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銀色の帆  作者: 屯田水鏡
2/11

前兆


1 前兆

大通りの木々が、時折、大きく風に揺れた。

それが前触れであったのかもしれない。

しかし、それをこの物語が始まる兆しとするには、あまりにも微々たる現象であった。

空は透き通るほど青く、そこに浮かんでいるいくつかの白雲は普段と変わりなく軽やかに流れていた。

ただ、敢えて言うならば、何時もより、ほんの少しだけ、その流れが速いだけであった。

山々の青くなだらかな斜面が緑に輝き、針葉樹と広葉樹が混在した森では、微風に揺れてきらきらと輝く木漏れ日のシルエットの中で、リスが枝の上で間断なく動いて木の実をかじって、小鳥たちはさえずり、忙しく木々の間を渡って餌を啄んでいた。

森の外では、草を頬張った口をいつまでも動かしながら、短い尾を振って、三々五々、ゆっくりと歩を進める鹿の群れがいた。

兎は耳をそばだてて立ち上がって辺りを見回し、転がる様に野を駆けていた。水面は微風で細波が立って、すぐ上空では、白い水鳥が群がって輪を描きながら舞っていた。

水中で身をくねらしていた魚影が水面に飛びだしてきらりと光ると、水鳥がそれを目がけて急降下したが、間一髪、捕獲出来ずに頭を水面に突っ込み、慌ててその白い羽を大きく広げ、幾度も水を叩き、辛うじて空中に舞い上がると、水面には同心円の輪が何重にも出来ては広がった。

散歩をしていた老若男女が川辺を通りかかり、橋の上から身を乗り出して、笑いながらその情景を眺めていた。

手を繋ぎ、語らいながら歩く若い恋人達が互いに見つめ合いながら、朗らかに笑っていた。

学校の授業から解放された子供達がその脇を擦り抜けて行く軽やかな足音と歓声が響いていた。

ネクタイを直しながら急ぎ足で大通りを歩く青年は農具を肩に家路につく農夫と擦れ違いざま、古くからの知り合いだったのだろう、大仰に振り向き、軽い冗談を交わして手を振っている。

