辛党男の話
恋愛について、一つ、興味深い話を聞いたことがある。
私の友人の、そのまた友人の話だ。私は彼と二度会って、言葉を交わした。
一度目に会った場所は、友人と映画を観た帰りに寄ったレストランだった。夏の、暑い日だったと思う。夜になっても気温が下がらず、着くなり私と友人は冷たいビールを注文し、のどを鳴らして飲んでいた。
適当な食べ物も注文し、私たちは映画の感想を言い合った。私は主演男優の演技を褒め、友人はラストが気に食わないと批判した。
どれくらい経ったか、三本目のビールを注文した後、私の後方を見つめて、あれ、と不意に友人が小さく声を上げた。
「どうした」
私は骨付きチキンを頬張りながら、友人が目を止めた場所を振り返って見た。そこには一人の男がいた。背筋を伸ばして席に座り、彼はステーキを食べているようだった。
「誰だ」
私が問うと、高校時代の友達だ、と友人は言った。
「すごく久しぶりだ。すぐには気が付かなかったな」
友人は目を細めて微笑んだ。ちょっと挨拶してくる、と言うなり席を立って、彼の元へと行ってしまった。残された私は手持無沙汰気味に、一人チキンを食べてはビールを飲む、という行為を繰り返していた。
数分後、友人は食事を終えて帰ろうとしている彼を引っ張ってきて、私と彼を交互に紹介した。私はたいして彼と親しくなりたいわけではなかったが、おおらかで誰とでも仲良くしたがる友人なりの気遣いであったようだ。彼は友人のそのような性格を知っているのかいないのか、よろしく、とさわやかな笑顔で私に向かって手を差し出した。私も慌てて油でべとついた手を拭き、彼と握手をした。元ラグビー部だというだけあって、肉厚な手をしていた。また、彼は長身でがっちりとした体格をしており、顔や首、半袖ポロシャツから出ている腕が真っ黒に日焼けしていた。
その後帰っていった彼と別れ、私は心ゆくまで友人と酒と食事を楽しんだ。彼との出会いはそれほど心に残るものではなかった。私が家に帰るころには、彼のことはすっかり忘れていた。
だから、二度目に彼に会ったとき、すぐには誰だか思い出せなかった。最初の出会いからすでに三か月が経過しており、季節は夏から秋へと移り変わっていた。仕事の気分転換にコーヒーでも飲もうと立ち寄ったファミリーレストランで、美しい姿勢で一人ステーキを食べている男がおり、どこかで見たことある顔だな、と思った瞬間目が合った。軽く会釈してきたさわやかな笑顔を見て、友人の旧友である彼であることが分かったのだった。
「お仕事ですか」
目が合った手前、話しかけた方がいい気がして、私は彼のテーブルへ近寄った。彼は夏に会ったときとは違い、今回はスーツを身に着けていた。そういえば、保険の営業をしていると言っていたことを思い出す。
「ええ、まあ。ただ、一軒クライアントとのアポイントをキャンセルされてしまいましてね。次の約束まで時間があるので、ここで時間を潰そうかと」
そうですか、と私は相づちを打ったものの、その後が続かなくなってしまった。なにしろ会うのは二回目なのだ。
内心焦っていると、彼は微妙な空気を感じてか、一緒にどうですか、と相席をすすめてくれた。断る理由も見つからず、私は礼を言って彼の向かいに腰かけた。
注文したコーヒーを待つ間、彼はステーキを食べながら自分の仕事の話をした。私も聞かれるがまま、自らのイラストレーターという職について説明した。
彼との会話は面白かった。彼は自分の話もしたが、何より聞き上手で、人の話を引き出すことに長けていた。こちらはきちんと聞いてもらえているという安心感からか、どんどん話をしたくなっていった。話していくうちに、自分はこんなことを考えていたのか、とちょっと驚いてしまうこともあった。そうして一息つくと、気分がすっきりしていて、話を聞いてくれた目の前の彼に親しみさえ覚えていた。
彼の営業マンとしての力に尊敬の念を抱きながら、私は運ばれてきたまま飲むことを忘れていた少し冷めたコーヒーに砂糖を一つ、落とした。会話を続けようと顔を上げると、彼が私のコーヒーを凝視していた。
「どうかしましたか」
彼があまりに真剣な目つきで見ていたため、何か異変でもあったのかと心配になっていると、なんでもないんです、と彼は笑い、
「砂糖、使われるんですね」
と、奇妙なことを言った。質問の意図を掴みかねて、ええ、まあ、と私は曖昧な返事をした。
「砂糖、使わないんですか」
とりあえず話にのっておこうとして聞くと、彼は顔を消して無表情になった。
「使いませんね。というか、嫌いです」
