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銀色の帆  作者: 屯田水鏡
6/11

子犬

五 子犬


子犬は、その澄んだ眼で少年の顔を覗き込んでいたが、ぺろりと暖かい舌で少年の鼻をなめた。

鼻先に子犬の体温を感じたとき、少年はその暖かさに一瞬救われる思いを感じた。

子犬から鼻先をなめられただけで、心が温かくなる、これは、どういうことなのであろうか、温かいにもかかわらず、いや、温かいからこそこの身が震えた、なぜだろう。

体温と共にその温もりのある犬の思いは確かに少年の心に届いたのであった。

何気ない自然な行為によって、希望という小さな灯が少年の中に生まれつつあった、不思議である。

体と心は若しかしたら繋がっているのかもしれない。

そしてまた、その暖かさは、生きるものから、生きるものに伝染するのかも知れない。

少年は命というものを実感したような気がした。

子犬は元気よく駆けた。

時々、くるくると回って少年を見上げ、おどけて見せた。

少年は、精神を打ちのめされた自分を優しく元気づけてくれるこの可愛い犬を、一瞬ではあったが、食料にしようと考えたことを恥じた。

少年は、子犬の後に従った。

子犬は、町のほぼ中程の小さな家の前で止まった。

ワンと一声鳴いて、子犬は少年に中に入れと促すようにしっぽを振った。

少年は、犬に導かれるままその家の中に入っていった。

暗闇の中を手探りするようにしてしばらく進むと階段があった。

それは、地下へと続く螺旋階段であった。

手すりを頼りに大きな柱の周りを二度ほど巡って階段を降りるとそこはどうやら広い地下の部屋らしかった。

急に食卓らしきものにぶつかった。

灯りを取れるものは何かないのかと手探りすると、そこに燭台があった。

そしてうまい具合に大きな蝋燭とマッチがすぐそばにあった。

早速燭台にろうそくを立ててマッチで火を灯した。

蝋燭の明かりに浮かび上がった部屋は広く立派であった。

燭台と少年の顔を交互に見上げていた子犬がワンと吠えた

燭台の上に一塊のパンがあったのである。

暫くお目にかかることのできなかった食べ物であった。

少年は、飛びついた。

少し異臭がした、腐りかけているのかも知れない、だが、まだ食べられる。

たまらなく腹が減っていた。

「まだ死んではならぬ、生きよ」と神はあなたに命じている、だから、希望を捨てないで。

見上げる子犬の輝く目が少年にそのように語りかけていた。

少年はパンを半分に割って子犬と分けて食べた。

だが、このままでは、食料も尽きて、もうすぐ死ぬだろう、今まで生きた年月を振り返っても、神の存在を感じたことは無い。

もしも、神がいるとしたら、少年の家族を守ってくれたはずである。だが、誰も手を貸してくれなかった。

一方で、悪魔の存在が匂う、この状況をもたらしたのは悪魔の仕業に違いない。

パンをほおばりながら、現在の自分の置かれている環境を振り返ると、とても生きながらえるとは思えなかった。

悲しくて胸が塞がれて、涙が止めどなく流れた。

子犬の吠える声がした。

子犬は、部屋の片隅で臭いを嗅いでいたが、急に前足で床をとんとんと叩きだした。

そこには四角い板があって、その上に取っ手が取り付けてあった。

取っ手を引いて開くと、また、地下へ下る階段がみえた。

鼻を突くカビの臭いがした。

子犬は素早く階段に沿って駆け下りた。

「ちょっと待ってよ」

少年は犬の後に従った。

蝋燭の明かりを頼りに階段をゆっくり下りると、カビの臭いはさらに強く一面に漂っていた。

闇の中で、子犬が吠えている。

「どうした、何があった?」

少年は背を少し低くして部屋の中を蝋燭の明かりで照らし、目を凝らした、そこは書斎であった。

部屋の中ほどに大きな机があるって誰かが椅子に腰かけて、机に片肘をついて何かを書き綴っている、少年にはそのように見えた。

子犬はそれに向かって激しく吠えているのであった。

