Act. 11-3
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気付けば深い闇の中にいた。
辺りには何もない、空虚な空間。
立っているのか、漂っているのかも分からない。五感を狂わせる闇の重圧。
不意に、薄ぼんやりとした明かりが灯った。
この重苦しい闇の中にあっては、ひどく頼りない、淡い光。
その中心に、何かの影がある。
影は徐々に輪郭を濃くし、やがて一人の少年の形をとった。
背中を丸めて小さくうずくまる。どこか脆さを含んだ少年。
膝に顔をうずめ、身を閉ざすかのように縮こまっている。
その周りをぐるりと囲むのは、冷たい光を放つ金色の檻――――
囚人、なのだ。この少年は。
そこから出ることはもはや叶わない、憐れな囚われ人。
全身を覆う絶望の影が、それを克明に物語っていた。
羽をもがれた鳥のように、輝きを失った惨めな姿。
金の檻は、煌びやかながらも捕えた獲物を決して放さない、巨大な鳥篭だったのだ。
『己の運命を受け入れろ』
どこからか、声が響いた。
重く、冷厳とした声。それは少年を戒める鎖となり、少年の姿を一層儚くさせる。
『お前はそこから出られん。救いの手が差し伸べられることもない』
槍のように降り注ぐ言葉。
びくっと震え、少年は僅かに頭を持ち上げた。
膝から覗く瞳――全てを失った者の、深い絶望を湛えたあの瞳には見覚えがある。
その瞬間、納得した。
ああ。そうだ。あの少年は――――俺だ。
そうだ。俺は捕まってしまったのだった。この鳥篭に。
『反抗を続けるのがいかに無駄なことか。よく分かっただろう。お前の居場所はここしかないのだ』
ここしかない。
そうかもしれない。いや、その通りだ。俺の居場所なんて――
体が鉛のように重かった。
俺を囲む金色の光をぼんやりと見つめる。膝を抱える腕は頼りないほどに細い。特にそれを不思議とは思わなかった。
ここ以外に俺の居場所はない。だから外に出ても仕方ない。分かってる。十分すぎるほどに。
この鳥篭の中で生きていけばいいんだ。それが俺の運命――――
『もっと必死に足掻くんだよ!』
突然、大きな叫びが空間を震わせた。
反射的に顔を上げる。
今の声は――グリコ?
気付けば檻の外に、誰かが立っていた。顔の上半分が暗く、誰だかよく分からない。
しかし薄明かりの中にぼんやりと見える、ぼろぼろの服、擦り切れたサンダルは、グリコではないことを示していた。
『お前はまだ諦めちゃいねぇよ』
その人物が口を開いた。一本欠けた前歯が微かに覗く。
途端、驚きに目を見開いた。
――じぃさん? じぃさんなのか?
なんでアンタがここにいるんだ?
『んな細けぇことは気にすんな、坊主。それより早くそこから出るんだ。んなところにいつまでもいたら目が死んじまうぞ』
じぃさんとおぼしき人影はいつもの説教臭い言葉を投げかけてきた。
俺はまた虚ろな瞳に戻り、膝に顔をうずめて目を閉じた。
うるさい。放っといてくれ。
『意地っ張りだな、おめぇは。いいから立ち上がれ。怠けもんは感心しねぇぞ』
放っとけつってんだろ。もう疲れたんだよ俺は。
指一本動かす気にならなかった。立ち上がるのすら億劫で。このまま石になってしまいたかった。
『疲れた? 嘘ついちゃいけねぇな』
嘘じゃねぇ。俺はもう逃げるのに疲れた。どうせ俺の居場所はここしかないんだ。無駄な努力したって――
『やりてぇことはどうした?』
薄っすらと目を開く。
やりたいこと?
そんなものはない。俺にやりたいことなんか――――夢なんかない。
『ったく、しょうがねぇ奴だな、坊主。周りをよく見ろ。おめぇはもう解放されたんだろ?』
言われてハッと顔を上げ、立ち上がる。
いつの間にか、俺を囲む金の檻が消えていた。
全てを諦めた途端――は、はは。笑えてくる。
神薙にすら見捨てられるのか、俺は?
『そうじゃねぇだろ。自由になれたんだおめぇは。これでどこにでも飛んでけるじゃねぇか』
じぃさんの言葉にも喜びなど感じない。
どうでもいい。飛んで行きたい場所なんかないんだ。
『やりてぇことがやれるはずだろ?』
しつけーな。ないっつってんだろ!
声を荒げて叫ぶ。
瞬間、じぃさんと視線が合った。
目は影で覆われているはずなのに、鋭い視線が俺を射抜くのを感じる。
息が止まった。
『自分の気持ちから目を逸らすんじゃねぇ』
ゆっくり、はっきりと、じぃさんは言った。
体を貫くような、強い響きを持つ声。
小さな震えが走った。
『それでいいの? 親に振り回されて、終わっちゃっていいの? ホントの気持ちは違うでしょ、朽木さん!』
またどこからか聞こえてくるのはあの腐女子の声。
うるさい。俺の中に入ってくるな。
『おめぇはまだ足掻けるはずだ、坊主。思い出すんだ』
やめろ。やめてくれ。
知らずあとずさる。
『人生、辛いことなんざ山ほどある。たった一度の挫折で逃げ隠れてて、本当にいいのか?』
じりじりと、じぃさんが迫ってくる。
『おめぇには牙がある。負けたくない、そうだろ?』
言いながらじぃさんが指差す先を見て、自分が何かを握っていることに気付く。
いつからそこにあったのか、それはホームズのパイプだった。
あのくだらないレースで俺が勝ち取ったパイプ。
負けたくない――あの時、確かにそう思った。
熱い気持ちがあった。
だけど。
だけど、あれはグリコが――――
『思い出せ坊主。逃げてるだけじゃ前に進めねぇんだ』
言い知れない不安に、胸がざわりと波打つ。
聞きたくないと、何かが心の底で訴える。
嫌だ。やめてくれ。俺は逃げてるだけでいい。
拝島が傍にいてくれればいい。
『思い出せ。おめぇはまだ諦めちゃいねぇ!』
嫌だ! 思い出したくないんだ! アンタなんか消えちまえっ!
耳を塞ぎ、ただ温かい眼差しのみを求めた。
拝島。拝島。傍にいてくれ拝島――――!
声にならない叫びと共に、勢いよく目を見開いた。世界が一瞬で切り替わる。
視界に飛び込んできたのは見慣れた天井。身を包むのは柔らかな布の感触。
ゆっくりと意識が現実を認識しだす。大きな安堵感を伴って。
夢じゃない。ここは、俺の寝室だ。