Act. 12-6
<<<< 朽木side >>>>
未だ耳に残る、叩きつけた電話の不快な騒音。それを消し去ろうと、俺はレコードラックに手を伸ばした。
少し迷った後、荒々しい気分に合う派手な交響曲の入っている一枚を選び、かける。
途端に迫り来る激しい音の洪水。空気まで振動させる重い打楽器。
不快の源である腐れ女の声も頭の中から閉め出さんとばかりに音量を大にした。
『朽木……ごめん……』
からっぽになりかけた頭の中に、変態女の代わりに浮かんでくるのは、あの時の拝島の顔。痛々しげて、苦しげで。
気持ちを押し込めようとするせつなさに溢れていて――
その瞳に映るのが俺じゃないという事実に打ちのめされ、苛立つ感情を抑えるのが困難となった。
週末から、冴えない状態が続いている。
殺してやりたい。誰よりもあの女――
もはや女と形容するのも腹立たしい。あのゴキブリを八つ裂きにしてやりたくてたまらなかった。
――グリコ――
最悪な週末だった。
一時は至福の時間を味わっただけに、その転落は俺をどん底にまで叩き落した。
『……ちゃん……俺、栗子ちゃんのことが……』
酩酊状態の拝島が悩ましげに呟いた名前は、あろうことか俺の最強最悪の天敵の名だった。
聞いた瞬間に嫌な予感はした。燃え上がっていた欲望は鎮火され、俺は拝島から体を離した。
不思議と納得はできた。
これまでにも何度か、拝島はグリコを意識した態度を見せている。
その度に気のせいだと思い込もうとしていたが、それは現実から目を背けたい俺の愚かな逃避行為だったのだ。
信じられない現実を直視したくないばかりに。最悪の事態を招いてしまった俺は大馬鹿だ。
しかし、まだそうと決まったわけではない。俺は自分を落ち着かせた。
拝島をベッドに運び、自分は書斎で予備の布団にくるまり、地獄のような一夜を明かした。
翌朝。
『う~~~頭いてぇ。朽木、わりぃけど、シャワー借りてもいっか?』
二日酔いで青ざめた顔の高地がシャワーを浴びている隙に、目覚めのコーヒーを飲む拝島に真っ向から問いかけた。
『拝島。正直に答えて欲しい。グリコのことをどう思っている』
不意打ちの質問に、拝島は目を瞠った。表情が一瞬にして凍りつく。
『……もしかして、俺、酔ってる時に何か言った?』
何故そんな顔をするのだろう。
俺の顔色を窺うようなたどたどしさで聞いてくる拝島は、何かを恐れている風だった。
俺はごまかす隙を与えない、真っ直ぐに射抜く目で答えた。
『グリコの名を何度も口にしていた』
その瞬間、パッと薔薇の花が咲くように、朱に染まった拝島の顔は忘れようにも忘れられない。
それは、憶測が事実をあることを物語る、決定的な瞬間だった。
『ごめん! 俺の一方的な片思いなんだ! 告白なんてするつもりもないし、ちょっといいな、って思ってるだけで!』
『あいつの……どこがいいんだ?』
どす黒いものが、胸の内から湧いてくる。
『その……元気なところとか……。何をするにも真剣勝負、みたいな威勢の良さとか……』
黒い霧は、徐々に俺の心を蝕んでいく。視界から風景が消えた。
どうしてなんだ? どうしてあいつなんだ?
他にも女は沢山いる。それがあいつじゃなきゃいけない理由はないだろう!?
『でも、だからって栗子ちゃんとつきあいたいって思ってるわけじゃないし、本当に忘れてくれていいから! 俺、確かに栗子ちゃんは好きだけど、朽木も大事なんだ!』
冷え切った俺の心に、その言葉は追い打ちをかけた。
もはや平静を装うこともできない。『大事』という言葉を、こんな場面で聞きたくはなかった。
友人以上の何者でもない。そう言っているのだ、拝島は。
『妙な誤解で遠慮されると気分が悪いな。グリコに恋愛感情はないと、昨日説明したはずだ』
暴れだそうとする胸のざわつきを抑え、拝島から視線をわずかに逸らす。
『……それなら、なんでそんなに怒ってるんだよ?』
なんでだと?
それを、今ここで俺に言わせるのか!?
