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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
虚実の種
13/68

⑸二つの正義

 茹でるだけだから、と霖雨がキッチンに立った。年明けを前に珍しい光景を見たような気がして、葵は何故だか特別感を抱いた。


 玄関先に設置した防犯カメラ映像では、先程の集団は立ち去ったらしかった。念の為に界隈の様子を探ってみたが、あの物騒な一団は見当たらない。


 和輝の謝罪が響いたとは思えない。霖雨の脅しが効いたのかも知れない。


 リビングのソファには、和輝が胡座を掻いて座っていた。脚の上にはミントグリーンのハードカバーの本が広げられている。

 周囲の状況どころか、己の呼吸すら遮断してしまいそうな恐ろしい集中力を発揮して、和輝は僅かな時間でそれを読破した。

 厚みの割に、中身が詰まっていないのだろう。葵が見ていると、顔を上げた和輝と目が合った。


 相変わらず、奇妙な虹彩の色をしている。

 見掛けは路傍の石の如く有り触れているのに、吸い込まれそうな透明感がある。


 彼が死ぬ時は、自分がその目を抉ってやる。

 他人にそれを奪われる訳にはいかない。彼を殺すのなら、それは俺がやる。


 葵の思考など欠片も知らない和輝が、狐に摘まれたような顔をして言った。




「当たり前のことが、当たり前に書いてある」




 葵は、嘆息を漏らした。

 それこそ、当たり前だろう。ミントグリーンの表紙ーー自己啓発本とは、そういうものだ。

 人を争いへと駆り立てる狂気を鎮める為に、理性を取り戻す為に書かれているのだ。




「俺にも書けそう」

「書いてみれば」

「いいねえ、印税生活」




 馬鹿馬鹿しい程の自信だ。却って気持ちがいいくらいだ。


 蕎麦を茹でていた霖雨が、釘を刺すような鋭さで言った。




「余計なことは、何もするなよ」




 視線は鍋へ落とされたままだった。

 テレビの向こうでカウントダウンに浮き足立つ民衆の声が、一瞬、遠退いた。

 沈黙が訪れる前に、息を継ぐみたいに和輝が返す。




「余計なことって?」

「例えば、本拠地に乗り込む、とか」




 思考回路が単純なヒーローの行動を予期した言葉だった。確かに、此処で釘を刺さねば彼は衝動のままに行動を起こすだろう。

 和輝は、悪戯を咎められた幼児のように首を竦めた。




「どうして、俺が首を突っ込む必要があるのさ」

「お前の行動原理は、必要がどうかではなくて、やりたいかどうかだろ」




 出来たよ。

 蕎麦を茹で終えた霖雨が、言った。和輝は曖昧に笑っていた。


 丼へ盛り付ける霖雨に、和輝が手伝おうと立ち上がった。

 三人分の丼を運ぶ彼等を、葵はぼんやりと見ていた。




「人の思想は難しい問題だ。絶対的な正誤がある訳じゃない。安易に批判すれば、それは人格否定の意味を帯びてしまう」

「思想に正誤はなくても、行動には制約があるだろう?」

「行動を制約する法律にだって、絶対はない。極端な話をすると、人殺しは違法だけど、戦時中には普通のことだ。未必の故意や過失致死を何処で判断する。法律が全てなら、戦争なんて起こらなかった」

「人は歴史に学び、新たな法を作り出す。法とは、時代に於ける羅針盤だ」

「人の数だけ法がある訳じゃない。法とは行動の結果に生まれた規則だ。羅針盤が何時でも正しいとは限らないんだよ。物が消耗するように、人の意思は変わっていく」




 何時になくきっぱりとした物言いは、霖雨らしくない。優柔不断で他人の意見に流され易い彼とは思えない。




「ルールは必要だけど、それは原則に過ぎないんだよ。世の中は、例外だらけのグレーゾーンなんだ。それを理解してくれ」




 この時になって、葵は霖雨の言葉の意図を知る。

 霖雨は、和輝の身を案じているのだ。




「自分の正義に従って行動することは、悪いことじゃない。でも、それが誰かにとっての悪になることだってある。自分の意見を主張出来ることは素晴らしいけれど、それはマイノリティーなんだよ」

