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銀色の帆  作者: 屯田水鏡
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港へ続く道

三 港へ続く道


少年は、ベッドの側で母の手を握っていた。

そして、母の言葉に、いちいち頷いていた。

「ああっ、私の、本当に可愛い子。父さんが死んで、生活のためとはいえ、あなたには苦労を掛けてしまったわ。母さんは、あなたが父さんと母さんの子としてこの世に生まれてきてくれたことを何度、神様に感謝したことかわからないわ。でも、分かって欲しいの。あなたのことが心配でたまらない。今度ばかりはあなたと一緒に行けそうもないわ、悲しいけれど。父さんと母さんがそばにいなくても、きっと元気に暮らすのよ。母さんの自慢の子ですもの。きっと神様がお前を守ってくださるわ。さあ、行きなさい。父さんと母さんのことを忘れないでね。きっと強く生きるのよ。約束して、お願い。父さんと母さんの心はいつまでもあなたと伴にあるのよ。それだけは忘れないでね」

「嫌だよ、母さん。一緒に行くんだ」

母は、微笑みながら息絶えた。

昨年は父が、今日また母が死んだ。

少年は、ひとりになったことを実感した。

胸を締め付ける悲しさと寂しさが少年の胸を塞いだ。

今日はこの町を脱出する最後の日である。

船の数は限られている。急がねばならない。

急がねば脱出の機会を失う。

しかし、母の屍をそのままにしておく訳にはいかない。

人々は皆、急いで家財をまとめ、港へ急いでいる。

誰も少年に構っている暇などはない。

少年は、母の屍をベッドからゆっくりと起こして負ぶった。

冷たい母の唇が首筋に触れた。

母の体はすでに死後硬直が始まっていた。

丸太を負ぶっているようだった。

思いの外軽いと感じた。

「この軽さはなんなのだ。もしかしたら、母の魂はすでにその体から抜け出して、どこか別の場所に去って行ってしまっているのか?」

暖かさのない、固い母の死体にはあの優しい母の温もりが感じられない。

あの柔らかな胸はどこかに行ってしまったのだろう。

このやり切れない空疎な気持ちに包まれる自分に戸惑っていた。

胸の中にぽっかりと空いた穴を凍り付くほど冷たい風が吹き抜けていく。

玄関のドアを開けて一歩外に出た途端に出会う人は皆、血相を変えて道を急いでいる。

母の屍を背負って歩いている少年に目を向けるものは誰もいない。

みんな、自分とその家族を守ることに精一杯なのだ。

母を背負って昇る坂道は普段以上に足が重い、一歩一歩空しく踏み出す足下の闇を見ながら、想像も出来ない未来のことを考えていた。

これからどうしたら良いのだろう。

どのように生きたら良いのだろう。

一人で生きることに何の意味があるのだろうか。

この悲しすぎる現実にどのように立ち向かったら良いのだろう。

少年は、やっとの思いで母親の屍を小高い丘の麓まで運び、墓を作った。

父親の墓の隣であった。

そして、長い別れの祈りをした。

「母さん、父さん、お別れです」

決して泣くまいと心に決めていた。

しかし、いざ両親に別れの言葉を捧げた途端に涙が吹き出した。

父と母と暮らした思い出がこみ上げてくる。

拭っても、拭っても涙が頬を伝って流れ落ちた。

母さんは、強く生きなさいと言った。

そうだ、先ず、ともかく生きてみよう。

生きていく意味や意義、それから、生きる苦しみ、悲しみ、悩み、悦び、そんなものがどこにあるのか、難しいことを考えることは、その後にしよう。

そして、母の墓に頬ずりをした。あのやわらかい母の手のぬくもりはそこになかった。

意を決した少年はその場を離れた。

