Act. 11-8
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拝島の他者への優しさは冷え切っていた俺の心を少しずつ温めてくれた。
父と母に棘のない言葉で話しかけられるようになったのは拝島のおかげだ。
それでも完全に元の親子らしさを取り戻すには至ってないが。
このまま拝島が傍にいてくれれば、いつかきっと、中学の三年間などなかったかの如く振舞えるようになれる気がする。
あの弱かった自分のことも忘れて――
『あの時のあなたは従順な犬ではなかったかしら?』
ティーカップを持つ手が小さく震えた。
突然、ねっとりとした声で脳内に蘇ったのは、忌々しい神薙蓮実の言葉。
安らぎかけていた心が一瞬で沈み、カップをソーサーに戻す。気を紛らわすべくテレビのスイッチを入れる。
朝から元気なリポーターのわざとらしい張り声が空々しく流れた。
くそ――
どうにも気分が重い。
忘れてしまえるはずだったのに。
何故今頃になって、再び現れるんだ。
もうあの頃のように、全てを捨てて無我夢中に逃げることなどできない。
拝島の傍を離れ、どこかに身を潜めるなど……到底考えられない。
俺の選択肢は結局二つだけなのだ。
立ち向かうか。屈するか。
「……あの神薙に…………立ち向かう、か……」
あまりに非現実な案に笑いさえこみあげてくる。何ができるというんだ、一介の薬学生の身で。勝負は目に見えている。
へたしたら神薙を怒らせ、父の会社に害が及んでしまう危険もある。
……屈するしかないのだろうか――
「つっ!」
痛みで思考が遮断され、咄嗟に口から手を離す。
無意識のうちに指の背を噛んでいたらしい。紫に変色し、薄っすらと血が滲んでいた。
薬で治療するほどでもないので、傷を口に含み、消毒をする。微かな鉄の味が口内に広がった。
……まだ、諦めるのは早い……。
じんわりと指に残る痛みを意識するうちに、脳のどこかが痺れてくる。視界が深紅の膜で覆われていくような錯覚を覚えた。
……逃げる、という選択肢が完全に消えたわけではない。
拝島と一緒に逃げればいい。
拝島を俺のものにして――――
再び、熱く尖った舌先で傷を舐める。
もう痛みは感じなかった。
* * * * * *
「くっちきー! おみやげ持ってきたぞーっ!」
扉を開けるなり、いつにも増してハイテンションな声が響いた。
「へぇ。たまには気が利くじゃないか」
勉強に対してかどうか、張り切ってる様子の高地から紙袋を受け取り、中を確認する。
薄い桃色の和紙に包まれたそれは――
「……日本酒? お前、真面目に勉強する気はあるのか?」
「うちの親父が棚に隠してた秘蔵の酒だよ。朽木様に進呈させていただきますので、CBTのアドバイス、なにとぞよろしくお願いしますだーっ」
調子のいいことをいいながらひれ伏す高地に呆れた視線を送っていると、
「ごめん、俺の方は手ぶら。勉強道具しか持って来なかった」
高地の後ろから肩をすくめつつ拝島が言った。
「気にするな拝島。それが正しい。酒なんか持ってくる方がおかしいんだ」
「なっ。なんて冷たいお言葉っ! そんならこの酒は持って帰って……」
「一度もらった物は俺の物だ。いいからさっさと始めるぞ」
取り戻そうとする高地の手をから紙袋をヒョイと取り上げ、お茶の用意をしにキッチンに向かう。
「朽木って結構ジャイアンだよな……」
「まぁ……たまにそうかも」
「なんか言ったか?」
振り返り、ギロリと睨み付けると、二人は慌てて靴を脱ぎだした。
数時間後。
勉強会と言ったのは嘘でないらしく、余計なお喋りをすることもなく、マーキングした教材が徐々に積みあがっていった。
高地の頭は思っていたほど悪くない。大事なポイントはきちんと押さえている。
しかし、どうも暗記が苦手らしく。
「抗プラスミン薬の作用は?」
「えっと……し、止血!」
「具体的に作用を説明すると?」
「んっと、血栓を溶解するプラスミンの作用を阻止して、線溶を妨げる……だっけか?」
「正解。では抗プラスミン薬の名前を二つあげよ」
「うっ……。イプシロンと……なんだっけかな……」
高地に縋るような目を向けられた拝島がさらりと答える。
「トランサミンだよ」
「おう! それそれ! 俺も今そう言おうと思ったの!」
「調子のいいこと言ってるんじゃない! こんな問題でつまづいてどうする!」
俺は対グリコ用の丸めた雑誌で高地の頭をはたいてやった。
「でも正解率は七割くらいあるよ。落ち着いて考えればCBTもなんとかなるんじゃないかな?」
「甘やかすな拝島。薬の名前を覚えてない薬剤師なんかただの給料泥棒だ。処方箋通りの調剤さえできればいいとでも思ってるんだろ? 人の命を預かる職業だという自覚が足りない証拠だ」
厳しく指摘してやると、
「ぐはぁっ! 痛いっ! 痛すぎます朽木様っ!」
胸元を押さえる大袈裟な身振りでリアクションする高地。
本当は、現場に立てば自然と覚えるものだから、それほどまずいとも思ってないのだが。
普段から不真面目な高地には、心構えを厳しく問うことも必要かと思えたのだ。
これでやる気をなくすようならその程度の奴だということだろう。
しかし、高地はペンを投げ出すこともなく、
「次いくぞ」と言った瞬間、顔を引き締め、真っ直ぐ俺を見て頷いた。
「おうっ!」
……ふむ。
こいつはこいつなりに必死なのかもしれない。
真剣な表情で本にアンダーラインを引く高地を僅かな感心と共にじっと見つめる、
と、俺の対面に座る拝島と目が合った。
拝島は何故だか嬉しげに微笑みながら、俺と高地のやり取りを見守っている。
落ち着かない気分になり、「コーヒーでも淹れてくる」と俺は席を立った。
メリ〜クリスマ〜ス!!
Act.11 が終わるまで一日おきに更新していきま〜す。