「少数派は抹殺されても仕方ないってこと?」

「少数派が不必要という訳じゃないよ。でも、民主主義の大原則は多数決だ」




 薬味を用意しながら、霖雨が言った。




「俺は、お前が少数派として抹殺されることが、怖い」




 下手に出ながらも、霖雨は強く自分の意見を通している。情に訴え掛ける弱者の手法だ。だが、相対するヒーローは、泣き落としが必要以上に効果的な男だった。


 困ったように眉を寄せる和輝に、萎れた子犬の耳が見える。まるで、主人に叱られた後のように。




「心配してくれて、ありがとう」




 この家に於けるヒエラルキーでは、和輝は霖雨の上にいると思っていた。だが、違うのかも知れない。


 和輝の自信を持った物言いは、まるで王様のようだ。だが、彼が裸で行進する愚かな独裁者ではないのは、他者を受け入れる度量の為なのだろう。

 その都度、忠告する霖雨のような存在がいるからこそ成り立つ物語だ。霖雨がコーディリアにならないことを祈るばかりだ。


 テーブルの上は、新年を迎える為に年越し蕎麦が用意された。

 付け合わせの惣菜がないというのが意外だが、薬味ばかりが無数の小鉢に入って並べられている。

 大根下ろし、葱、山葵、唐辛子、胡麻、芥子の実、紫蘇の実、山椒の実、青海苔。他にも複数あるが、正直、葵には必要のないものだった。




「年越し蕎麦は、年が明ける前に食べるんだよ」




 箸を並べながら、和輝が言った。

 霖雨は適当な相槌を打ちながら問い掛けた。




「何で?」

「蕎麦って、すぐに千切れちゃうだろ。それに縁起を担いで、一年の厄災を断ち切るんだ」

「俺の地域では、除夜の鐘を聞きながら食べてたよ」

「諸説あるみたいだけど、向こうの時間ではもうとっくに年が明けているから、除夜の鐘は聞こえないよ」




 蘊蓄は置いといて。

 和輝が手を合わせて笑った。ーー出会った頃と何も変わらない、純真な笑顔だった。




「いただきます」




 ヒーローに倣い、霖雨と葵も手を合わせた。

 年越しを祝うなんて、随分と久しぶりだ。彼等の語るローカルルールに入れないくらい、葵にとっては遠く、手の届かないものだった。


 あと数分で、年が明ける。

 新年なんてものは、人間が、自転する地球に勝手に日付変更線なんてものを決めただけだ。馬鹿馬鹿しいと思うけれど、ーー悪くない。


 葵の脳裏には、初めて彼等と出会った日のことが鮮明に思い出された。

 住居の維持が面倒で、気紛れに同居人を募集した時に霖雨がやって来た。そして、霖雨は何処からか和輝を拾って来た。


 馴れ合う気なんて、これっぽっちもなかった。ましてや、顔を突き合わせて年越し蕎麦を啜るだなんて想像もしていなかった。


 様々な薬味を指差して、霖雨が尋ねる。和輝は一々丁寧に答えていた。

 葵は自分に宛行われた蕎麦を早々に食べ終え、騒ぎ立てるテレビへ目を向ける。電光パネルに映し出される数字が、あと数十秒だと知らせていた。

 薬味について力説する和輝に、霖雨は興味深そうに頷いている。


 空腹が満たされ、葵は小さく息を逃した。




「もう年が明けるぞ」




 葵が言うと、和輝と霖雨は顔を見合わせた。

 そのまま味わうことも忘れて流し込む様に、風情も縁起もあったものではないなと呆れてしまう。


 カウントダウン。

 5、4、3、2、1ーー。


 葵がテレビをぼんやりと見ていると、和輝が呼んだ。

 霖雨と揃って顔を向けると、和輝が何故か拳を突き出していた。その意味が解らずに、葵はじっと見詰めていた。


 隣で、霖雨が息を逃すように笑った。




「明けましておめでとう」




 声を揃えた二人が言った。

 Happy New Year!!

 テレビの向こう、愚かな民衆が馬鹿騒ぎをしている。


 和輝と霖雨が拳を突き合わせたまま、此方をじっと見ていた。理解出来ない。こんな新年の挨拶があっただろうかと疑問に思う。これも自分の知らないローカルルールなのだろうか?


