Act. 12-7
<<<< 栗子side >>>>
あっというまにやってきた土曜日。天気は小雨。
あたしは傘を揺らし、水溜りを軽快に避けながら、住宅街の中、ほとんど形ばかりの誰も使ってなさそうな横断歩道を渡った。
隣を歩くのは章くん。あたしの不規則な歩調に合わせづらいのか、気づけば開いた距離を慌てて詰めてくる。
「グリコちゃん、そこは右……」
「あたしのカンは左だと告げている!」
「右なんだけど……」
いちいち遠慮がちの可愛いツッコミをくれるから、あたしもついつい調子に乗っちゃうんだよね。
「曽我部先輩の家にいったこと、二回しかないから、うろ覚えなんだけど。あの垣根に見覚えがあるから、こっちで間違いないと思う」
章くんは真面目に道案内してくれる。朽木さんの中学時代の写真を持っているという、元・文芸部の先輩の家へ。
「グリコちゃん。あんまり突飛なことはしないでね。神薙先輩がゲイだということも禁句だよ」
あたしに釘を刺してくる章くんは、朽木さんの評判を落とすことはしたくないという真摯な思いに溢れていた。
いい人だよね、章くん。こんないい人を。
「章くんがゲイだってことも?」
すかさずそう返してイジメるあたしってばやっぱりS?
「ぼっ、僕は先輩がたまたま男だっただけで、先輩以外の男性とどうこうなりたいなんて思ってないってば!」
「ダメダメ、そんなんじゃ。男を好きになったがどうした! 性別なんて関係ねえ! そんぐらいの強気で恋は探さないとさ。あたしは章くんの明るい未来を応援してるんだよ?」
「……本当に?」
「もちろん! せっかく知り合いになれた受けメンを逃したくないとか、体験談を色々聞きだしたいとか、そんなことは微塵も思ってないよ? あ、もちろん、教えてくれるんならそれ相応の報酬は払うつもりだからよろしくネ☆ ってのは心に留めておいてくれると嬉しいんだけど」
「……神薙先輩とのことは絶対に教えないからね」
「なっ! それじゃ意味ないじゃん! 章くんの価値が下がっちゃうよ!? 村の入り口に立ってる村人Aと同等になっちゃうよ!? チロルチョコ以下だよ!? あたしにとって!」
「……なんで僕、ここにいるんだろう……。助けて先輩」
頭を抱える章くんの背中をぐいぐいと押し、目的地まで急がせる。
やがて見えてくる家は、ソーラーパネルだかなんだかがはまった屋根の、普通より大きな一軒家で。
章くんがその家のインターホンを鳴らすのを、どきどきしながら見守った。
「いやぁ〜。神薙の余った写真、とっておいて良かったわぁ〜」
よく響くその声の主は、写真の束をテーブルに置き、商売人っぽいいそいそとした笑顔を作って言った。
章くんの中学時代の文芸部の先輩、曽我部さん。ちなみに男性だ。
あたしと章くんは、着いて早々、部屋にあがらせてもらった。あたしの部屋よりずーっと広い部屋の中央で、モダンな曲線を描くテーブルの前にあたしと章くんが正座して並ぶ。
曽我部さんはというと、くつろいだ様子で向かい側に座っている。失礼ながら、まじまじとお顔を観察。
だってなんか気になる外見してるんだもん。めちゃくちゃ細い人で、おでこのホクロがでかっ! なにあれ! なんか押したら変身しそう!
ううっ。だめだめ。がまんがまん。
あたしはポチッと押してみたい衝動を抑えながら写真の束に目を向けた。
ボタンより朽木さんでしょ、可愛い中坊朽木さん。うん。
曽我部さんが頷いたので、遠慮なく全部を手に取らせてもらう。
めくると、古い写真はわずかに貼り付き、白い蛍光灯の光を反射しながらつややかな表面を広げていった。
一枚目、二枚目は、少しピンボケしていた。後ろ姿だし。
だけど三枚目を開いた瞬間、その写真以外の全ての景色が消えてしまうほどにハッとなる。
これは――
あたしの知ってるのより更に尖った鋭い視線がこちらに向けられていた。
「昔の神薙先輩だ。そうそう、大体こんな感じだったよ」
横から覗き込む章くんが懐かしそうに言う。
「隠し撮りしようと思ったんやけど、いきなりこっち向くねん。びっくりしたわぁ〜」
あたしはじっと写真に見入った。
これが、昔の朽木さん――――
その写真は、屋上かどこかの柵にもたれかかっていたらしい朽木さんが、振り返った瞬間の写真だった。
当たり前だけど、今よりも若い。もっと細くて、しなやかそうな体がフレームの中に納まっている。
見た途端、強烈に惹きつけられた。
まず囚われるのは、こちらを射殺そうとするかのような危険な瞳。
世の中は敵しかいないとでも言いたげな、険しくて冷たい、しかし激しい炎を内に秘めた表情。
端正な顔立ちもあってか、中学生とはとても思えないオーラをびんびんに放っている。
なんて圧倒的な――そう、圧倒的な存在感。章くんが中学時代の朽木さんをしてそう評したのも頷ける。
「どお? 一枚三百円にしておくで?」
ニッと調子よく、でも不快な感じはなく笑む曽我部さんが、三本指を立てて言う。
あたしは次々と写真をめくりながら答えた。
「全部はいいです。これとこれと――」
気に入った写真を束から取り出してより分け、テーブルに並べていく。
「ちゃっかりいいヤツばっか選びよんなぁ〜」
そりゃまぁね。でもホントは全部欲しい。さすがに財布が厳しいから厳選してるけど。
でもすぐに抑えがきかなくなってくる。
「わっ! これカッコイイ! 体育? 短パンだったんだ。なんか可愛い〜〜!」
ヨダレまで垂れてきそうな甲高い喜声をあげ、あたしは頬を緩めまくった。
ふてくされた顔の朽木さん。
つまらなさそうな顔の朽木さん。
今にも殴りかかってきそうな顔の朽木さん。
あたしの知らない色んな朽木さんがそこにいるのだ。今よりもっとエネルギッシュな瞳をたぎらせて。
やばい。どんどんテーブル上の写真が増えていく。いっそ一万円払ってでもネガが欲しい!