いずれの風景も、何時もと変わらぬ昼下がりの情景であった。

だが風は密かに小枝を揺らし、木の葉をさわさわと騒がせたあと、ゆっくりと、その力を強め、次第に大樹の幹を波打たせ始めた。

木の葉が次々と枝から離れ、風の中でくるくると円を描いて飛び去って行った。

何時か風は突風となって吹き荒れるかに見えたが、どういう訳か突然、ぴたりと止んで、静寂が訪れた。

いつの間にか鳥の姿が消えた。続いて草むらで泣いていた虫の音が途絶えた。あとには真空のような静けさだけが残った。

そして、地上は夜のとばりが降りるように急速に暗くなった。

日が落ちるには、まだかなりの時間があった。

しかし、闇は、地上で繰り広げられる、人間や動物や植物の営みを覆い隠しつつあった。

暗闇の向こうでかすかな悲鳴が聞こえ、続いて呻きとも泣き声とも何かが軋む音とも区別のつかない響きが聞こえた後、静けさが地上を覆った。

玄関の扉を勢いよく開けて、少年は家の中に駆け込んで鞄を担いだまま水道の蛇口をひねって、流れる水に口を付けてごくごくと飲んだ。

「ああ、うまい」

袖で口を拭ったとき、隣室から母の声がした。

「帰ってきたの?」

少年は鞄を肩から下ろし、食卓の上に無造作に置いて、それから、扉をそっと開けて、母の寝ている寝室を覗いた。

「母さん、ただいま」

暗闇の中に、母の白い顔が見えた。母は、ベッドに横たわり、天井を向いていた。その白い顔が少年を振り向いて少し微笑んだ。

「ああ、やっぱり帰っていたのね。学校はどうだった?」

「いつもどおりだよ。母さんとの約束を守って喧嘩なんかしなかったよ。母さんはどう?」

「母さんも、いつもと同じよ。そうねえ、少しは良いかしら」

ベッドのそばに駆け寄り、跪いて、少し苦しそうに、弱々しく話す母の手を取って、頬ずりをした。母の手は暖かかった。

だが、その手は日増しに痩せていく、昨日よりも少し細くなっている、少年はそれが悲しかった。

母は、もう一方の手で少年の頭を撫でた。

「あなたの元気な様子を見ると、なんだか体の調子が良くなる気がするのよ」

そしてまた、目を閉じた。それから、母は、安心したかのように、軽いイビキをかいて眠った。少年は、母の顔をしばらくじっと見ていた。

それから、もう一度頬ずりをして、母の手を布団の中に戻し、静かにベッドのそばを離れた。

食卓に戻り、戸棚の中から食器を取り出して食事の用意に取り掛かった。食事の準備をするのは少年の日課であった。

肉も野菜も穀物も残り少なくなったが、しかし、少年には将来への不安はなかった。母がいる、それだけで幸せだった。

自分の将来について考えるには、少年はまだ幼かったのかも知れない。

窓の外を眺めながら貧しい食事をとる少年の目に映るものは、遠くまで広がる暗闇であった。闇はますます深く濃くなって、世の中のすべてのものが暗黒に解けて行くように視界から遠ざかって次々と消えていく。

後には、光の届かない深海の重たい陰鬱さの中に沈み込むような息苦しさが残った。

「どうしたのかしら?」

咳き込みながらつぶやく母の声が隣室から聞こえた。

「暗いわ。夜になったの?」

また、弱々しい母の声がした。

寝室を覗くと、薄暗闇の中で、母はベッドの上に身を起こして、毛糸のショールを肩に掛けていた。血の気の少ない青い顔で少年を見た。

少年は残り少ないマッチを擦ってランプに灯をともした。

ジリジリとランプの芯が焼ける匂いがして、小さな炎が灯ると、陰影の濃い、痩せた母の横顔と細い肩を照らした。

「いや、母さん、夜までには、まだ間があるよ。お昼を少し過ぎたばかりだよ」

少年はポケットから銀の鎖の付いた時計を取り出して、ランプにかざした。父の形見の時計である。時計の針には紫の蛍光塗料が塗られていた。

暗闇の中で浮かび上がる紫の秒針がオレンジの蛍光塗料が塗られた文字盤を順番に差していた。時計は午後二時を少し回った時刻を示していた。

その動きはまるで、これから始まる新しい世界へ入っていくまでの時を刻んでいるかのようであった。

「母さん、暗いのは、きっと天気が悪くなったせいだよ。もう少し経ったら、また明るくなるよ。それにしても、暗くなったせいか、少し冷えてきたね」

「そうね、風が入ってくるような気がする。寒いわ。窓を閉めてね」

半分ほど、開いている窓から白いカーテンを揺らして風が吹き込んでくる。

ガラス窓を閉め、続いてカーテンを閉めながら、何気なく外を眺めたとき、おやっと少年は思った。

光を失った空が一面に広がっていたが、そこに何かが見えたような気がした。

少年の目に映ったのは、誰かが空からゆっくりと降りてくる姿であった。

何者かが邪悪な匂いのする黒いマントを翼のように大きく広げて凍り付くほどニヒルな笑いを浮かべて空から降りてくる。

それは、一つではない、空いっぱい無数に浮かんで、まるで、悪魔が静かに町のあちこちに降りたつように少年には見えた。

あれは何なのだろうか、何かの暗示なのであろうか、いや、急に暗くなったせいで、きっと目の錯覚が起きたに違いない、疲れているためだろうと思った。

「こんな時、父さんがいてくれたらいいのに」

少年は、呟いて、ポケットの中の時計を握った。目を閉じると懐かしい父の顔が浮かぶ。

少年の父は、町の財務担当官であった。朝早く出かけて、夕方、まだ日のあるうちに帰ってくる、それが、少年の記憶している父の日課であった。

妻を愛し、我が子の成長を楽しみに生きている、普通の父親であった。

幸せだった家族が壊れ始めたきっかけは父と二人で尋ねたあの大きな聖堂だったような気がする。

それは、一年ほど前のことであったが、どういう理由でそこを訪れたのか、少年の記憶にはない。

その建物の中には壁や天井いっぱいに巨大な宗教画が描かれていた。

白髪で深い皺の刻まれた青白い顔の老人が、聖堂を見学している人たちに近づき、絵画を指さして叫んでいた。

その皺の一つ一つに彼の抱える苦悩が刻み込まれている様であった。

「魔界から使者がやって来る。見よ、聖人達の取り澄ました、そして、欺瞞に満ちた顔を。じきに、神のしもべは、この腐敗した地上に降り立つ、そして人は試されるのだ。汝、悔い改めるか」

