⑵懐疑
「学生の頃、僕は科学の授業の一環で、学校の近くの山へ出掛けました」
会場はしんと静まり返っている。
収容人数の限界を試すように、公共の大会議室は老若男女の民衆で犇めき合っわている。彼等は壇上の男を恍惚の表情で見詰め、時折、感嘆の息を漏らした。
「学校近辺の地質調査が目的でした。僕は一人で教科書を片手に、意気揚々と山の奥へと足を踏み入れました。山は咲き誇る花々や美しい小鳥の囀りに彩られ、まるでこの世の天国のようでした。しかし、景色に夢中になっていた僕は、足元の崖に気付かず、ーー転落したのです」
民衆が、怯えるように震えた。その呼吸は旋風として壇上へ向かう。だが、スポットライトの先、丸眼鏡の男が淡々と語り続けた。マイクによって拡張された声は、天井から下げられるスピーカーを通し、まるで天啓の如く降り注いだ。
「辺りはすっかり暗くなっていました。僕は気を失い、目を覚ました時には片足の骨が折れ、身動き出来ない状態でした」
葵は、会場の隅でそれを見ていた。
隣の席に座る霖雨が、真偽不明の男の話に一喜一憂するので、只々目障りだった。
神経がささくれ立ち、葵は気休めに貧乏揺すりをする。しかし、存在感の希薄な葵は誰にも気付かれなかった。
葵の些細な抵抗とは別の世界で、男は哀憐を煽るように俯いて言った。
「移動手段も、連絡手段もありません。誰かが助けてくれるだろうという一縷の希望に縋りながら、僕は夜を迎えました。厳しい山の寒さの中、目の前すら見えない真っ暗な闇でした。身を切るような寒さと孤独ーー」
霖雨が、ぎゅっと掌を握っているのが見えた。御し易い男だ。
「その時、世界が真っ白に染まりました。闇に慣れた目には、それが何か解らなかったのです。視界だけでなく、思考回路すらも染める強烈な白ーー、そう、光です」
男が、卓上へ拳を叩き付けた。乾いた音が反響し、空気がびりびりと震えたように感じられた。
「僕を見付けてくれたのは、父でした。か細い懐中電灯の明かりを頼りに、山を登り、僕を助けてくれたのです」
霖雨が、胸を撫で下ろす。どうして、この男は他人の話にこれ程共感出来るのだろう。葵はそれが男の話よりも興味深かった。
「そして、僕は知ったのです。ーー真の絶望など、この世にはない、と!」
水を打ったような沈黙の後、何処かで乾いた拍手の音が聞こえた。それは漣が周囲の海水を巻き込んで津波となるように、大喝采へと変貌した。
隣の霖雨も例に漏れず、両手を打ち鳴らして賞賛を送っている。
葵は、欠伸を噛み殺した。
スケジュール把握の不得手なヒーローを見送り、葵は都心で行われている或る講演会に出席していた。
霖雨が女子のように、独りでは心細いと訴えた為だ。彼も初めはあのヒーローを連れて行くつもりだったらしいが、生憎の不在なので、葵が駆り出されたのだ。
惜しみない賞賛の拍手の中、葵ばかりが冷めている。
皆が何に胸を打たれたのか、解らないのだ。
男の話術は、確かに無能な一般人に比べれば優れているのだろう。声の抑揚や間隔、表情を、内容に応じて巧みに使い分けている。
だが、話は至ってシンプルだ。
要は、不注意な子どもが山で遭難し掛けて、父親に助けられたという話だ。
己の過ちから、他人へ警鐘を鳴らすのでもなく、父親の偉大さを訴えるのでもなく、自然の厳しさを伝えるのでもない。
皆は何を喜んでいるのだろう。
退場して行く男を見送りながらも、その大喝采は止むことがない。
何故かどっと疲れてしまい、葵は立ち上がった。霖雨の抗議する声も無視して、葵は颯爽と会場を後にした。
ホールの外、赤絨毯の回廊を抜ける。
葵は、自分でも苛立っているのが解った。胸の中で得体の知れない靄が膨らんで、臓腑から指先に至るまで汚染されていくような気がした。
壁でも蹴り付けたい衝動に駆られるが、それをどうにか呑み込んだ。唇をぎゅっと噛み締め、廊下の端に置かれたソファへ思い切り倒れ込んだ。
豪奢な見た目の割に座り心地が悪い。それにもまた苛立つ。煙草が吸いたいと、無性に思った。
「中々、面白かったね」
此方の苛立ちなど欠片も解らないというように、霖雨が言った。隣に腰を下ろした霖雨は、まるで夢見る少女みたいだ。ーー尤も、葵は夢見る少女など見たこともないが。
葵は舌打ちを零した。
何処に感銘を受けたんだ。簡潔に述べよ。
そんな言葉が口から出掛けて、どうにか吞み込む。隣にいるのが霖雨ではなく、和輝だったなら、こんなにも苛々しなかったと思う。
霖雨は他人の影響を受け過ぎる。感受性が豊かといえば聞こえはいいが、以前に和輝が言った通り、意志薄弱で優柔不断なのだ。
此方が黒と言えば、白いものでも黒と言うだろう。自分は、他人の思想を染めることに喜びを感じないので、無性に苛立つのだ。そして、彼等の思想を理解出来ない自分にもまた、苛立つ。
先程の講演会は、主に丸眼鏡の男の訳の解らない話で終わった。起承転結の後半がなく、視聴者に丸投げした三文芝居のようだ。
欲しいのは結論で、過程ではない。