カッと頭に血が昇った。理性は一瞬にして吹き飛んだ。
『あんな女を好きになるほどお前の趣味が悪いとは思わなかった、それだけだ!』
荒々しく吐き捨てると同時に、身をすくませる拝島から顔を背ける。
『朽木……ごめん……』
消え入りそうな声は、拒絶も露に冷たく背を向けた。
殺してやる。
あの腐れ女、全身の骨を砕いた後に、ビルの屋上から突き落としてやりたい。
何が「朽木さんと拝島さんの恋を応援する」だ! お前が一番邪魔してるんじゃないか!
お前さえ割って入ってこなければ、俺たちの間に波風立つこともなかったんだ!
最悪だ。あんな女に拝島の心を奪われるなど。あり得ない。
あり得ていいはずがない。
俺は立ち上がり、苛立ちを静めようとキッチンに向かった。
いつもの倍のコーヒー豆をメーカーにセットする。これでもかというくらいに濃いコーヒーが飲みたかった。
――他の女なら。
他の女なら、これほど腹は立たなかっただろう。
一度は気を許してしまったあいつだから憎いんだ。
何故俺は、グリコの接近を許した? この部屋に入ることを許可してしまった?
何故。どうして。どれほど後悔しても、もう遅い。
拝島のグリコへの思いは本物だ。俺がグリコを好きだと誤解しながらも、自分の気持ちを認めたところからもそれは知れる。「少し気になる」程度のものじゃない。
俺が押し倒したところで、グリコへの気持ちはなくなるどころか、増してしまうに違いない。
今は俺への遠慮が気持ちのストッパーになっているのだ。
それじゃ駄目なんだ。体だけ手に入れても意味がない。拝島が心から望んで俺の傍にいてくれなければ……。
コポッ、コポッと重々しく弾ける泡がガラスの容器を叩く。芳ばしい香りが漂ってくる。
等間隔に落ちゆく飴色の水滴を、ただ置物のようにじっと見つめていた。
何故……。どうしてグリコなんだ。
疑問が湧きたつ泡のように、次から次に湧いてくる。
確かにあいつは強烈だ。常識人の拝島が惹かれる理由もわからなくはない。
だが――しかし――
ダンッ!
思わず、テーブルに拳を打ちつける。
あの女は、俺たちで淫らな妄想をしては悶えるほどの変態なんだぞ!
あげくにのぼせて鼻血を噴き出す大馬鹿だ!
目を覚ませ拝島! あんな変態でいいのか!? 妄想の中で自分がどんなことをされてるかわかっているのか!?
拝島を好きな俺ならともかく、好きでもない男を男に襲わせて楽しんでるんだぞ、あいつは!
情けない。情けなさすぎるぞ、同じ男として! あんな腐女子がいいなんて!
あんな……腐女子が…………。
……………………。
待てよ。
俺は打ちつけた拳をはたと緩めた。
そういえば拝島は、グリコが腐女子であることをまだ知らないはずだ。
俺と拝島の恋愛成就を望んでいる素振りを見せれば、同性愛に対する警戒心が強まってしまうかもしれない。それを懸念して、グリコは拝島と高地の前ではただのイケメン好きで通していたはずだ。
拝島は、グリコの正体を知らない。
奴が真に変態であることを知らないのだ。
だから恋心など抱くことができるのだ。
そうだ。あいつがどんな女か知れば、拝島の気持ちも変わるかもしれない。
なにせ百年の恋も一瞬にして冷める強烈な変態女だ。いや、あれは女じゃない。
性別不明の新人類――地球外生命体だと言われても納得できる気がする。
拝島に、グリコの正体を教えるのだ。
俺が直接、口で説明するのではなく。あいつが変態である証拠を突きつける。
それにより最悪、俺がゲイであることはばれてもいい。拝島が距離を置こうとする前に押し倒せば問題ない。
少々手荒だが、拝島の気持ちがグリコに傾いている現状よりは、よほどましな状況になるはずだ。
……せこい手だが。
俺は自嘲的な笑みを浮かべ、できあがったコーヒーをカップに注いだ。
白い陶器が黒い液体に満たされていく。その絵は、自分の心をそのまま描き出したかのようで。
――――情けない。
こんなつまらない手段しかとれないのか俺は。
自虐的な気持ちで俺は熱いコーヒーを口に含んだ。
だが。白い湯気にまぶたを落とす。
人の気持ちというのは難しい。
拝島の気持ちが少しでも変わるのなら、せこい手だろうが、卑怯な手だろうが、なんだって使ってやる。
グリコ。お前に拝島は渡さない。絶対に。