嫌い。静かな声だったが、彼の言い方には憎しみが込められていた。一体どうしたというのか。今まで楽しく会話していた目の前の人物が、急に別人になってしまったように思えて私は言葉を失った。
「砂糖だけではありません。私はこの世の甘いものすべてを拒絶しています」
食べ終えたステーキの皿を端に寄せながら、彼はなおも続ける。
「甘いものの匂いや味、すべてがダメなんです」
「アレルギー、ですか」
私がどうにか言葉を絞り出して聞くと、彼は首を横に振った。
「アレルギーではありません。ただ、嫌いなだけです。しかし、身体が受け付けないという点ではアレルギーみたいなものかもしれませんが」
彼は自嘲気味に微笑むと、近くを通ったウェイターに皿を片付けてくれるよう頼んだ。店はランチタイムのピークを迎えているらしく、大勢の客でにぎわっていた。
「何か、原因がおありなんでしょうか」
ウェイターが去った後、私は聞いた。
「原因は思い当りません。しかし、生まれて初めてチョコレートを食べて、猛烈に気分が悪くなって吐いてしまったことは今でも覚えています。それ以来、甘いものが食べられなくなってしまいました」
彼は組んだ自分の手をじっと見つめている。
たった二度しか会っていないが、私は彼に好印象を抱いた。体格にも能力にも恵まれ、一見完璧そうに見える彼にもこのような弱点があることに私は少なからず驚いた。思い出してみれば一度目に彼と会った後、あいつちょっと変わっているところあるんだよな、と友人が言っていたような気もする。だいぶ酔いが回っていておぼろげな記憶しかないが。
私は甘いものを食べない生活というものについて考えてみた。私自身、甘いものは好きな方だ。仕事をしながら飴やガムをしょっちゅう口にしている。今日から一切甘いものを食べるな、と言われたら結構きついかもれない。だが、彼はもともと嫌いなわけだから、自分さえ食べなければ生活に支障はないのではないだろうか。
そう思い問うてみると、そういうわけでもないんです、と彼は言った。
「少し、話をしてもいいですか」
私は気ままで暇な売れないイラストレーターである。時間なら自由になる。大丈夫だ、と答えると、彼はゆっくりと語り出した。
私にとって甘いものは敵なのです。自分が食べなくても、甘いものが近くにあったり甘いもののことを考えたりするだけで、頭痛や吐き気、時には発熱することもしばしばあります。この症状を見た母は、幼い私を病院へ連れて行きました。私自身、大人になってから自分でいくつかの病院を回ってみたこともあります。しかし、そのたびにどの医者も言うのです。何も異常はない、アレルギーでもない、と。
私は諦めました。これは自分のちょっと過激な好き嫌いなのだ、と思うことにしたのです。甘いものを食べず、近寄らず、近寄らせずに生活していこう、と決めました。
しかし、それは人間関係を構築する上で非常に難しいことだと分かりました。例えば友達の家に行くとします。すると、事情を知らない家の人がおかしやらジュースやらをふるまってくれました。もうそれだけでダメなんです。甘い食べ物や飲み物を見ただけで、私は頭痛を感じました。すぐに友達が親に言って別のものに替えてくれるのですが、せっかく用意して頂いたのに、と私は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
バレンタインデーなんかはとにかく地獄です。学生時代、何も知らない女生徒達が私の下駄箱や机の中におぞましい量のチョコレートを入れていきました。私をわざわざ呼び出して、視界にいれたくもないチョコレートを手渡してくる女生徒もおりました。女性には手をあげない主義の私ですが、あの時ばかりは目の前で頬を染める女生徒に怒りが湧いて仕方がありませんでした。もらったチョコレートはどうするかというと、もちろん捨てます。ホワイトデーにお返しもしません。すると、翌年からチョコレートの数が激減するのです。
非情に思うかもしれませんが、私にとっては死活問題なのです。社会人になってからはもっと大変でした。
なぜなら、仕事ともなると私のことをよく知らない方と食事をすることも多々あるからです。お宅に訪問して営業することも多いので、お客様からお茶菓子をふるまわれることもあります。私は脂汗を流しながら必死に歯を食いしばり、頭痛や吐き気に耐え続けていました。おかげで商談に集中できず、何度も契約を逃しました。私の営業成績は悪化の一途を辿っていました。
