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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
虚実の種
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⑶熱

 翌日、葵は霖雨に連れられて昨日と同じ建物の会議室にいた。椅子や机の類は全て撤去され、三十名程の参加者が車座になっている。

 丸眼鏡の男は輪の一部に加わっていた。葵は霖雨の隣、丁度、主催者である丸眼鏡の男と対角線上に座っていた。


 簡単な挨拶を口にしてから、男は柔和な笑顔を浮かべて言った。




「此処にいる殆どの方は、恐らく面識のない方々でしょう。互いの名前も思想も知らない。緊張されている方もいらっしゃるかと思います」




 葵は言葉に促されるように、周囲へ目配せをした。老若男女を問わない他人が円を描いて座っている。そして、葵を知覚しているのは霖雨くらいのものだ。

 他人の群れの中、自衛の手段も持たずに座り込んでいることを思い出し、葵は急にそれが恐ろしいことのように感じた。まるで、底の見えない穴の中へ立たされているような不安感だった。


 男は参加者の顔を順に見遣り、穏やかな顔で言う。




「お互いのことをよく知らぬ私達は、解り合えないと思いますか?」




 参加者は牽制するように目配せをして、曖昧に揺れていた。答えを待たず、男は続ける。




「私達は、解り合えるのです。何故なら、命ある者は皆、同じ根源を持っているからです」




 誰も何も言わなかった。その言葉を疑っているようにも、魅入られうっとりとしているようにも見えた。

 葵には、解らない。




「手を繋ぎましょう」




 男の言葉に、参加者はおずおずと手を伸ばした。照れ笑いを浮かべながら手を繋ぎ、大きな輪になる。

 案の定、葵の存在は知覚されていなかった。だが、霖雨がいたことで認識された。

 一方は霖雨と、もう一方は何の面識もない若い男性と繋がった。葵の手は氷のように冷たくなっていた。嫌な汗が背中を伝い、それを押し殺す為に表情はますます強張って行った。




「目を閉じましょう。そして、想像して下さい」




 参加者は言われるがままだ。

 他人と手を繋ぎ、無防備に瞼を下ろす。葵は他人の心理作用に興味はあったが、同じことは出来なかった。

 目を閉じた先で、男が発砲したらどうするのだ。呆気なく殺される。他人が安全である保証はないのだ。


 一様に目を閉じた人々の中で、葵だけが異質だった。




「人は想像の中では自由になることが出来ます。その想像力次第では、人は百獣の王にも、スーパーマンにもなれます。翼を広げ、大空を飛ぶことだって出来るのです」




 他人の呼吸すら聞こえそうな静寂の中で、男の声が厳かに響き渡る。




「身体の中心に熱いものがあると想像して下さい。それは炎でも、太陽でも、ーー使い捨ての懐炉でも構いません」




 其処で、参加者が微かに笑った。何が面白かったのか、葵には解らない。




「その熱はじわじわと広がっていきます。内臓、胴体、首を伝って頭部、四肢、そして、指先。我々の繋いだ手も、少しずつ温かくなっていくでしょう。その熱を分け与えるように、譲り受けるように想像するのです」




 想像しろと言われると、抵抗したくなる。

 葵には、熱の塊が上手く想像出来なかった。ーーだが、驚くことが起きた。

 両隣の手が、じわじわと発熱を始めたのだ。それはまるで入眠前の放熱の如く広がり、冷たく強張る葵の掌にも伝わり始めた。


 何が起きている。

 動揺し、葵は周囲を見回した。参加者は黙ったまま、男の言葉を証明するように発熱している。




「さあ、目を開けて下さい。身体は温まったでしょう」




 参加者の瞼が、そろそろと押し上げられる。その瞳は何処か茫洋として、ーー何かを宿している。




「見知らぬ他人だと警戒していた心は解け、辺りが明るくなりましたね。貴方が身体の中心に置いた熱こそが光ーー我々の神なのです」




 参加者が感嘆の息を漏らし、丸眼鏡の男をうっとりと見詰める。葵ばかりが場違いに混乱していた。

 理解出来ない。だが、掌には確かに熱が残っている。離された己の掌がしっとりと汗ばんでいて、葵はぞっとした。




「光を崇めましょう。光とは、希望であり、救いなのです」




 光よ!

