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銀色の帆  作者: 屯田水鏡
7/11

枇杷(びわ)

六 枇杷びわ


その時であった。

「元気を出せ」と、暗闇の中から、誰かが、少年に呼びかけたような気がした。

それは、大きな声ではなかった。

かといって、小さな声でもなかった。

いや、声ではなかったのかも知れない。

なんといって表現して良いかわからない。

たとえば、生きているものが生きているものへ、心から心へ語りかけているような暖かさがあった。

そして、何ものにも負けないぞ、という覚悟と力強さが秘められている意志の叫びのように思えた。

少年は、あたりを見回したが誰もいない。

勿論、いるはずはない、この町で今、生きているものは、恐らく、自分と足元で自分を見つめているこの子犬だけなのだ。

今の声は、きっと空耳にちがいない、と少年は自分を納得させようとした。

もしも、自分の近くに生きているものがあるとすれば、すぐそばに、一本の枇杷びわの木があるばかりであった。

だが、その木は、葉が落ちて、枯れている、そんな木が、少年に語りかけるはずが無い。

そう思いながら、枇杷の木をじっと見つめていた少年の目が一瞬大きく見開かれた。

今にも朽ちて倒れそうな枯れた琵琶の木に、実が生っていたのである。

少年は、近づいて、まじまじと琵琶の木を見た。

ほんの少しではあるが、小さな新しい芽も吹きはじめている。

この木は、生きている、いや、一生懸命生きようとしている、そう気づいた時、少年は微笑んだ。

そして、体の内側から、生きようとする意志が湧き出してくるのを感じた。

「頂くよ」

少年は、琵琶の実をもいで食べた、甘く懐かしい味がした。

食べることで体に活力が生まれ、考える力と、希望が生まれてくる、特別なことをしている訳ではない。生きる為の、自然な行為である。

それが、精神を活性化させる、何とも不思議な体験であった。

そして、絶望という精神状態から抜け出すきっかけになるように覚えた。

「ありがとう」

琵琶の木に話し掛けた。

少年は、枇杷の木に毎日水を与え、その木の下で、子犬と一緒に食事をした。

混乱した人々は身一つでこの町を脱出した、そのせいで、牧師の家とその周辺の家々には、当分の間生きていける分の食料が保存されていたのである。

少年は、この枇杷の木と子犬がいれば、もう、何も寂しいことはないと感じた。

彼等と一緒に生活するうちに、いつの間にか死の恐怖と悲しみは薄れて行った、彼らと一緒ならばいつ死んでも構わないとさえ思った。

死とは、近い将来、自分に確実に訪れる単なる自然現象だという漠然とした思いしかなかった。

自分だけではない、人はいつか、誰でも、事故や病気で、運よく事故や病気を逃れたとしても、何れは年老いて死ぬ。

それは、悲しい現実であるかもしれないが、生きるものに与えられた平等な運命であるのかも知れない。

だから、生きている間に、自分の生を、精いっぱい生きれば良い、そんな気がしてきたのである。

少年は、子犬に向かって、また、枇杷の木に向かって、父や母と暮らした思い出の日々を語った。

何の変哲もない、ただ、退屈なだけであったあの頃の平和な日々が、今思うと、自分にとって最も幸せな時であった。

それが今さら理解できるとは何という皮肉なのであろうか。

環境の変化は、人の心を左右し、大切さ、重要さの序列を入れ替えてしまう、しかし、そんな現実に耐え忍び、乗り越え、挫折を乗り越えようとする意志がある限り、そして、優しさを無くさない限り、人は成長する。

話しながら、少年は、自分の心の中に、いつの間にか大好きな父と優しい母の姿がしっかりと焼き付いているのを感じていた。

頼もしい父の顔と仕草、優しかった母の胸、思い出そうとするだけで、いつでも少年にほほえみかけてくる。

父と母は、少年の心の中で生きている、少年は、そのことに気付いたのである。

少年にとって、不幸な中で、救いであるのは、父母が優しく、正直であったということである。

では、父母が、非常な人獣であったならば、その子はどうすればいいのだ、と言う人がいる。

近くにいる人の中や遠い親類、それでもいなければ、あなたが読む本の中に手本とする人物がいるかもしれない、いや、必ずいる。

その人を、いや、人ではないかもしれない、極端に言えばその生き物を人生の師とすればいいのではないか。

少年の顔には、笑みが絶えなくなった。

少年は話しつづける、話せば話す程、あの頃の思い出が蘇ってくる。

少しずつ、芽を吹きだした枇杷の木は、少年を守ろうとするかのように繁った。

子犬は耳を傾けて、時々自分の鼻の頭を舌でぺろりとなめながら、少年の顔をその透き通るような目で、じっと眺めては、興味深げに聞き入っているのだった。


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