Act. 2-2
本日最後の講義は選択講座だった。拝島と俺では取ってる講座が違う。階段教室の前で拝島と別れた俺は、一人、講義を終えて帰路についた。
門を出て歩くこと十数分、途中のコンビニに寄り、後で拝島とお茶する時用のチョコレート菓子を一箱調達する。拝島は甘い物が好きなのだ。
そしてそのコンビニから見える新興住宅地の中、一際目に付く高層マンション。整備された石畳の道を行き、辿り着いたその真新しい真っ白な建物の中は新築の香りが仄かに漂う。
ここの7階に俺の部屋があった。
リビングの広い2LDK、学生の身にはかなり贅沢な部屋だと承知している。
エレベーターは停まることなく7階まで俺を運んだ。まだ埋まってる部屋が総戸数の半数にも満たないため、エレベータで誰かと乗り合わせることは少ない。
自室に着き、重い頑丈な扉を開ける。
中に入ると、広々とした開放的な空間が俺を迎えて入れてくれた。
余計な家具と装飾品は一切ない。本棚やPCがある作業部屋は別だが、リビングくらいはゆったりとしたスペースを確保したいので、最低限の物しか置いていない。
といっても、趣味で買ったスピーカー内蔵のレコードプレーヤーだけは別だが。
窓を開け、空気を入れ替えると、まず真っ先にコーヒーを淹れ、今日出された課題を片付けにかかる。俺は宿題を後伸ばしにするタイプではない。時間は効率的に、有意義に使われるべきだ。
課題のレポートが半分まで進んだところで部屋のチャイムが鳴った。
訪問客の心当たりは一人しかいない。俺は扉を開けて拝島の姿を認めると「どうぞ」と部屋に入るよう促した。
だが拝島はすぐには入ろうとせず、
「あ、実はな、朽木」
と妙に改まった言い方で話を切り出そうとするのを不審に思った矢先、その後ろに隠れてたらしい人影がひょこっと姿を現した。
「おっじゃましまーっす♪」
俺が度肝を抜かれたのは言うまでもない。
そこに居たのはなんとあのグリコだったのだ。
「なっ!」
あまりの驚きに俺が固まった隙に、グリコは素早く部屋に侵入を果たした。
「わーい、朽木さんのお部屋ー!」
部屋主の俺に断りもなく玄関にあがり、部屋の奥に進むその図々しさ、間違いなくこの二日間で俺の天敵リストNo.1にまでのし上がった悪魔の女、桑名栗子である。
「何しに来たっ!」
「遊びに来たーっ!」
「今すぐ帰れっ!」
「それは断るっ!」
捕らえてつまみだそうとする俺の手をするりとかわし、グリコはリビングのソファーの周りを跳ね回る。
「拝島……」
俺はじとっと拝島を見た。
恨みがましい目になってしまってたかもしれない。
「ごめん、門を出てすぐのところで偶然会ってさ、朽木の部屋に行くって言ったら自分も行きたいってついて来ちゃって…………やっぱ、まずかったかな?」
まずいどころの騒ぎじゃない。いっそ天災に遭った方がましだった。
だが拝島が悪いわけではないのは分かっている。全てはグリコの策略だったのだ。拝島はむしろ被害者なのである。
「まぁついてきたものはしょうがない。いつかは自力でここに辿り着いただろうしな」
ため息混じりに言って拝島が部屋にあがるのを迎える。
拝島はまだ恐縮気味にやって来る。俺の前で足を止め、バツが悪そうな上目遣いで俺を見て言った。
「あと、朽木の連絡先が知りたいって言うから、つい携帯番号教えちゃったんだけど……それもやっぱりまずかったよね?」
一瞬目の前が真っ暗になった。
「は、はは、気にするなよ拝島」
拝島は悪くない。
拝島は悪くない。
悪いのは全てあの女――――
「紅茶と砂糖はどこですかー?」
「勝手にキッチンを漁るなっ!」
俺はキッチンにすっ飛んでいき、グリコの首ねっこを掴んでリビングに引き摺り戻した。
今日は襟付きのワンピースなので掴みやすい。泥棒猫には相応しい扱いだ。
「だって黙ってたらあたしにお茶出してくれなさそうですもん」
「よくわかったな。うちには不法侵入者に飲ませるお茶はない」
ソファーにポイッと放って座らせる。
本当なら紐でぐるぐる巻きにしてベランダからポイッとしたいところだが。
「お茶どころか塩を撒いて追い返されても文句は言えん立場だろうが。しかしまぁ、今日は特別に淹れてやる。拝島のために淹れるお茶のおこぼれを、ほんの少しだけ分けてやってもいい。だからそこでじっとしてろ」
凄みをきかせた目で睨む。
「あたし、アールグレイがいいです」
「贅沢言うな! 淹れてやるだけありがたいと思え!」
俺は仕方なくキッチンに立ってお湯を沸かした。
あいつのために淹れると思うと腸が煮えくりかえるので、これは拝島のためと念仏のように繰り返し唱えながらカップにお湯を注ぐ。
「しかし栗子ちゃん、すごい惚れ込みようだね。昨日の今日で大学にまで朽木を追っかけてくるなんてさ」
危うくカップを取り落とすところだった。
それは大いなる誤解というものだ拝島。
「やだなー拝島さん、あたしちゃんと彼氏いますよぉ」
なに?