 霖雨が呆れたように笑った。




「こういう時は、空気を読むんだ」




 よく解らない。だが、霖雨は苦笑いを浮かべていた。

 促されるまま拳を持ち上げ、合わせる。意外に骨張った二人のそれと衝突した時、何故か遠退いていた歓声がすぐ側に聞こえた。

 こんなものは錯覚だ。解っているのに、二人の姿が、遠い昔に置いて来た兄や友人の顔と重なって、胸が苦しくなる。


 言っておくけど、こんなルールはないからね。

 困ったように霖雨が言うので、葵は拳を下げた。和輝ばかりが嬉しそうだ。




「いいじゃないか。互いの健闘を称えようぜ」

「これから一年が始まるのに?」




 朗らかに声を上げて、和輝が笑った。






 虚実の種

 ⑸二つの正義







 凧揚げをしよう。

 新年を迎えた、雑煮を食べ終えた昼過ぎ、唐突に和輝が言った。

 立ち上がった勢いで、キッチンからビニール袋とストロー、爪楊枝を持って来る。他にも、セロハンテープ、ビニールテープ、千枚通し、鋏など、必要と思われるものは自室から持って来て、リビングのローテーブルへ投げ出した。


 食器洗いをしていた霖雨は、忙しなく動き出した和輝の背中を呆れて見ていた。




「元旦くらい、ゆっくりしようぜ」

「凧揚げはお正月の恒例行事じゃないか」

「少なくとも、俺は今まで一度も参加したことないけどね」




 霖雨と和輝の遣り取りを聞きながら、一般市民の元旦の過ごし方を知る。

 大晦日には年越し蕎麦を、元旦には御節と雑煮を食べ、終われば凧揚げをする人間もいるらしい。平和だな、と葵はぼんやりと思った。


 その時、チャイムが鳴った。

 皿洗いをしていた霖雨が手を止め、壁から下げられたタオルで拭う。


 新年の挨拶かな。

 独り言のように、霖雨が呟いた。


 なるほど、元旦には挨拶に来る輩もいるのか。傍迷惑な話だな。


 ローテーブルで凧を作ろうと試行錯誤する和輝は、立ち上がる素振りもない。

 凧揚げという遊戯は知っているが、流石に作ったことはない。葵は、来客よりも其方に興味を惹かれた。


 広げたポリ袋に線を引き、歪んだ六角形の図面を丁寧に切り取る。

 切り込みを入れたストローを繋ぎ合わせ、骨組みを作っている和輝は、何の資料も見てはいなかった。作り慣れているのか、適当なのか解らない。


 玄関で来客に応答する霖雨の微かな声が聞こえるが、中々帰って来ない。首を突っ込む趣味はないので、目と鼻の先ではあるが、監視カメラ映像でそれを確認する。


 ノートPCの起動する音を横に、葵は和輝を見た。凧の凡その部分は作り終えて、ビニールに絵を描いていた。


 油性マジックを駆使するその横顔が真剣だったので、葵は声を掛けることを躊躇った。

 全体の形を取り、色を乗せていく。チープな油性マジックが油絵の具のように見えた。


 如何やら、鳥を描いているらしい。

 相変わらず、天才の思考回路は解らない。如何して、わざわざ空を飛べる鳥の絵を描くのだろう。


 パソコンが起動したので、葵は目を向けた。

 玄関先に立つ霖雨の背中が見えた。カメラの方向を調節し、来客の正体を探る。

 そして、それが酷く見覚えのある顔だったので、葵は僅かに驚いた。


 Sven=Svenssonが其処に立っていた。170cmを越える霖雨が見上げる程に大きい。

 祝日の朝らしくラフな服装をしている。ヘーゼルの瞳には柔和な光が宿っていた。


 彼等は穏やかに挨拶を交わしているように見える。そのまま、世間話に花を咲かせているようだ。

 霖雨は、彼のやり方に否定的だった。だが、それを正面から問い質すような真似はしない。

 音声までは届かない映像を歯痒く思うが、玄関まで向かう気は起きなかった。

 その時、黙々とローテーブルに向かっていた和輝が声を上げた。




「出来た!」




 余りの声の大きさに、葵はハウリングのような耳鳴りを感じた。拡声器でも使っているのではないか。




「凧揚げしに行こう!」




 散歩を待ち侘びる飼い犬のように、和輝が浮き足立って言った。その後ろに、千切れんばかりに振り回される子犬の尻尾が見えるようだ。




「今は、タイミングが良くない」

「何で?」




 来客があったことすら気付いていなかったらしい。和輝は葵の開くノートPCを横から覗き込んだ。