 声高らかに、男が叫んだ。

 室内はむっとした熱気に包まれた。葵の隣にいた若い男が、拳を握った。




「光よ!」




 それが合図だったかのように、人々が声を上げた。




「光よ!」

「光よ!」

「光よ!」

「光よ!」

「光よ!」

「光よ!」




 人々は拳を突き上げ、声を張り上げる。

 この状況が異様だと解っているのに、葵は反証する明確な根拠が見当たらず、何も言葉に出来なかった。

 熱気に包まれる室内の酸素は急速に失われ、息苦しい。


 和輝。


 此処にいないと解っているのに、葵は魚が酸素を求めるように呟いていた。







 虚実の種

 ⑶熱







 受付では、係りの者が集金していた。決して高額ではなく、会場を使用し、講演会を運営する為に必要な経費だと言っていた。

 強制はしていない。だが、暗黙の了解というように皆がそれを支払った。意義を唱える者はなく、参加者は有意義な時間を過ごしたと満足している。


 葵は存在感が希薄なのをいいことに、受付を擦り抜けた。しかし、霖雨は当たり前のようにそれを支払った。


 充足感を漂わす参加者は、それまでは見知らぬ他人であったことも忘れて意気投合している。帰り道を共にし、丸眼鏡の男を手放しに賞賛していた。

 霖雨もその群れに加わっていた。だが、葵が強引に手を引いて連れ帰った。


 街は降雪によって白く染まっている。人々は厚手のコートを羽織り、肩を竦めて道を急ぐ。

 新年を目前に、ビルにはカウントダウンのパネルが設置されていた。あと数時間で終わる一年を振り返り、何処か浮き足立っている。


 葵は帰路を辿らず、真っ直ぐに空港へ向かった。和輝がもうじき帰って来る。

 何か言いたげな霖雨を引っ張って地下鉄を乗り継ぎ、葵は終始黙っていた。


 空港は、家族で新年を迎えようとする人々で賑わっていた。ごった返す施設内で、葵は鈍色の雲に包まれる空を見詰めていた。


 空港は嫌いだ。

 葵は嘗て、友人を飛行機事故で失っている。着陸の瞬間に爆破炎上した機体と、悶え苦しむ被害者の影を鮮明に覚えていた。

 その光景がフラッシュバックして、酷い目眩に襲われた。


 地表が揺らぐような目眩に立っていられず、葵は据え付けられたベンチに腰を下ろした。霖雨が労わるような声を掛けていたが、応えなかった。


 アナウンスが、飛行機の着陸を告げる。

 葵は弾かれるように空を見た。銀色の機体が、内蔵された足を伸ばし、着陸しようとしている。

 予定通りならば、和輝の乗っている機体だった。


 強烈なフラッシュバックに、葵は居ても立っても居られずに、縋るように窓へ駆け寄った。

 着陸する機体が、今に爆破炎上するのではないかと思うと、気が気でなかった。


 降雪の影響で、機体は中々着陸しなかった。上空をぐるりと旋回し、戻っていく。葵は拳を握った。


 嫌な光景が浮かぶ。

 止めろ、止めてくれ。


 祈るように、願うように、縋るように葵は空を睨んだ。

 旋回していた機体は着陸態勢に入り、それまでの逡巡が嘘のように、すんなりと滑走路へ着陸した。


 飛行機の到着を告げるアナウンスの中、葵は搭乗口へ駆け寄った。

 ぱらぱらと降りて来る乗客の中、あの小さな青年の姿を探す。

 冬支度を終えた乗客が、家族に出迎えられ、顔を綻ばせる。連なっていた乗客の列はやがて途切れた。


 いない。

 奈落の底に突き落とされたかのような絶望感が、葵を襲った。


 嘘だ。

 その場に崩れ落ちそうになったその瞬間、葵の視線は磁石のように吸い寄せられた。


 紺色のピーコートと、赤いチェックのマフラー。糊の効いたチノパンに、深い飴色のローファー。

 エナメルのリュックを背負った小さな青年が、此方を見て、視線に応えるように手を上げた。




「ただいま」




 何でもないことみたいに、和輝が言った。


 おかえり。

 その一言を、葵はやっとの思いで返した。


