷で悲惨なものになるのだろう。


 資料として取り寄せた社会心理学の書籍は、母国を中心に活躍する臨床心理士の名前が添えられていた。和輝の父親だ。

 彼は学者ではなく、一介のカウンセラーに過ぎないらしいが、ネームバリューを求める学者達に引っ張りだこになっているようだ。


 レポートを切りのいいところまで纏め、葵は大きく背伸びをした。背骨が小気味好い音を立て、椅子が軋んだ。

 外は既に夜の闇が落ちている。最後に外界を見た時は日が出ていた。時間の経過は、意識しない時、余りに早い。


 レポートの提出期限と進行状況を照らし合わせ、頭の中でスケジュールを立てる。頭でっかちの教授の指示を仰いで添削しても、余裕がある。


 パソコンをシャットダウンし、葵は研究室を出た。

 時刻を確認しようと携帯電話を取り出すと、幾つかの通知が来ていた。SNSのアプリが、和輝の新しい記事の投稿を知らせている。


【道路に猫が飛び出して、車に轢かれそうになっていたから助けた。みんなも運転する時は気を付けて】


【患者さんが林檎をお裾分けしてくれた。カレーの隠し味に使おう】


 今日は勤務と言っていたが、余程、暇なのだろうか。葵は携帯電話を仕舞った。


 大学院の構内は静まり返り、闇に染まった廊下は非常灯の緑色に照らされている。葵は誰にも会わず、誰にも知られることなく登校し、帰路へ着いた。


 暗い校門の前に、学生らしき若者が群れを作っていた。頭の堅そうな地味な青年が、甲高い声で何かを必死に訴え掛けている。

 その輪の中心から、葵は視線を外せなくなった。

 強力な磁石のように、人を惹き付けて離さない。

 ベージュのダッフルコートを纏った和輝が、壁に寄り掛かるようにして立っていた。


 和輝は必死に話し掛ける学生をのらりくらりと躱しながら、葵の存在に気付くと手を上げた。




「葵!」




 その声で、学生達が一斉に振り向いた。だが、彼等に葵は知覚されない。和輝が誰を呼んだのかも理解出来ないようだった。


 和輝は人の間を縫うように輪から抜け、駆け寄った。旋毛が見下ろせる程に小さなヒーローと向き合い、葵は溜息を零す。




「どうして、こんなところにいるんだ?」




 自分の通う大学院のことは、一切知らせていない。此処にいる理由も謎だが、意味も不明だった。

 だが、和輝は質問の意図とは異なる答えを告げて笑った。




「夕飯の買い物に付き合って欲しいんだ。米を買わないといけないから、人手が必要なんだよ」

「霖雨でも呼べよ。喜んでバイクを出してくれるだろ」

「レポートの期限に追われて死に掛けてる」




 会話によって葵の存在を知覚したらしく、学生達が何かを囁き合っていた。和輝は気にも留めず、彼等に軽く声を掛けると、葵をぐいぐいと引っ張って歩き出した。


 先を行く和輝の足取りに迷いはなく、真っ直ぐに駅を目指していた。葵は鞄を背負い直して先程の質問を繰り返した。




「どうして、俺の大学院を知っているんだ」

「調べたから」

「どうやって」

「コンピュータに詳しい友達がいるんだ」

「個人のプライベートに介入するな。悪趣味だ」

「介入してないよ。だから、ちゃんと学校には入らないで校門で待っていたじゃないか」




 振り返った和輝が、純真な笑顔を見せた。

 彼と話していると、時々、会話が擦れ違う。持っている常識の違いなのか、IQの問題なのかは解らない。どちらにせよ、大した意味は持たない。


 改札を抜ける背中を追いながら、葵は言った。




「今晩はカレーか」

「そう。霖雨が疲れた顔をしているから、精力を付けてやろうと思って」




 それが如何してカレーになるのか、よく解らない。追及しても無駄だ。

 葵は溜息交じりに言った。




「お前、今日は勤務だったんだろう」

「そうだよ」




 鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で、和輝はプラットホームに立った。

 電車の到着まで、まだ時間がある。余暇があれば読書したいところだが、生憎、和輝がいるので本は鞄へ仕舞われたままだった。


 電車を待つ和輝が、唐突に思い出したように振り向いた。そして、何か良い事があったみたいにいそいそと鞄を開けた。

 彼が鞄を持っていること自体が珍しい。和輝は其処から真っ赤に熟れた果実を取り出した。




「あげるよ。腹、減ってるだろ?」




 林檎だった。

 和輝の投稿していた記事を思い出し、葵は首を捻った。




「今、食べていいのか?」

「何で?」

「カレーに使うんだろ?」

「使わないよ。隠し味なら、大蒜を買ってあるもの」




 和輝が、笑った。

 葵の脳内には、先程の記事が思い出された。だが、結局、面倒になって思考は線路の向こう側へ放逐してしまった。

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