見学者は、老人を避けるように迂回して、急ぎ足で行き過ぎた。

老人は父と少年を見かけると周りを気にするように急ぎ足で近づいて小さな声で話しかけた。

「やっと来たか」

二人は真剣な目でお互いを見つめて話していたが、父は時々頷き、また、首を左右に振っていた。

父がその老人とどんな話をしているのか少年には良く分からなかった。

「町長は、立派な人だ、そんなことを見逃すはずがない」

父が急に大きな声を出すと、老人はしっと言って口に指をあてた後、小さな声で呟いた。

「いや、彼は、権力の座に長く居過ぎたのだ」

老人と分かれたときは、かれこれ二時間近くが経過していたであろうか。

「お父さん、変なお爺さんだったね」

「父さんの知り合いでね、この教会の牧師なのだよ」

父はそう言った後、黙り込んだ

少年はあの時老人が指さした壁画に描かれていた魔界からの使者の姿が、いま空から降りて来る何かに似ているような気がしていた。

あの日を境に父の帰宅が遅くなった。家に帰ってからも、仕事を続けることが多くなった。

「あなた、何かあったの、この頃、帰りが遅いわね」

「ああ、帳簿の数字が合わなくてね、ちょっと調査しなければならない。多分、単純ミスだろうけれど、その原因を探しているから、当分、遅くなるかも知れないよ」

父は家に帰って来ても、おそくまで書類を作成していた。

時には眠らずに、そのまま、翌朝早く出かけることもあった。

「町長に進言しなければ」

ある日、そう言って父は出かけたが、それが、少年と妻に残した最後の言葉となった。

何日か経って、父は荷車に載せられて遺体で帰宅した。

父の身に何があったのか家族には、知らされなかった。

町長と警察幹部の発表によると、財政担当官の地位を利用して不正蓄財をした父がその罪の意識に耐えかねて服毒自殺したということであった。

「お父さんが、そんなことをする筈が無い、きっと何かの間違いだわ、そう言えば、何か思い悩んでいる様だった。どうして気付いてやれなかったのかしら」

母は、自分を責めた。

悲しみと憤りは彼女を深く傷つけた。

その上、入れ替わり立ち替わり、報道記者が家を訪れて、母を詰問した。

「御主人が公金を横領したことは分かっています。警察幹部がそう言っているのですよ。隠した金はどこにあるのですか?あなた、知っているでしょう、嘘を吐いたり、隠したりせずに白状しなさい」

「私の夫はそんなことをする人ではありません」

父を心から信じる母は、懸命に父を擁護し、無実を主張した。

母は、気丈に振る舞っていた。だが、深い悲しみと苦しみは母の体と精神を蝕み始めた。それでも気を張って世の中の批判に耐えた。

古今東西を問わず、権力者の言うことを鵜呑みにして、弱者の弁明は聞かず、強きものには従い、弱きものに鞭打つことは庶民の有様なのであろうか。

まだ幼い少年には自分の身の回りで起きている事態の状況が理解できずにいた。

真面目に生きて来た弱者には世の中の理不尽な仕置に反撃する手立てはなどない。

母に出来ることは、夫を信じ、ただ絶えることしかできなかった。

罪人と決めつけられて困窮した家族に手を差し伸べようとするものはいない。

そして、母は倒れた。

身体が病に冒されたのではない、冒されたのは精神である、踏み荒らされた良心である。

あれから一年が過ぎて、世間は、事件のこともこの家族のこともその記憶から忘れ去った。

だが、家族に笑いが戻って来る日はやって来ない。

母は次第に部屋に閉じこもるようになって今ではベッドから離れられなくなっていた。

この家族に残されたのは、深い心の傷と、今日、突然訪れた暗黒の世界と同じ様に暗い日々だけであった。

「食事はしたの?」

隣室から、母の声がした。

「うん、食べたよ。母さんは食べる?」

「いいえ、まだいいわ、もう少し眠りたいの」

少年は、すすり泣くこえが聞こえたような気がして、ドアをそっと開けて母の様子を垣間見た。


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