Act. 11-2
<<<< 朽木side >>>>
「これは……もう使わないな。奥にやるか。こっちは……微生物学実習…………一応出しておくか」
土曜の午後。
大学から自宅に戻った俺は、久しぶりに、書斎の本棚の整理をしていた。
一年次から三年次までの間に使用していた教材や資料を奥の棚から引っ張り出し、使用頻度の低い本と交換するのだ。もちろん明日来る高地との勉強に備えて、である。
ついでに他の本ももう少し細かな分類別にまとめておくかと、本棚から取り出し、床に積んでいく。
そうこうするうちに、段々と大掛かりな作業になってきた。
「ふう」
息をつく。さすがに一気にやるのは厳しいか。
このままでは収拾がつかなくなるかもしれない。
床を埋め尽くす本の山から脱出し、ひとまず換気するため、窓辺に寄る。
半分ほど開けると、落ち葉の匂いを含む涼しい風がそよ吹いてきた。
秋の深まりを感じる瞬間だ。
一段落したら、テラスで紅茶でも飲むか。
季節感を味わいながらのティー・タイムを楽しみにして、本の山に戻る。
それから手始めに文学系の本を片付けるべく、一番上に積んだ本を手に取ると。
「…………ん?」
妙な違和感を感じ、じっと見入る。
それは買った覚えのない本だった。
『ためになる英会話』というタイトルのカバー付きA5サイズの本。
「英会話なんか買ったか……?」
パラリ、と表紙を開く。
途端、とんでもないものが飛び出し、俺は石像のように固まった。
それは上半身裸の男二人、机の上で絡み合っている絵だったのだ。
「なっ……なんだこれはっ!」
嫌な予感にかられ、慌てて本の山から次の一冊を手に取る。こちらも表紙は一見まともながら、中身は眼鏡の男が縄で縛られたりしている漫画本だった。
誰の仕業かなど考えるまでもない。
「あい、つかっ!」
当然、こんなことする奴はただ一人。あのクソ腐女子だけだ。
この間掃除した時にでも、こっそり忍びこませておいたのだろう。
万が一拝島に見られでもしたら、光の速さで引かれていたかもしれない。なんと恐ろしい罠か。
「あの腐れ女、いつか必ず殺してやるっ!」
腹立ち紛れにくだらない漫画本を思いっきり床に叩き付け、それでも足りぬとばかりに何度も踏みつける。
そして綿密な報復計画を脳内で練り上げ、緊張感のない声で許しを請う馬鹿女を大木から逆さに吊るすところまで妄想した時。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
まさか……。
奴だったら飛んで火にいる夏の虫だ。
自然と漏れる黒い笑みを押し殺しつつ、玄関に赴き、ガチャリと扉を開く。
そして、驚きに目を見張ることとなった。
何故この人が――
予想に反して。
そこに立っていたのはグリコではなかった。
あのはた迷惑な腐女子の登場を望んだわけではないが、みるみる高揚した気分が萎んでいく。何故なら目の前に現れたのはグリコ以上に残念な人物だったからだ。
「こんにちは、冬也さん」
激しい感情を秘めた瞳。毒と華をあわせ持つ妖艶な口元。ゆったりと流れる黒髪――
神薙の正妻、神薙蓮実だった。
* * * * * *
「随分狭いところに住んでらっしゃるのね」
部屋に入った早々、これだ。
いつも通りの憎まれ口には、いつも通りため息しかでてこない。
話があるから部屋にあげろと言う神薙蓮実を仕方なくリビングに通した俺は、冷ややかな目でソファーに座るかつての天敵を見下ろした。
「何の御用でしょうか?」
いちいち相手にしていたら疲れるだけだ。
とっとと用件を聞き出し、出て行ってもらうのが得策と判断し、俺は辛抱強く話を伺った。
やはり玄関で追い返しておけばよかっただろうか。
「お茶くらい出していただけないのかしら?」
「残念ながら安物しか持っていないんですよ。お口に合うかどうか」
大いに嫌味を含んだ笑顔で答える。
どうして俺の知ってる女は皆図々しい奴らばかりなんだ。
「安物でも構わないから、彼にもお茶をあげてくださる? こういう時でもないと休憩できなくて可哀想なのよ」
言って、神薙蓮実はソファーの傍らに立つ男を首で示した。
黒服のガードマン。屈強な肉体の上に鎮座している顔は感情の欠片も見えない。
神薙家の者は必ず一人はこういったガードマンを連れ歩くのだ。彼に茶を淹れるのはやぶさかではないのだが。
「……麦茶でよければ」
意地でもこの女のために高い茶葉を消費したくなどなかった。もったいない。
「しみったれ、とは貴方のような人のことを言うのね。それで結構よ」
アンタに言われたくない――と思いつつ、とりあえずは大人しく麦茶を差し出した。
それに少し口をつけてから、長い黒髪を一度かきあげ、テーブルの横に待機する俺をじろりと睨め付ける神薙蓮実。
そして、ようやく本題を口にする。それは予想通りのものだった。
「神薙からはその後コンタクトはあって?」
「ありません」短く答える。
「嘘をつくとためにならないわよ?」
「貴方に嘘をついても仕方のないことです」
