⑷頭のない怪物
自宅に到着する手前、大きな公共の広場があった。
何か人集りが出来ていて、葵は足を止めた。
新年を前に、カウントダウンの為に集会をしているらしい。誰も彼もが浮き足立ち、通り掛かる人間に声を掛けてはそれを引き込んでいる。人の群れは少しずつ範囲を広げ、公園を占拠し始めた。
和輝と霖雨もふと足を止め、それを見ていた。透明人間の葵は知覚されていないが、強烈な存在感を放つ和輝と、御人好しで漬け込まれ易い霖雨は、会合の参加者の目に留まったらしかった。
仮面のような薄っぺらい笑顔を貼り付けた中年の女が、嬉しそうに近付いて来た。
霖雨は困ったように眉を寄せ、和輝は何も感じていないような真顔でいた。
女は、宗教の勧誘らしかった。
クリスマスに便乗したものと思い、葵は二人の影に隠れるようにして身を引いた。
女は、自分の言うことを微塵も疑わないかのように言った。
「浮かない顔をしていますよ。お疲れのようですね」
「そうですか?」
「世の中不景気で就職難だし、大変でしょう。貴方達、学生さん?」
「そう見えますか?」
受け答えをしているのは、和輝だった。
否定もしないが、肯定もしない。これが霖雨だったならば、曖昧に肯定していただろう。
「私も辛いことが沢山あったわ。でもね、その時に救ってくれた人がいたの。それが本当に素晴らしい教えだったから、世の中の沢山の人に分けてあげたいと思って、こうして教えを広めているのよ」
はあ、立派ですねえ。
一定の距離を保ちながら、和輝が答えた。感情のない声は無関心を示している。だが、女は止まらず話し続けた。
「Sven=Svenssonという方をご存知?」
「知っています」
はっとして、霖雨が言った。
途端に女は視線を霖雨に固定し、Sven=Svenssonの話を始めた。有名な人間なのだろうかと、葵は和輝へ目を向けた。
和輝は不思議そうに目を丸めて、彼等のやり取りを見守っている。
女が一冊の本を取り出した。見覚えのあるミントグリーンの表紙に、あの丸眼鏡の男が映っている。葵は、眩暈を覚えた。
こんなところまで広まっているのかと愕然とした。
霖雨と女は共通の話題に盛り上がっていた。
視界の端に、白い光が点滅しているような気がした。自分もまた、あの熱に侵されてしまう。
公園を占拠する一団が少し距離を縮め、会話に加わって来る。いつの間にか、周囲は彼等に取り囲まれていた。
「僕等も今日、彼の講演会に行って来たところなんですよ」
霖雨が言うと、人々は目を輝かせた。
件の男が如何に優れた人物であるのか賞賛し、恍惚に笑う。得体の知れない何かが、足元からじわじわと詰め寄って来るかのようだった。
霖雨が視線を向けたことで、透明人間である筈の葵は知覚されていた。そのまま取り込まれてしまうように感じて、葵は身体を強張らせた。
Sven=Svenssonは、新刊を出版したらしい。『勇気を持つ方法』という、凡庸な題名だった。
女は実物を見せ、内容を掻い摘んで紹介した。
時間を大切にしましょう。
人の意見を受け入れましょう。
心を豊かにしましょう。
そんな当たり前のことを、正義みたいに掲げている。
決して高額ではない。だが、彼等は暗にそれを買うように促している。
彼等は口々に言った。葵には、それが風に揺れる木々のさざめきのように聞こえた。
「彼は私達を救ってくれるわ」
「有意義な時間になるよ」
「彼の教えに従えば、幸せに生きられる」
「諦めていた夢が叶ったんだ」
「私は家族と折り合いが悪かったが、彼の御蔭で救われたんだ」
「不幸続きだったのに、彼の言う通りに考え方を変えたら、幸せが舞い込むようになった」
彼等は同一の思考を持つことで、それが世界の正義であるかのように驕り高ぶっている。葵には、そう感じられた。彼等が口を開く程に、言葉は薄くなって行く。
「この本を読めば、己の正しい生き方が解るよ」
「立派に生きたいと思うなら、彼の話に従うべきだわ」
面倒になって、葵は口を開いた。否定の言葉を吐こうとした。