人生にハードルがあることくらい知っている。諦めたらゴール出来ないことも解っている。知りたいのは、ハードルを越える為の具体的な方法だ。
こういう類の言葉は、あのヒーローが腐る程、吐いている。和輝ならば自らゴールして見せ、自分に出来たのだから、お前にも出来るだろうと言う。そして、それでも出来ない時にはコースを逆走して、手を引くのだ。
丸眼鏡の男と和輝のどちらが正解か不正解かなど葵は知らないが、少なくとも、後者の方が救いがある。
「あの人も、苦労人なんだな」
霖雨が言った。葵は、それを無視した。
丸眼鏡の男の来歴を思い出す。先進国の都市部出身で名大学を卒業し、欧州の留学を経て、今は妙な自己啓発本を執筆している心理評論家らしい。彼の何処に苦労があったのか解らないが、何より腹立たしいのは、心理評論家という何の仕事をしているのかよく解らない肩書きだ。
彼と自分の人生を蒸留したら、どちらの色に染まるかなど明白だ。
内心で悪態吐くのは、口にする意味がないからだ。此処に和輝がいないことが悔やまれる。
「葵は、どうだった?」
「煙草が吸いたい」
「感想を訊いてるのに、感受性の乏しい奴だなあ」
呆れたように、霖雨が溜息を吐いた。
虚実の種
⑵懐疑
『面白そうじゃないか』
ディスプレイの中、人懐こい笑みを浮かべた和輝が言った。
講演会から帰宅後、葵は苛立ちに耐え兼ねて、真っ直ぐ自室に籠もった。そして、結局、和輝に電話を掛けた。
電話はすぐには繋がらなかったが、夜になると折り返すように電話が掛かって来た。
現場実習の手続きと挨拶の為に渡欧している和輝は、テレビ電話でそれに応えてくれた。
和輝の背景には、宿泊先だろう質素な白い壁があった。室内は暖色の明かりに照らされているものの、仄暗い。それでも映像の中の彼は、まるで目の前にいるかのような強烈な存在感を放っていた。
他人の自己啓発も崇高な理念も構わないが、きれいごとを語るのなら、このくらいのカリスマ性が欲しい。
葵は手元に灰皿を引き寄せた。
自分は鬱屈した感情を発散する方法を知らない。アルコールやニコチンに依存する理由も同じだろう。
灰皿には吸い殻が零れ落ちそうな程に積まれている。片付ける人間がいないからだ。
「きれいごとばかりで、何の根拠もない話ばかりだった」
『いいじゃないか。それで救われる人もいる』
「まるで宗教だな」
『宗教が悪い訳じゃない。信じる者は救われるというじゃないか』
「どうかな」
『失っても、失っても、希望はある。だから、諦めたらいけない。ーーこれは俺のモットーだよ』
この言葉を聞いて、葵は納得する。
あの丸眼鏡の男と和輝の言っていることは同じだ。だが、説得力が違う。
黙った葵に、和輝はおかしそうに口元を緩めた。
『明日の午前の飛行機で帰るから、カウントダウンには間に合うよ。年越し蕎麦を作ってやるから楽しみにしてて』
年越し蕎麦か。
此処何年も、年越し蕎麦など食べていない。新年を祝った記憶もなかった。
和輝は、年越しの瞬間にジャンプして、その時は地球上にいなかったとか言って喜ぶ馬鹿な輩と同じなのだろう。
通話が切れる寸前、和輝が言った。
『理解出来ないことを嘆くなよ、葵。他人の真似なんてするな。お前はお前でいいんだから』
何かを見透かすような言葉に、葵は咄嗟に返せなかった。
透き通るような濃褐色の瞳には、何が映っているのだろう。例えば、彼が心理評論家などという馬鹿げた職業を名乗ったとしても、自分は受け入れてしまうかも知れない。彼の目には人の心が見えているのではないか。そんな風に思った。
通話の終わった時刻を確認する。海を隔てた彼のいる地では、既に夜半だ。身長を気にして早寝早起きを心掛ける彼には、悪いことをしてしまった。
だが、日中に溜め込んだ苛立ちは不思議と消え失せている。
早く帰って来ないかな。そんなことを思った。
リビングに戻ると、霖雨が熱心に本を読んでいた。それがあのミントグリーンの本だったので、葵はうんざりした。
「面白いか?」
「うん。自己啓発本だと思って、構え過ぎていただけだったんだ」
霖雨が明るく言った。
構え過ぎていた、か。
葵は皮肉っぽく思った。
「明日はまた別の講演をするみたいだよ」
「行くのか?」
「ああ。参加したことのある人の話を聞くと、中々面白そうだったから」
一緒に行こうよ。
熱に浮かされたように、霖雨が言った。葵は顳顬の辺りが疼くような頭痛を覚えた。自分もまた、構え過ぎているだけなのだろうか。
信じる者は救われるという。自分も、何も考えずに信じてみればいいのだろうか。ーーだが、ヒーローは変わらなくていいと言った。
他人は所詮、他人だ。霖雨に講演会を勧めた人間も、葵に助言するヒーローも、所詮は他人だ。
何を信じたらいいのか、解らない。
価値観や境界線があやふやになっていることを、葵は自覚する。
以前の自分ならば、こんなものは集団における同調行動だと一蹴していただろう。
「ーー行くよ」
葵が答えると、霖雨が解り易く表情を明るくする。
他人の言葉が思考回路を埋め尽くして、頭の中が白く染まっていく。ついに、葵はそれを放棄した。