それはまったくその通りだったので、包み隠さず本心そのままに伝える。
神薙蓮実は俺の言葉の真偽を探る視線で俺の体を上から下に見た。
「……嘘ではなさそうね。でも近いうち、神薙は必ずもう一度貴方に意志の確認に来るわ。その時、どう答えるつもりか聞かせてもらえるかしら?」
「この間と同じですよ。神薙を継ぐつもりはありません。それだけです」
軽く肩を竦めて言う。
「神薙グループの総帥というポストに魅力は感じないの?」
「そんなもの、僕にとっては何の価値もありません。それに、僕がどれだけ神薙家を嫌悪しているかは、貴女もよくご存知でしょう?」
言外に含みを持たせると、最も俺に嫌悪されていた一人である神薙家当主の妻は、心当たりがありすぎるのか、ふいと窓の外に目を向けた。
「恨みつらみが多すぎて野心も湧いてこない、ということかしら?」
「権力に魅力を感じない、とまでは言いませんが、腐りきった猿山のボスの座に魅力を感じないのは確かですね」
さすがに露骨すぎたか。一瞬眉を吊り上げ、横目で睨みつけてくる神薙蓮実。
その視線を悠然と受け止める。
「…………相変わらずの口の悪さね。少しは世渡りが上手になったかと期待してたけど……。昔と同じ。いくら利口ぶっても、その狂犬のような目つきも変わってやしないわ」
「ええ、その通りです。いつ噛み付くか分かりませんからお気をつけください。もっとも……貴女の牙の鋭さには到底かないませんが。僕なんかより、余程吠えるのもお上手だ」
殊更ににこやかにな笑みを浮かべ、慎ましく返してみせた。
こんな女などと真面目に張り合う気は毛頭ない。
歯軋りの音が聞こえてきそうなほどに顔を歪めた神薙蓮実の手の中で、コップが震える。
割られると面倒だ。何気なくそんなことを考えた時、だが次には不敵な笑みを口元に浮かべた神薙蓮実と視線が合った。
「……口だけは達者なこと。でも、あの時の貴方は従順な犬ではなかったかしら?」
毒を持った瞳が挑発的に笑う。
ドクン、と心臓が脈打ち、視界が揺れた。
この――蛇女――――
神薙蓮実の言う『あの時』がいつのことかは、記憶を探るまでもなく思い当たる。
俺は、己の不利を悟った。見事に頭を押さえられたものだ。
「……一時のことです」
「どうかしらね。神薙が考えを改めてくれたから良かったものの、あのまま行けば、今頃貴方は財界の大物の跡継ぎとして、さぞやもてはやされていたことでしょうね」
「……思い出話で時間を浪費するのはよしましょう。貴女の用件が神薙と会ったか、という質問だけなら、さっきの答えで話は終わりの筈です」
心の奥底に封じ込めた弱い自分が顔を覗かせようとするのを懸命に抑える。
あの時がどうだったであれ、今の俺は神薙に屈するつもりはない。
『ようやく己の運命を受け入れるつもりになったようだな、冬也』
『…………』
『これからはトップ以外の成績は許さん。お前は神薙の統帥になるのだからな』
『…………』
『今度こそ骨身に沁みただろう。お前は神薙の名から逃がれられん。分かったなら返事をしろ、冬也』
『…………はい。分かりました……』
中三の冬。神薙の書斎に連れられた俺は、抗う気力もなく、ただ人形のように頷いた。
感情は全て抜け落ちていた。
もう、何もかもがどうでもよかった。
従順な犬――――確かにあの時の俺はそれに成り下がっていたのだ。
自分を殺してしまうことは案外心地良いものだと、その時初めて知った。
そうだ。足掻きながら生きるのは苦しいだけだ。大人しく従ってしまえばいい。
そのひと月後、神薙にすら見放されることになるとは露知らず、俺は完全に屈服する道を選んだのだ。
到底忘れることなどできない弱かった自分――
「貴方のことだから、安心はできないわね。何があっても神薙を拒絶する覚悟はあるのか、はっきりと聞かせてちょうだい。真剣に、神薙を継ぐつもりはないのね?」
「もちろんです」
しつこく問いただしてくる神薙蓮実の視線をはねのける。内心の動揺を知られたくなかった。
「……まぁ、貴方がいくら言い張ったところで、神薙の心が変わらない限りは覆せないことだけど」
神薙蓮実も馬鹿ではない。神薙の絶対権力は良く分かっている。
「いっそどこぞの農村にでも隠れ住んでくれればいいものを……。薬学部なんて小賢しいところに入るから目をつけられるのではなくて?」
忌々しげな視線と共に浴びせられるあけすけな侮蔑。知らず、口元が冷笑を浮かべる。
頭をもたげてくるのは、中学の三年間で培われた反抗心。
「そんなにご心配せずとも、また僕を跡継ぎにすることの問題点を挙げ連ねて、考えを改めさせればいいことでは?」
皮肉なことに、それがいつもの俺を取り戻させてくれた。
「そうしたいのは山々だけど、どうかしらね……私の言う事に耳を貸すような人じゃないから、神薙は」
「でも一度僕を追い出すことに成功しましたよね?」
「残念ながら、あれは私達の忠告を聞き入れたわけではなくて、単にあなたへの興味を失っただけ。理由は分からないわね」
と、思わず口をつぐんでしまう意外な話がでてきた。
興味を失っただけ、だと?