「さっすが神薙のファンは太っ腹やなぁ〜。ホンマええ金になるわあいつ」
「段々後になるほどツンツン度が増してきて色気倍増っつーか、鎖骨! むはぁ〜っ! これ鎖骨見えてる〜っ!」
「グリコちゃん……もう少し抑えて……」
「だって鼻血もんだよコレ! うわぁ〜っ、ネガ欲しい〜っ。……ってアレ? この辺、ちょっと柔らかくなった?」
「ああ、三年の秋やろ? あいつ、すこうし丸くなってん。びっくりしたでぇ〜。彼女でもできたんちゃうかって、当時話題になってな〜」
あたしは残り少なくなった写真の一枚をまじまじと見つめた。
それは、教室の隅で教科書を広げて読む朽木さんの写真なんだけど。
頬杖をつきながら手元を眺める朽木さんの表情は姿勢を崩しながらも真剣で、それまでの全てを拒絶している写真とは明らかに違っていた。
「でも卒業する少し前に、それもまた変わってしもてん。しばらく学校休んどって、ようやく学校来たかと思うたら、死人みたいな顔してな〜。一言もクチきかんよーになってしもてん」
「え?」
あたしはびっくりして顔を上げた。
「そうなの? 章くん」
隣の章くんに確認する。
「ごめん、そんな話、僕も今初めてきいた。その頃は屋上に行っても先輩はいなくて、卒業式の日にチラッと姿を見ただけだから」
むむ。章くんも知らなかったのか。
「そん時の神薙の写真は撮ってへんけど、卒業アルバムならあるで」
「見たいです! 見せてください!」
あたしはすかさずお願いした。
曽我部さんがベッドの下の引き出しを開け、ごそごそと中を探りだす。
しばらくして出てきた箱入りの重厚な卒業アルバムをあたしに渡してくれた。
早速開いてみると、いかにも卒業アルバムらしい各クラスの全体写真、個人の写真が現れる。
そして――――
「朽木さん……」
なんだろう。この変わりようは。
覇気がない。一言で言ってしまえばそうなんだけど、それ以上の陰鬱な暗い影を背中に背負っている。
まるで、全てを諦めてしまったかのような――――
あたしは初めて朽木さんを見た時のことを思い出した。
背中を電流が駆け抜けたかのようなあの時の衝撃。ビビッと感じた。理想の人だと思った。
涼やかな仮面の下に、獣のように貪欲な野心を秘めている。鋭い牙を隠し持っている。
冷静沈着を装いながら、誰よりも熱くて激しい心を持っている。
そう感じて、ゾクゾクして、もっと近くで見たいと思って追いかけた。
なのに実際話しかけてみると、意外なほど普通で。どころか無気力人間で。
知れば知るほど第一印象とはかけ離れていき、一時は失望を感じたものだ。
だけど――自分の直感が間違っているとは、どうしても思えなかった。
だって朽木さんはおかしいのだ。どこかちぐはぐなのだ。
自分は逃げていると言い、本気を出すことはないと言い、だけど真剣に勉強している。
勝ち負けに興味はないと言い、挑発すれば熱くなる。
お父さんが怖い? だから一生逃げると決めた?
それは本当なんだろうか。本当に朽木さんは、そんなに臆病な人なんだろうか。
あたしは、死んだ魚のような目をうつむける少年の写真にじっと見入った。
この目――――
朽木さんは、一度絶望したことがある。
お父さんに捕まって? もう逃げられないと悟って?
全てを――――諦めた?
あたしは、以前朽木さんからきいた昔話を思い出していた。
『逃げるのにも疲れて、人生を諦めかけた』
そう言った時の朽木さんが浮かべた自嘲的な笑み。
なんだろう。何かが腑に落ちない。
二度変わった朽木さん。自分を蔑む朽木さん――――
ぎゅっと唇を結んで考える。
これまで以上に強く感じていた。
知りたい。
もっと知りたい。朽木さんのことを。
もっともっと。過去の、現在の朽木さんを――――
もっと知りたい。