丘を駆け下り、船に乗るために暗い道を港へ走った。

少年は、何かにつまずいて倒れた。

目を凝らしてよく見ると、マネキン人形のような、美しいけれども表情の無い顔が目の前にあった。

鼻を突く異臭がした。

「なんだろう、これは」

そっと手を伸ばした。

触ったその瞬間、腐乱した鼻と頬の肉がはがれ落ちて、むき出しの歯が現れた。口の中で蛆がうごめいていた。

かっと見開かれた眼が少年をじっと見ていた。

「ああ」

思わずのけぞり、立ち上がろうと、自らの体を支えたその手の先に、ぐにゃっ、という感触で触れたのは、産着に包まれた幼児の死体であった。

「ああっ、これは」

思わず呻いた。

少年はようやく理解できた。

―若い母親と赤子の屍―

激しい嘔吐をもよおして、口を押さえた。

腐った死肉の匂いが鼻腔の中に広がり、染み込んでいった。

咳き込みながら胃の中のすべてを吐き出した。

暗い中に黄色い胃液がだらだらと、よだれのように流れ出ていた。

波打つ胃のけいれんが長い間続いた。

暗闇に順応し、改めて辺りを見回した目に飛び込んできたのは、すさまじい光景であった。

道には人々の死体が累々と横たわっていた。

少年は動転した。

精一杯、気を静めようとした。

しかし、短い人生の中では経験したことのない、未曾有の危機に少年の足はすくみ、心は打ちのめされた。

やっとの思いで立ち上がり、腐乱した屍の間を縫って先に進んだ。

暗闇の中から死者の声が聞こえてくる。

「俺たちを見捨てていくのか。飢えと渇きと悲しみに苦しむ魂を残していくのか」

もはや恐怖は少年の心には無い。

ただ、沸々と沸き上がる生きることの悲しみと疑問と死者の悪臭に苦しみながら、少年は歩き続けた。

亡霊達の声は続く。

「俺たちを残して、自分だけ生きようとするのか?見ろ、ここに死んでその屍を野に晒して無間地獄の中で苦しみ蠢き、助けを求めているもの達を残して自分だけ生き延びようとするのか?ここに死んでいる者の大半は心優しい者ばかりなのだ。為政者の言うことを素直に聞き、言われるままに我慢し、自分より他人の事を優先する者ばかりだ。それがこの有様だ。それに比べてどうだ、今生きている奴らは他人を騙し、欺き、踏みつけて犠牲にした卑怯な奴らばかりだ。お前もその一人になるのか?」

「あなた方の事情は知りません、あるいは裏切りや、憎しみや、妬みによって、また、様々な事情によって皆さんは悲しい運命を背負われたのかもしれません。しかし、生きたいのです。生きる努力をしたいのです。それでも生きながらえることが出来ないならばあきらめましょう。しかし、もしも神が生きることを望まれるのならば、懸命に生きてみたいのです」

死者の言うことは、あるいは真実なのかもしれない。正しきことを行う心優しき人たちが、父や母のように、誰よりも早く犠牲になることはあるだろう。

それは、彼らが無防備に人を信じ過ぎた結末でもある。

一方で、正直な人達を悲惨な運命に陥れた者達は、後悔することも無く、図太く生き抜き、名声と富と快楽を謳歌している。

あまりにも悲しいが、それが現実なのかもしれない。

では、卑怯で邪悪な者達に復讐をするのか、それも良いだろう。

だが、それよりも、生き残った者達が出来ることは、心ならずも死への旅立ちを致さねばならなかった心優しき人びとのことを語り継ぎ、忘れないことではないだろうか。

それが神の意志であって、あるいは自分に課された使命なのではないのだろうか、少年は悲惨な現状を見てそのように感じた。

その使命を実行に移すには先ずは生き延びなければならない。

「そうか、それも良かろう。ならば、懸命に生きてみるが良い。行け、だが決して忘れるではないぞ、人が生きるということを。多くの犠牲の上にお前は生かされているということを知れ」