俺の素行不良を指摘されて考え直したのではない?
すると俺がいくら問題を起こそうと、神薙は気にも留めないというのか?
どういうことなのか。胸の中に言葉にできないもやもやとした何かが渦巻き、俺は床に視線を落とした。
「……なら帝王学を途中で放り出した僕よりも、英才教育を受けてきた秋一君の方が跡継ぎに相応しいことを、もっとアピールすることですね」
神薙蓮実の言葉に思考を泳がせながら適当に述べる。
と、
「おだまりなさい! 貴方に言われるまでもないことよ!」
瞬時に怒りの炎を燃やした神薙蓮実が勢い込んで立ち上がった。
この人の最大の欠点は感情の波が激しく、またそれを御し切れないところだ。
「自分の方が優れてるとでも思ってるの? 秋一だってずっと首席で通ってるのよ! だけど血の濃さだけはどうしようもない。あの人が貴方に執着するのは、貴方があの人に似ているから! ただそれだけのことよ! 貴方の方が優れているからじゃないってことをよく覚えておきなさい!」
もとより気にもしてないことを喚き散らされるのは気分のいいものではない。どちらがより優れてるかなど、心底どうでもいい。
だが一点、反論したい部分があった。
俺が神薙に似てるだと? 冗談じゃない。
「いい加減にしてください。そんなくだらない話を聞いてられるほど暇じゃないんです。お帰り願えませんでしょうか」
いらつく心のままに冷たく睨み付ける。それ以上一言でも発したら殺すぞと言わんばかりの鋭さで。
神薙蓮実は一瞬びくっと身を引いたが、そこはさすがに神薙家当主の妻、即座に澄ました顔を取り繕い、
「……そうね。そろそろおいとまさせていただくわ。これ以上この犬小屋の空気を吸っていたら病気になってしまいそうですもの」
相変わらず減らず口を付け加えるのは忘れない。
やれやれ。あまりにも安っぽい嫌味は憐れを誘うだけで効果はないと、いつ気付いてくれるのだろうか。
いいからとっとと帰れ。辟易しながら麦茶のコップを片付ける。
そんな俺の無反応にいらつきを隠せない様子の神薙蓮実は一瞬眉間に皺を寄せたが、立ち上がり、帰り支度を始めた。玄関までは見送ってやることにする。
靴を履き、扉に手をかける神薙蓮実の背中を押し出したい衝動を抑えつつ見守っていると。
不意にこちらを振り返った神薙蓮実が、これが最後だとばかりに俺を振り返って言った。
「とにかく、二度と神薙家の門をくぐることのないよう、せいぜい頑張ってちょうだい。どこか遠くに逃げて野垂れ死んでくれるのが一番なのだけど。……もし、気が変わって我が家に来るようなことがあれば――」
一瞬の間。そして殺意の籠もった目がきつく細まる。
「その時は、どんな手を使ってでも貴方を排除させてもらうわ。よく肝に銘じておくことね」
先日は更新予定日だったのに、すみませんでした!
急用のため、更新できなくなっちゃったんです。(>_<)
ちなみに今週末も予定があるため、日曜ではなく土曜に更新します。
それと、腐敵のテンポが、やたらコロコロ変わって申し訳ありません。m(_ _)m
卯月はまだ小説の書き方が良く分かっておらず、随時勉強中のため、どういう文章が作品に一番合ってるか模索しながら書いてます。そのため、文章が安定してませんが、書き慣れていくうちに落ち着いてくると思います。
本当に未熟者ですみません。(>_<)
精進していきますので、よろしくお願いします!