こんな感じなので、恋愛にはいい思い出は全くありませんでした。付き合っても、すぐに私の甘いもの嫌いが災いして別れることになってしまうのです。ですので、私は付き合う前に彼女たちに確認してから付き合うようにしました。「食べるのはもちろん、甘いものは見るのも、匂いを嗅ぐのも、近くにあるのも許せない。それでもいいか?」と。彼女たちは皆頷き、私に合わせて甘いものを排除した生活をしようと努力してくれました。しかしそれも長続きはしませんでした。最終的に私の異常なまでの甘いもの嫌いに辟易し、皆去っていきました。誰だって自分が好きなものを我慢するのは嫌でしょうし、仕事で体調を崩した上に仕事の成績が上がらず、いつも暗い顔をした男と恋愛なんかしたくないでしょうからね。これにより私は、恋愛も仕事もうまくいかないのは、すべて甘いものが悪いのだと、ますます甘味に対する憎悪を募らせていきました。
そこまで話すと、彼は口を閉ざした。窓の外に目をやり、昔の思い出に耽っているようだった。私も今しがた聞いた、彼の特異な体質がもたらした人生の苦労を思い、しばし黙っていた。
しかし、彼の話を反芻しているうちに、疑問が生まれた。
今聞いた彼の状況と、今目の前にいる彼の様子とではしっくりしないところがありはしないか。
私が会って話をしている彼は、とても仕事の成績が悪いようには見えない。そして、相手に与える印象も決して暗くはない。
どういうことか考えているうちに、私は一つの結論に至った。
「現在は、彼女がいらっしゃるんですね」
今思えば不躾な質問だったかもしれないが、聞かずにはいられなかった。外から私へと視線を戻した彼は、にっこりとほほ笑んだ。
「彼女が、私を変えてくれたのです」
彼の答えに、私はすっかり納得した。彼はとうとう自分にぴったり合った女性に巡り合ったのだ。彼女との恋愛がうまくいったことで仕事にも意欲が湧き、成績も回復したのだろう。
彼に合った女性。つまり、それは彼と同じく甘いものが嫌いな女性に違いない。そう思い問うと、彼は再び微笑んだ。そして、首を横に振った。
「違うんですよ。彼女は、甘いものが大好きな女性です」
彼からの意外な返答に、私は驚きを隠せなかった。どういうことなのか、わけを尋ねると彼は神妙な顔をして腕を組んだ。そしてまた、話を始めた。
私も一度、自分に合う女性は同じ嗜好の人だろうと考えたことがありました。そして、甘いものが嫌いな女性を探し、お付き合いに至ったことがあるのです。しかし、彼女ともすぐに別れてしまいました。食べ物の趣味に関しては問題なかったのですが、お互いの性格が合わなかったのです。喧嘩ばかりを繰り返すこととなり、どうしようもありませんでした。
ではなぜ、私が今の彼女とはうまくいっているのか。結論から言うと、私が彼女に合わせているからです。
彼女は生まれて初めて私から好きになった女性でした。いつも笑顔が絶えず誰に対しても自然体で接する、心の明るい女性です。熱烈なアプローチの末、付き合うことを了承してもらえました。その時、私は例のごとく彼女に『確認』をしました。しかし彼女は歴代の女性たちとは異なり、それにはっきりと『NO』を出しました。『あなたに合わせる気はない。付き合うならあなたが私に合わせてほしい』と。私は彼女と付き合い続けるため、甘いものを受け入れる生活ができるよう努めました。彼女も私の努力を理解してくれ、克服のため協力してくれました。そして、私は徐々に甘いものが近くにあっても平気なくらいになっていきました。その変化は仕事にも如実に現れ、営業成績は好転していきました。
彼女とも万事問題なく、むしろ今まで感じたことがないくらい楽しく過ごすことが出来ています。私は彼女と出会い、一つの確信に至りました。私の恋愛が今までうまくいかなかったのは、嗜好の不一致のせいではなく自分の愛情の不足のせいであったのだ、ということです。人間、本当に大切なもののためならば、自分を変えることなど造作もないことなのです。
話終えた彼を前にして、私はただ目をぱちくりさせるしかなかった。テーブルの上のコーヒーは、砂糖を入れたっきりすっかり冷え切っている。
彼はその後すぐに、アポイントの時間になったと言って食事代を支払いファミレスから去っていった。その後ろ姿は颯爽としており、すぐに人ごみに紛れ見えなくなった。
一人残された私はいすに座ったまま、目から鱗が落ちるとはこういうことなのか、となどと思いながら何もせずぼーっとしていた。
あれ以来、彼とは出会っていない。しばらく経ってから、彼が彼女と結婚したことを友人から聞いた。
『辛党男の話』おわり