 ゲートを抜けた和輝は、エコノミー症候群の心配など毛程もない明るい顔で笑っていた。出立前と何も変わらない。ーーそれがどうしようもなく、葵を安心させた。


 出迎えた霖雨が、おかえりと声を掛ける。代わりに持つべきような大荷物もないので、三人は揃って帰路に着いた。


 和輝はいつものように笑って、当たり前みたいに言った。




「何かあった?」




 まるで、自分の心を見透かしているみたいだ。

 葵が答えるより先に、霖雨が講演会の話をした。


 あの丸眼鏡の男を手放しに賞賛するので、和輝は嬉しそうにニコニコと聞いている。葵は、和輝までもあの狂気染みた熱に浮かされるのではないかと焦燥感に駆られた。

 だが、和輝は特に何も言わなかった。




「葵は?」




 問い掛けられ、ほっとする。自分が、透明人間でないことを理解した。

 彼の目には、自分の姿が映っている。




「何だか、変な顔をしているね。大丈夫かい?」

「ああ」




 自分は、正常値にあるのだろうか。

 葵には解らなくなってしまった。自分が此処に存在しているのか、この思考回路が正常であるのか、解らない。


 空港を出て、地下鉄に乗る。霖雨は講演会の話を続け、和輝は嬉しそうにそれを聞く。葵は自分の感情を的確に表現出来ず、むっつりと黙っていた。


 見慣れた景色がやって来て、三人は駅から歩き出す。

 霖雨の話が途切れるタイミングで、葵は急き立てられるように問い掛けた。




「どう思う」




 主語のない問い掛けに、霖雨は首を傾げた。

 和輝は音に驚いた猫みたいに目を丸め、空を見上げた。鈍色の空からは柔らかな雪が降っている。濃褐色の瞳に映る様は、まるで虚構の世界を遠くに見ている心地だった。


 和輝は聞き返した。




「霖雨の話を聞いた俺の感想?」

「そう」

「霖雨が楽しそうだから、俺は嬉しい。その人の言っていることは、面白いと思う」




 それは、肯定なのだろうか。

 葵が困惑していると、和輝は続けた。




「信じるものは、その人の自由だろ。思想は自由だ。ただ、行動には制限がある」

「その制限が法律だろう。ならば、法に触れていないものは正義なのか?」

「善悪で括れるものは少ない。一般論に落として考えたら、善悪の基準なんて時代によって変わる曖昧なものじゃないか?」




 自分は多分、否定して欲しかったのだ。

 あの男は間違っていると、言って欲しかった。

 だが、その場に居合わせず、主観的な意見しか知らない和輝が容易くそれを口にする筈もない。

 あの狂気染みた熱を、和輝は知らないのだ。




「色々な人がいる。敵もいれば、味方もいるさ。でも、俺はそれでいいと思う。葵の思いが一般論と異なったとしてもね」




 和輝は、困ったように笑った。

 彼は心を見透かしている。だが、欲しい言葉は与えない。それが歯痒かった。

 焦点が擦れてしまったかのように、視界が歪んだ気がした。指先が震え、冷たくなる。それが外気の影響だと、葵は思いたかった。


 此処もあの熱に侵されている。

 自分は透明人間で、世界から知覚されない。拒絶されている。そんなことは解っていた筈なのに、恐ろしくなる。


 葵は返答を失っていた。だが、その時、和輝が言った。




「でも、葵が悪になってしまうような一般論なら、俺は全力で抵抗するけどね」




 大丈夫だよ、と和輝が笑う。

 それが合図みたいに、ぼやけた視界にカチリと焦点が合った。世界が明瞭になって、冷たく強張っていた掌が、春の日差しに雪が溶けるようにして解けていった。




「今夜は大晦日だ。笑って新年を迎えようぜ」




 大晦日なんて言っても、過ぎ去っていく多くの毎日と同じだ。けれど、彼が言うのなら、それが特別なことなのだと思えてしまう。

 これは自分の思考なのか、洗脳なのか。


 解らないけれど、それでいいかと、葵は思った。

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