俺はリビングから聞こえてくる二人の会話に耳をそばだてた。
こんな女に彼氏がいるとは。物好きな奴もいたもんだ。
「あたしの友達が朽木さんのファンで、写真とか欲しいって言うから撮らせてもらおうと思って。朽木さん昔から大勢ファンがいましたから」
ああ、嘘かと納得する。拝島に怪しまれないよう理由を考えてきたらしい。
こいつとしても俺と拝島の仲がうまくいって欲しい訳だから、自分と俺との仲を誤解されるのは避けようとしてるのだろう。
紅茶の入ったカップを三つ盆に載せ、リビングに運んでテーブルに置く。ちらりと横目でグリコの顔を見ると、グリコも俺と視線を合わせて大きな瞳をにやりと細めた。
腐ったりんごを超える腐れ女だがしたたかさだけは本物だ。
「なんだ、栗子ちゃんが追っかけじゃないのか。結構いいカップルになると思ったんだけど」
「拝島、冗談でもやめてくれ」
「あはは、ごめんごめん。でも朽木のファンってのは納得だな。こいつ、大学でも超モテモテなんだよ栗子ちゃん」
同じくらい自分がもててるとはまったく気付いてないのが拝島らしい。
「やっぱそうですよね。でも滅茶苦茶ストイックなんですよね朽木さん」
「そうそう、まったく相手にしないんだよ。彼女の一人くらい作ってもいいと思うんだけどさ」
拝島――――
また、そんなことを言う……。
お前の口から「彼女を作れ」など、聞きたくない言葉だということを、いつか分かってもらえるのだろうか。
その何気ない言葉で、どれだけ俺の気持ちが沈むかということを、いつか分かってもらえるのだろうか。
俺の想い人は、時にひどく残酷だ。
「それにしてもこんな広い部屋、一人で借りてるなんて贅沢ですねぇ。相当仕送り貰ってるんですか朽木さん」
「仕送りはもらってない」
「えっ。バイト代だけで払えるもんなんですかここ?」
「朽木は自分の稼ぎで払ってるんだよ。ネットで株とかやってるんだ」
拝島が代わりに説明してくれる。俺はティーカップを手に取り、沈んだ心に熱を注ぎ込むことに没頭した。
「なかなか嫌味な生活ですねー。さすがあたしの見込んだ人です」
こいつに見込まれるくらいならぼろアパートの四畳半でよかった。
人生、何が災いするか分かったものじゃない。
ますます気分が落ち込みそうになったその時。どこから取り出したのか、突然グリコがデジタルカメラを俺に向けて構えた。
「あっ。憂い顔の朽木さんシャッターチャンス!」
こ、こいつっ。こんなものまでっ。
おちおち沈んでもいられない。
「勝手に撮るな!」
「安く払いますから!」
「ますます納得できるか!」
グリコに飛び掛らん勢いで手を伸ばしたが、あっさりかわされる。
再び俺とグリコの追いかけっこが始まった。
俺はカメラを取り上げようと躍起になり、グリコはキッチンから寝室からちょこまかと移動して逃げる。ガキ大将かこいつは。
「あははははは! やっぱグリコちゃんがいると朽木の崩れっぷりが面白いなぁ」
くそっ。今頃は拝島と二人でお茶して、もしかするといい雰囲気になってたかもしれないのに……。
洗面台の前でようやくグリコの腕を捕まえた。そのままリビングに引っ張って連れ戻す。
やはり、まずはこの女の始末からつけないといけないようだ。