「貴方は誰だ」

少年は思わず息を止めて叫んでいた。

だが、良く見るとそれは、机に向かって掛けたまま死んでいる、すでに白骨と化した屍であった。

その手にはペンがしっかりと握られていた。

青い便せんには数枚にわたって、文章がつづられていた。

読み進むうちに、その文章が実は遺書であることに気が付いた。そして、少年は、驚きの事実を知ることになるのであった。

「神よ、答えてくれ、私はいつまでこの煉獄をさ迷わなければならないのだ。私に生きる価値は無い、だが、自殺はあなたが許さない、どう始末をつければ良いのだ。腐りきった我が魂をこれ以上この世に晒すことに我慢がならない。私は何をした、神よ、あなたが与えた残酷な試練にまんまと乗ってしまった。恥知らずなわたしは、呪われねばならぬ、神よ、私は魂を悪魔に売った、そうだ、神よ、あなたの眷属である悪魔に。私は教会の改修費用が欲しかった、神に仕える者が障壁画を美しく飾りたいと思うのは当たり前のことではないか。思い出してもおぞましい。悪魔のささやきがあろうとは、町長め、神に仕えるこの私をまんまと騙しおった。そして、町長を信じて疑わない彼は、あの日、子どもを連れて教会へやって来た、町長が公金を横領しているという噂を確かめるために。彼は町長を信じていた。権力の座に長く座り続けると、人は腐敗するという普遍の理があるにも拘らず、あの男は町長を信じた。私は知っていた、町長は自分の行為を隠ぺいするために彼の口を封じなければならなかったのだ、いや、そればかりではない、町長は清廉で濁りが無く、悪には決して染まらない、あの男が憎く、そして、怖かったのだ。教会の改修費用を提供することを交換条件に私は町長と町の幹部が企てた陰謀に加担した、そうだ、神よ、あなたの教会を守るために私はたくらみに加担したのだ。あの男は町長と町の幹部、そして、神に仕えるこの私の言うことを何の疑いも無く信じた。最も欺瞞に溢れた、最も信じてはならない者達の言葉を信じ込んだのだ。もしも町長が腐敗に手を染めていたら、その眼を覚まさせることが出来るとあの男は信じたのだ。人間など所詮は信じられない生き物であるのに。我々のたくらみにまんまと乗せられ、全ての罪を背負って、あの男は遺体となって愛する妻と子の待つ自宅へ戻ったのだ。そうだ、あの日、あの男が教会に連れて来たあの子のもとに。私が直接手を下したわけではない、だが、どうなるかは分かっていた。私は罪悪感に苛まれて、眠れない。彼が教会へ伴ってきたあの子の澄んだ目が夢に出て来て、私を苦しめるのだ、ああ神よ、あなたの教会を守るためにこの私は取り返しのできない罪を犯した。もう、生きてはおられない、死んでも、私は天国へはいけない、しかし、生きていても毎日が地獄の日々だ。自殺は許されない、それは神よ、あなたが禁じているからだ。ならば、食を断とう、そう決心した。今日で何日目であろうか、意識が混濁してきた、地獄への旅立ちが近い、さらば、腐敗しきったこの世よ」

読み終えて、少年は暫く慟哭した。

ああ、父さん、誇らしいよ、誰が何と言おうと、どんなにいじめられようと、母さんと二人で、父さんを信じて来た。

父さん、会いたいよ。

母さん、父さんは母さんの言う通り、無実だった。

会いたいよ、母さん。

だが、少年の愛する二人はもうこの世にはいない。

少年は部屋の隅でひざを抱えて座ったまま、泣き続けていた。  

子犬が、ワンと吠えた。

ふと、我に帰った少年は、自分をじっと見ている子犬が話し掛けている様に感じた。

そんなに泣かないで、生きられるだけ、生きてみようよ。

子犬はそんな風に言っていた。

少年は、泣き顔ばかりを見せている自分が、なんだか子犬に恥ずかしいと思った。

涙を見せまいと、外に出た。

少年は絶えることのできない深い悲しみに囚われていた。

外には、底冷えのする暗く寒い現実が果てしなく広がっていた。


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