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銀色の帆  作者: 屯田水鏡
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暗黒と光の狭間で

七 暗黒と光の狭間で


その日も、少年は犬と枇杷の木に話しかけていた。

話しながら、子犬にはまだ名前を付けていないことに気づいた。

「そうだ、君にはまだ名前を付けていなかったね」

この友人に何という名をつけてあげようか、少年は、子犬を抱き上げて頬ずりをした、その時であった。

耳をぴんと立てて、子犬は緊張した様子で、空を見上げた。

一筋の眩い雷光が暗黒の空を切り裂いた。

そのすぐ後に激しい雷鳴が耳を劈いて、空全体が深紅の炎の色に包まれた。

同時に、ものすごい風が吹き出した。

辺りの家は一瞬の後に吹き飛んだ。

枇杷の木が大きく揺れて、少年に覆い被さった。

少年は意識を失った。

稲光と激しい雷鳴の記憶が少年の中にいつまでも残った。

目覚めた少年は辺りを見回した。

岩陰に横たわっていた。

突風の中、子犬が少年の襟首をくわえて必死に岩陰に運ぼうとしている光景をぼんやりと憶えている。

すぐそばに枇杷の木が無惨にも根元からぽっきりと折れて横たわっていた。

「ああ、あんなに強い生命力で励ましてくれた枇杷の木でさえも結局生き残れなかったのか」

少年は、深くため息をついた。

その心の片隅に、又もや、失意という絶望が芽生え始めた。

そして、岩陰を一歩踏み出した少年の顔は異常に歪んだのであった。

その足元に子犬の死骸が転がっていたからであった。

まるで、薄汚れた白色のぬいぐるみが道端に捨てられている様であった。

少年は子犬を抱き上げて、頭を撫で、頬ずりをした。

掌を通して頭蓋骨が砕けているのが分かった。

薄れていく意識の中で、少年を岩陰に運び終えた後、突風に吹き飛ばされて岩石に激しくぶつかる子犬の姿を思い出した。

太陽は天中高く燦々と輝き、空は青く、爽やかに晴れ渡っていた。

少年はその場に跪き、怒りの拳を上げて神を呪った。

神々しい光を取り戻した空が恨めしかった。

少年の体から、生きる力が陽炎のように抜け出ていくようであった。

少年は、子犬を抱いて、訳も無く、歩き続けた。

どこに行こうと言う当ても無かった。

気が付いた時、少年は、丘の麓の両親の墓のすぐ側に立っていた。

「そうだ、君はもう我が家の家族なのだ」

少年は、両親の墓のすぐ隣に子犬のために墓穴を掘った。

子犬に別れの頬ずりをした。

子犬は牙をむき、天を睨み付け、死んでもなお、懸命に嵐と戦おうとしていた。

子犬の墓には目印として枇杷の小枝を挿した。

毎日水をやると、挿し木はたちまち成長した。

枇杷の木は大きくなり、花を咲かせ、大木となった。

多くの実を付け、その実は熟して大地に落ちて、新たな命の芽が吹き、成長して木となり、また、花が咲き、実をつけた。

その実は苦難を耐え忍び、生き延びた小動物の餌となり、運ばれて、町中に、枇杷の木が育った、また、芽を吹き、成長して青葉となり花を咲かせた。

少年は、町中を歩いてこの町を出ることが出来ずに力尽きて倒れた屍の一つ一つを丹念に拾い集めては葬った。

作業は、何年も続いた。倒れて息絶えた人々の屍は怨霊となって仄かな光を放ち、その恨みは地に満ちていた。

その恨みを慰める為、屍を埋めたところには全て枇杷の小枝をさして歩いた。

漸く作業が終わる頃には倒れて息絶えた人々の屍から肉は朽ち果て、死臭は消え去り、何時か白骨となっていた。

その骨は、崇高で神々しいほどに白く輝くようであった。

髑髏さえ、白く輝き、少年に笑いかけているようであった。

そして、あの暗黒の悪夢が、遠い昔の出来事のように感じるのだった。

廃墟と化した町の建築物は悉く崩壊し尽くして荒野と化していたが、その後には、一面枇杷の木が覆い尽くした。

春には真白い花を咲かせ、初夏には瑞々しい若葉が茂り、夏から秋にかけて、たわわな黄色い実を付け、四季折々の美を競った。

枇杷の木は、心ならずも人生を全うすることなく倒れた人々の血と肉を養分として成長し、その美しさは妖しく光り輝いた。

町を覆い尽くした白と青と黄色の色彩の美しさは、近くを航行する船からもよく見ることが出来た。

噂は、広まって、何時しか世界中からこの町に見物にやってくる観光客の姿が目立つようになった。

その美しさは人々の目を引き付けて飽きさせなかった。

少年は町を脱出した人々が帰ってくるのを待った。

観光客の望みに叶うように飲み物や食べ物を提供した。

観光客の口から美しく復興した町の様子が伝わり、人々が帰ってくる、そう信じたからであった。

だが、誰一人として帰って来る者はいなかった。

評判は評判を呼び益々観光客が押しかけて、心ならずも、少年はたちまちに富み、いつか大人に近づいて、もはや、少年とはいえない年齢と姿に変わっていた。

彼は、広大な枇杷の林の中に白い館を建てた。

玄関ドアのそばに安楽椅子を設置し、その椅子に深々と腰掛けて、美しい枇杷の花を眺めて一日を暮らした。

彼の目には、枇杷の林の中を駆け回る一匹の白い子犬の姿が見えるのであった。

「君には、まだ名前を付けていなかったね」

少年は、時々、小さく呟いた。

ある日、いつものように枇杷の林をぼんやりと眺めている少年の館のすぐそばを観光客の一団が通り過ぎた。

観光客の一団の中程を歩いていた一人の少女がくるりと振り返って少年を見た。

美しい少女であった、いや、少女というよりも二十歳少し前の娘であると言った方が良いのかも知れない。

少女の目が妖しくキラリと光った。

少年は、その集団をぼんやりとしばらく眺めていた。

少年の目が鋭く熱い少女の視線を受け止めたのは、ほんの一瞬であった。

少年を熱く見つめる少女の目は、暗い大海の中の漁り火のように、怪しく揺らめいて光った。

少年は、ゆっくりと目をそらし、やがてまた、焦点の定まらない、うつろな目で枇杷の林をじっと見ていた。


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