手紙(一)
八 手紙(一)
とある山間の村の一件の家の郵便受けに、一通の分厚い手紙が舞い込んだ。
朝早く、郵便受けを覗いてその手紙を見つけた年老いた農夫は、明けなずむ夜空からさしかける星明かりの中で封筒に顔を近づけた。
そこには、見覚えのある美しい文字で老夫婦の名がしたためてあった。
農夫は封筒を裏返して、その差出人の名を見る為に更に目を近づけた。
しわの多いその頬に、さっと紅が差すのが分かった。
次には悲鳴に近い驚きの声を上げて天を見上げた。
「ああっ、神様」
彼は、手紙をしっかりと小脇に抱きかかえて、次第に明るく青く輝こうとする空に向かって手を合わせ、何度も何度も叫び、次には地にひれ伏し、額ずいて祈った。
まだ明け切らない空には星々の煌めきがあった。
「神様、何という奇跡でしょう。何という喜びでしょう。今こそ、あなたの与えて下さる奇跡を感じることが出来ます、私に出来ることは何でも御心のままに致しましょう、ああっ神様、お望みならば、この命さえ差し上げても構いません」
そして、大声を出して泣き崩れた。
この様子を家の中から、朝の慎ましい食事の支度をしながら、窓越しに見ていた妻は、夫のただならぬ様子に驚いて家を飛び出してその体を抱きかかえた。
「あなた、一体、どうなさったのです。しっかりして下さいな」
「母さん、これを、この手紙を」
農夫は、震える手で、分厚い手紙を妻に手渡した。
「この手紙が、どうしたのですか」
「あの娘から、ほら、あの娘からの手紙だ」
「ええっ、なんですって。あの娘から?本当にあの娘からの手紙なの?」
夫婦は、震える手で手紙を封筒から取り出して握りしめた。
手紙を一行読んでは泣き、また、一行読んでは顔を見合わせて涙に濡れた顔で笑い合った。
さらに一行読んでは神に感謝して額ずいた。
もう、この世にはいまい、この年老いた親の元に帰って来ることはあるまい、と思っていた娘からの突然の便りに、うれし涙を流して互いをひしと抱きしめたのであった。
「あなた、本当にあの子なのですね」
「母さん、そうだ、間違いない、あの子からの手紙だ」
この老夫婦には娘がいた、実の娘ではない。
夫婦は子どもが好きであった、だが、彼らの間に子は出来なかった。
子ども好きな夫婦には、えてして、子どもが生まれないことが多い、また、望まない男女に子どもがすぐに生まれることも多い。
神の御心は人知では測れない、人間の願いを都合よく聞いてはくれない。
汝、ためすなかれといいながら、人間には、あらゆる機会に罠を仕掛けて、その心の有様を試す。
あるいは、そんなところをひっくるめて、神は偉大なのかもしれない。
夫婦は天に祈った。
「神様、私たちに子を授けて下さい。子どもがいたら、私たち夫婦は、どんなにか嬉しいことでしょう、生きる苦しみや、悲しみは愛くるしい子どもの顔を見るときっと癒されるでしょう、子どもを育てる苦労をしたいのです、いや、子どもが、どうして苦労の元でありましょうか、生きがいや働く楽しみを思い出させてくれるものです、それは、苦労ではありません、喜びなのです、きっと大切に育てます、ですから、私たち夫婦に子を授けて下さい」
そんな夫婦の願いが天に届いたのであろうか、ある日の夕暮時、夫婦の家の玄関先に、産着に包まれた赤ん坊が籠に入れて置かれていた。
籠の中には、事情があって、この子を育てることが出来ないので、よろしくお願いいたします、という内容のメモが入っていた。
早速、夫婦は村役場に届け出た。
村役場は、あちこち手を尽くして探したが、赤ん坊の両親は見つからなかった。
どういう理由にしろ、これは、天が子どもを欲しいと言う願いを聞き届けて、授けてくれた宝物に違いないと確信した夫婦は、その子を自分たちが責任をもって育てることを申し出た。
勿論、村にとって、夫婦の申し出は、渡りに船であったのである。
夫婦に神様が授けた宝物は、それは可愛い女の子であった。
その愛くるしい顔を見るだけで彼らは無上の幸せを感じたのである。
夫婦の生活は一変した。