だが、それを遮って和輝が言った。
「思想は立派だけど、行動が伴っていないじゃないか」
和輝は、溜息を零した。
一団は一瞬、表情を失くした。だが、それはすぐに取り繕われ、彼等は紋切り型みたいな笑顔に戻った。
しかし、周囲の温度は下がったように感じられた。降り頻る雪が大粒になり、風に煽られて飛んでいく。
吹雪になりそうだ。
「今日がどんな日か知っているか? もうすぐ新年がやって来る。俺は新しい気持ちで、晴れやかに新年を迎えたいんだ。蕎麦だって茹でないといけない。それなのに、残り少ない時間を立ち話で無駄にさせてーーあんた等、一体、俺の何なのさ」
顔には出ていないが、和輝は苛立っているようだった。思えば、彼は飛行機に乗って帰って来たばかりだった。疲れているのかも知れない。
一団は薄っぺらい笑顔を貼り付けている。しかし、反論されたことで、それは温度を失っていた。
冷えた空気を感じていないのか、敢えて無視しているのかは解らないが、和輝は言った。
「自分にとって良いものが、他人にとっても良いとは限らないだろう」
「彼の話を一度聞いてみるといいわ。そうしたら、彼がどんなに素晴らしいか解るもの」
「他人の話の一度や二度で変わるような、浅い生き方はしていない」
「それは傲慢だ。彼の教えに背いている。貴方の為を思って言ってくれている人の話は聞くべきだ」
「それが本当に俺の為になっているのかなんて、誰が判断するんだ。余計な御世話だ」
帰るぞ。
困惑する霖雨の手を引いて、和輝が歩き出した。葵は一瞬遅れて、その後を追った。
背後で一団が、冷たい目を向けていた。神の教えに背いた咎人を睨むかのようだ。
和輝は、ミサイルみたいにぐいぐいと進んで行く。
背中を向けた先で、微かな声がした。
「不幸になるよ」
それは、予言のような不吉さを連れて、雪の中に消えてしまった。
虚実の種
⑷頭のない怪物
自宅の前に、数人の男女が集まっていた。
何か会合でもしているのか、やけに真剣な顔を突き合わせている。
他人の家の前で、迷惑だな。
葵は無視を決め込んで通過しようと思った。自分は透明人間だ。彼等には知覚されない。
けれど、存在感の苛烈な同居人を連れていることを忘れていた。
男女の群れは、和輝と霖雨を見留めると、顔を見合わせた。漁網を広げるように一列になり、男が一人、進み出た。
「Sven=Svenssonを非難しているそうですね」
和輝は、ぱちりと瞬きをした。目の前の男の言葉が、理解出来なかったようだった。
理解までに僅かな時間を要し、和輝は答えた。
「別に、非難している訳じゃない。ただ、興味が無かっただけだ」
「興味が無かっただって? 何故だ?」
「忙しいんだよ」
「彼が間違ったことを言っているか?」
「間違っているとは思わない。考え方は自由だからね。でも、それを人に押し付けるのは、間違っている」
男女の群れは、照準を和輝へ定めたらしかった。
和輝はすっかり取り囲まれ、葵は輪の外へ弾き出されてしまった。そもそも、端から知覚されていないのだ。
「何故、彼の素晴らしさが解らないの」
「素晴らしいと思うよ。でも、俺には関係ないだろ」
女に詰め寄られ、和輝が狼狽して答える。
珍しい光景だな、と葵は傍観を決め込んだ。このまま自宅に籠ってしまっても構わないが、和輝がいないと夕食に有り付けない。
「Sven=Svenssonを敬いなさい」
「素晴らしい人なのは解った。だが、会ったこともないし、会う予定もない。そういう人を尊敬し、盲目的に信じるというのは、無理だ」
「愚かだ!」
この世の不幸を嘆くが如く、男が声を上げた。
「光よ!」
「光よ!」
「光よ!」
「光よ!」
「光よ!」
「光よ!」
彼等の声に、和輝は気圧されたかのように一歩後ずさった。彼等が何を言っているのか、欠片も解っていない。
どうしたものか。
葵は、ぼんやりと空を見上げようとした。ーーその時、視界の端で何かが光った。
鈍く光る刃が、ヒーローへと向けられていた。