霊の機嫌を損ねる前に、急いでこの場を脱出しなければならない、死者の魂が安らぐように強く念じて少年は歩き出した。

何かが少年の足首をぐいと掴んだ。

「連れて行ってくれ、たのむ」

老人が少年を見上げている。

見れば、瀕死の状態であることが分かる、顔には、すでに死相が現れて、見る限り、生きる力が残っているとは思えない。

「ごめんなさい、船に乗るために、急がなければなりません。その手を離してください」

「いや、離さぬ。このわしも船に乗せてくれ。まだわしは生きたい。だれがなんと言おうと生きたい。お前、まさか、これほど頼んでいるこのわしを見捨てて行こうとしはしまいな」

早く港に行かなければ船の出発時刻に間に合わない。少年が乗船しようとするのは最後に残された船であった。

それ乗り遅れると、次は無い。

だが、弱弱しい声で縋り付く老人を討ち捨てて行くことは出来ない。

彼も懸命に生きようともがいている。

皆、生き残るために他人には目もくれず、あるいは、邪魔する者を踏み倒して港へ向かっている。

だが、少年にはそんな無慈悲なことは出来ない、父や母の教えた人の道に叶わないからである。

この老人が、最早助からない運命であったとしても、生きようという意思がある限り、援助の手を差し伸べねばならない、それが自分のやるべきことである、若し、老人を棄てて、自分だけが生き延びたとしても、その後、一生後悔してしまう気がする。

「わかりました。どうしたらいいのですか?」

「わしを連れて行くのだ。その肩を貸せ」

「では、この肩につかまって下さい」

少年はしゃがみこんで老人に肩を差し出したが、老人には少年の肩に手をかける力も残ってはいなかった。

「残念だが立ち上がる事さえ叶わぬ。情けない。負ぶってくれ」

少年は、老人を背負った。足元が危うい。だが、生きようとする人を置いてはいけない。

 累々と横たわる屍を避けて通ることは難しい。時々死体に躓いてよろける。

 しばらく歩いた時、背中の老人が呟いた。

「もう良い、どうやら、わしはもう生きられぬ、下ろしてくれ。お前の背中にいることさえも苦しくて耐えられぬ」

 少年は老人を道に横たえた。

「どうしたのです、しっかりして下さい」

 少年は、老人を背負った時から分かっていた、彼の身体がひどく損傷していることを。

大急ぎで港へ向かう人々が、何かのはずみで倒れた老人を踏みつけて行ったことは容易に想像できた。

「苦しい、どうやらこれまでだ、水をくれ」

「水はありません」

「水だ、水をくれ、死にたくない」

 苦しそうに喘いで、老人は息絶え、冷たくなった。

「しっかりして下さい」

返事は無い。老人の死に顔は安らかではなかった、この世にまだまだ多くの未練を残していたのであろう、恨めしそうに天空を睨み付けていた。

少年は老人の目を閉じて立ち上がり、船の待つ港へ向かおうとした。

周りは死体しか見えない。少年の他には生きて動く者は誰もいない。

港に向かう人の姿は、すでに耐えてない。

生きている者は皆、すでに港へたどり着いたのだろう。

どの方向へ向かえば良いのだろうか、少年は不覚にも暗闇の中で方角を見失って、立ちすくんだ。

力尽きて倒れた人々の屍が道に累々と横たわり、異臭を放っていた。

腐食した遺体の廻りはまるで蛍が舞っているように明るかった。

そして、少年は気付いたのであった。

横たわる死体から沁み出したりんは暗黒の中で光り、港へまっすぐに伸びる道を浮かび上がらしていた。

さあ、俺たちの屍が港へ続く道標となっているうちに、構わぬ、俺たちを踏み越えて港へ急ぐのだ、急げ、船に乗り遅れるな。

折り重なった屍がそのように少年に語り掛けていた。

少年は横たわる屍を避けて縫うようにして歩き、先を急いだ。


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