何もかもが、子ども中心となったのである。
二人は娘を大切に育てた。
片時も、娘のそばを離れようとはしなかった。
夫は、畑仕事に出かけるとき、いつも娘をかごに入れて、背中に負ぶった。
妻は、夫が仕事をしている間、その傍で、弁当を開き、娘をあやした。
貧しい夫婦は、朝は残月を仰ぎ、夕べは星を見るまで、働いたが、流す汗さえも、娘と一緒にいる幸せで、心地が良かった。
畑のそばで、親子三人で食べる弁当は何よりも御馳走であった。
やがて、赤ん坊は、自分の力で立ち上がり、自分の力で歩くようになり、そして、美しく成長し始めた。
この娘が大人になって恋をし、結婚して親元を離れていくまで、大切に育てようと心に固く誓ったのである。
そんな時、この夫婦と娘の幸せな生活を打ち壊す、悲しい出来事が起こったのである。
夫婦の願いを聞き届けた神は、その後の夫婦のあまりに幸せそうな様子を見て、嫉妬を感じたとしか思えない、今度は耐えがたい試練をこの老夫婦に与えたのであった。
その始まりは、この夫婦が娘という宝物を得て、十五年ほど経過した頃であろうか。
突如、娘は、高熱を出して倒れたのであった。
夫婦は驚いて、腕の良い医者を尋ねては、往診を依頼した。
三日たっても、四日たっても娘の病は治らなかった、それどころか、熱は一向に下がらなかった。
医者は、とうにさじを投げていた。
高熱で、体は衰弱しきっており、もう、娘は助かるまい、よしんば、命を長らえたとしても、脳細胞は破壊されて、正常な思考はとても無理であろう、と宣告されたのであった。
だが、奇跡的に、娘が倒れてから、二十日を経過した頃から、徐々に熱は下がり出した。
夫婦は喜んだ、どんな状況でも良い、娘が生きていさえすればそれで良いと。
懸命に看病を続けて一か月が経過した頃であろうか、娘は目を覚ました。
夫婦が天にも昇るように喜んだのは言うまでもない。
娘は、少しやつれはしたが、すっかり元気を取り戻したのであった。
だが、夫婦にとって気がかりなのは、娘が妙なことを口走るようになったことであった。
「私は、『運命のあの方』に会わねばなりません」
娘がなぜそんなことを口走るのか、また、再三口走る『運命のあの方』とはいったい誰のことなのか、全く分からなかったし、その手掛かりも無かった。
きっとそれは病気の後遺症が言わせるものであろうと考えていた。
娘の身に何か良からぬことが起こるのではないかと、漠然とした不安を感じていた夫婦は、娘が一人きりになることが無いように気を付けた。
しかし夫婦の不安が現実のものとなったのは、それからしばらく経った朝のことであった。
いつまでも起きてこない娘を心配した母親が、彼女の部屋に行ってみると、そこに娘の姿は無かったのである。
娘は忽然と姿を消した。
そして、部屋には、置手紙があったのである。
「お父様、お母様、ごめんなさい。私は旅に出なければなりません。『運命のあの方』を探す為なのです。あの方はきっと私を待っていらっしゃるのですから。お名残り惜しく、心が潰れる思いでございますけれども、暫くのお別れです。きっと戻って参りますわ、それまで、待っていてくださいね。いつも心はお父様、お母様と一緒におりますから、どうぞ、心配したり悲しんだりしないでくださいね。お二人を愛してやまない、あなたたちの娘より」
老夫婦の落胆は、それはひどいものであった、八方手を尽くして愛する娘の行く先を探したが、手掛かりはようとしてつかめなかった。
娘が見つかってくれること、早くこの胸に戻ってくることを、神に祈った。
然し娘は帰らなかった。
何日も泣き暮らした老夫婦は神を呪った。
そして、数年が経過して、やっとあきらめがついて、夫婦二人で寂しいけれども、互いに助け合って、残り少ない人生を静かに終えようとしていた矢先に届いた、思いもかけぬ、愛する娘からの手紙だったのである。
「あなた、私たちあの子が、やっと帰って来るのですね」
「そうだ、帰って来るのだ」
夫婦は額を寄せ合って、手紙を貪るように読み進んだ。