葵は咄嗟に身を起こした。喉の奥からその名が飛び出す刹那、霖雨が声を上げた。
「止めろ!」
声に反応した和輝が身を引いた。刃は一筋の閃光となって振り抜かれた。
目を白黒させた和輝は、呆然と刃を振り抜いた女を見ている。
「どうして解らないの?」
女は、凪いだ水面のように静かな目をしていた。だが、何処か狂気を滲ませた双眸には、和輝が獲物の如く映し出されている。
和輝は猫のように飛び退いて、男女の群れから距離を取った。それが再び振り上げられることのないように、葵は背後からその刃を叩き落とした。
其処で漸く葵を知覚した一団は、突然現れた存在に目を丸くしていた。
「何なんだ、お前」
三下の常套句だな。
葵は思った。
出遅れた和輝が、庇うように前へ進み出た。
「あんた達の理想は立派だ。それを否定した訳じゃない。もし俺の言葉や態度が侮辱していたのなら、悪かった」
和輝は、そっと頭を下げた。
こんな奴等に、謝罪など必要ない。
葵はそう思う。
彼等の思想は立派だが、其処には何の説得力もない。偶像を崇拝し、己の思考すら放棄している。そして、意を唱える者を排斥する為には手段を選ばず、暴力行為すら厭わない。
己の信じるものを証明する為には他者を虐げる。
何時か、葵は和輝に忠告したことがある。
ヒーローの愛読書、カモメのジョナサンについて論議していた時のことだ。
何か一つを目的として生きる様は美しいが、反面でそれは脆い。
飛行のみを生きる目的としたジョナサンを、カモメ達は非難し、やがて偶像崇拝へ至る。
彼等は頭のない怪物だ。
其処に崇高な思想があるのではない。集団の中に所属することで権力を得て、少数派を弾圧しようとする。
頭を上げた和輝は、集団一人ひとりの顔を見渡した。その視線は侮蔑の色を持たない。集団の中の個人を尊重し、個々の人間に働き掛けているのだ。
集団の一員が、雪の上に落ちた刃を拾い上げる。和輝は、それをじっと見ていた。
恐怖ではない。この頭のない怪物が牙を剥き、誰かが傷付くことのないように、彼等の手が血で汚れぬようにと備えている。
虫酸が走る程の正論だ。
和輝は丸腰で構えている。ーーだが、丸腰であるということが、既に刃として相手を脅迫している。
彼は羊の皮を被った獅子だ。捕食されるだけの草食動物とは訳が違う。けれど、頭のない怪物には解らないだろう。
何かを言おうとした和輝を遮って、霖雨が言った。
「俺は正直、Sven=Svenssonを立派だと思っていた。話を聞く価値があると思った。でも、あんた達みたいな人間の為に、俺は自分の判断を恥じたよ」
刃を睨み、霖雨が訴える。
霖雨は意志薄弱で優柔不断だ。誰かの否定を恐れるが故に、他者を拒絶出来ない。だが、何もかもを受け入れる訳ではない。
自衛の手段を持たない小動物だ。だからこそ、暴力行為を嫌悪している。彼等の向けた刃は、少なくとも、霖雨にとっては最悪手に等しい。
「あんた達に思想があるように、俺達にも思想はある。考え方や価値観はそれぞれ違う。それを、他人に押し付けるなよ」
霖雨が言った。
普段の柔和さを消し去ったその姿は、刃の如く鋭く拒絶していた。
「俺は暴力行為が嫌いだ。大勢で他人の家に押し掛けて、刃を振り翳して脅迫。この一連の出来事は、ーーSven=Svensson本人へ連絡しておく」
消えろ。
氷のように冷たく吐き捨てて、霖雨は背中を向けた。無防備な様が、相手への牽制となる。
言葉を失った一団を置き去りにして、霖雨は玄関へ向かっていた。何時にない毅然とした態度だった。
相当、頭に来ているのだろう。
葵は肩を竦めた。
群れの間を擦り抜けて来た和輝が、先を行く霖雨を追い掛けて耳打ちした。
「あの人達の言う本、俺にも読ませて」
「興味ないんだろ」
「読んでみたら、興味が湧くかも知れない」
悪戯っぽく、和輝が笑う。
その様に毒気抜かれたように、霖雨が答えた。
「あげるよ。俺はもう、いらないから」
後方の彼等へ聞かせるような声量だった。
沈黙する集団を最後に一瞥し、葵は玄関の扉を閉じた。