「Sven=Svensson」




 流暢な発音で、和輝は彼の名を呼んだ。

 Sven=Svenssonと霖雨は、一見して穏やかに会話している。だが、霖雨からは猫が逆毛を立てるような警戒が滲んでいた。


  今にも玄関に向かって駆け出しそうな和輝の首根っこを引っ掴む。小さな身体は急ブレーキを掛けられたみたいに停止した。




「何?」

「お前は行かなくていい」

「何で?」

「ややこしくなるからだよ」




 そう言って、葵は和輝を置き去りに玄関へ向かった。

 扉の軋む音はしたが、気にしなかった。自分は他者から知覚されない透明人間だ。ーーだが、もしも自分を知覚する存在がいたなら、それは一つの基準になる。


 応対する霖雨の後ろ、息を殺して忍び寄る。

 Sven=Svenssonが、顔を上げた。




「やあ、明けましておめでとう」




 黒だ。葵は、そう思った。

 背後に迫っていたことに気付かなかったらしい霖雨ばかりが肩を跳ねさせる。お前は眼中にないのだと暗に言うように、葵は無視した。




「何かご用ですか」

「昨日、うちの会員が粗相をしたみたいでしたので、謝罪に参りました」




 粗相、ね。

 葵は吐き捨てた。己の信奉するものが理解を得られないと知った会員が、無関係の青年にナイフを振り翳したのだ。あの時、和輝が避けなければ、刺さっていた。

 それが、粗相?


 見れば見る程にSven=Svenssonという男が胡散臭く見えてしまう。

 廊下の奥の扉はリビングに繋がっている。今頃、和輝はお預けをされた飼い犬みたいに待っている筈だ。


 改めて、これはどういう状況なんだと頭が痛くなる。

 葵は咳払いを一つした。




「謝罪が済んだなら、帰ってくれよ。新年早々に、常識がないんじゃないか?」

「謝罪は早めに済ませて置きたかったのです。それでは、これで失礼します」




 Sven=Svenssonは深く一礼すると、そのまま呆気なく背中を向けた。

 何だったんだ。葵が溜息を吐こうとしたとき、Sven=Svenssonが振り返った。




「あの可愛らしいお友達にも、宜しくお伝え下さい」




 ヘーゼルの瞳は、廊下の奥を見ていた。其処には何の悪意や害意もない。ぞっとするような伽藍堂の瞳だった。


 霖雨が適当な返事をしたので、葵は何も答えなかった。去って行く背中を暫し見詰めた後、葵は乱暴に扉を閉じた。


 静かになった玄関で、霖雨が此方を見た。柔和な光を宿すその双眸に、確かな意思を滲ませて霖雨が言う。




「Sven=Svenssonと、和輝を会わせてはいけないよ」

「何故、そう思う」

「彼等は異なる正義を持っている。それは、決して譲り合うことの出来ないものだ」




 二つの正義がぶつかる時、戦争が起こる。

 多数派のSven=Svenssonと、少数派の和輝が衝突した時、価値観や倫理観は別として、どうなるのか結果は目に見えている。




「友達だから、俺は和輝の味方をする。それはどんな時も変わらない。でも、Sven=Svenssonが間違っている訳でもない。やり方に問題があったのは会員で、本人じゃない」




 当の本人は、会員の為に朝早くから謝罪に訪れるくらいだ。誠実な人間なのだろう。もしかしたら、何かの打算があったのかも知れないけれど。




「善悪の基準がない時、人は多数派を支持する。和輝は少数派となっても、自分の正義を曲げないだろう。其処まで大人じゃないからね。弾圧されるのは明白だ」




 葵は曖昧に頷いた。

 この世に正義はない。同様に、悪もない。多数派が正義とされ、少数派は弾圧される。

 その時に、槍玉に上げられるのは誰なのか、葵は知っている。


 霖雨はそっと目を伏せた。そして、僅かな沈黙の後に顔を上げると、其処にはそれまでの真剣味は消え失せていた。




「さあ、戻ろう。凧揚げをするんだろう?」




 その時、リビングの扉が薄く開いた。

 子犬みたいな円らな瞳をした小さな青年が、縋るように此方を見ていた。


 ねえ、まだ?


 そんな声が聞こえた気がして、葵と霖雨は小さく笑った。

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