「拝島、悪いけど、CDはまた今度でいいか? 本は適当にどれでも持っていって構わないから」
笑いながら俺とグリコのやり取りを傍観してた拝島に言うと、
「うん、本もCDもまた明日でいいよ。グリコちゃんとゆっくりお話しなよ」
拝島は快く承諾してくれ、荷物を持って立ち上がった。
「悪い。こいつには世間の常識ってものをよ〜く叩き込んでおくから」
叩き込むのは常識だけではないが。
「あ〜〜っ。まだ拝島さんと朽木さんのツーショットがっ」
「黙れ。ついでに息も止めろ。二度と喋るな」
グリコを頭からソファーのクッションに押し付け、玄関に拝島を見送りに行く。
軽く別れの挨拶を交わし、ため息をつきながら扉を閉める。まったくとんだ災難だ。リビングに戻るとそこにグリコの姿はなかった。
あのこそ泥女――――
苛立ちと怒りで頬がひきつる。頭痛のするこめかみを押さえ、本や作業机のある部屋に向かうと、案の定グリコが勝手に奥のデスクにあるPCを立ち上げて覗き込んでいた。
「やっぱりそれが目的か……」
完全に地の口調に戻って言うと、
「えへへへ。エロ画像があるかなーと思って」
悪びれもせずグリコが答える。
「そんなところに入れとくわけがないだろう」
何かの拍子に、拝島が見ないとも限らない。
PCにはデータを保存しないよう気を付けている。
「お前な……これ以上俺と拝島の仲を邪魔するのなら、俺にも考えがあるぞ」
言いながらそっと後ろ手にドアを閉め、ガチャリと鍵をかけた。
さぁて、どうしてくれようかこの女。
しつけの悪い猫は、たっぷり教育してやらねばなるまい。
「む。鬼畜モードのスイッチオン?」
ようやく危機的状況を理解したグリコが振り返って俺と対峙した。
「ああ、お仕置きタイムの始まりだとも」
「拝島さんにチクるって言っても…………ダメ、っぽいね」
その通りだ。
「お前の口を黙らせる方法などいくらでもある。例えば……そうだな。恥ずかしい写真を撮ってネットでばらまく、ってのがオーソドックスか? お前の好みだろう?」
扉を塞ぐ形で立ち、挑発的な薄い笑みを浮かべる。
獲物を捕らえるのに焦る必要はない。
じわじわと追い詰めていくのが俺の好みだ。
じっと舐めるように見つめると、初めて、グリコの顔に緊張の色が走った。
大きな黒い瞳も、よく回る口も、いつもの楽しげな表情を失っていく。
密室。
ここは7階。幅の広い出窓の外は足場になる物などない。
部屋は10畳の広さを誇るが、本棚や作業机でスペースを占められたこの部屋で人一人を捕まえるなど、唯一の出口である扉を塞いでしまえば造作もないことだ。
そして、その唯一の退路は俺によって塞がれている。
俺と密室で二人きりになるとどうなるか、全く予想してなかったのかこいつ。
そんな見通しの甘いことでは俺の相手にはならない。
俺は扉を背にしたまま、すっと足を前に進めた。
「さて、どうする? 逃げ場はないぞ」
言いながらゆっくりと、近付いていく。
「何がいいかな……手足を縛って裸に剥くか……写真もいいが、体に傷を付けるのも嫌いじゃないな」
白い首筋に目を落とす。
「……ああ、もちろん、気持ち良い方が好みなら、そうしてやってもいい」
ボタンをひとつ外し、シャツの襟元を緩めた。
手を伸ばせば届く距離まで詰め、一旦足を止める。
そのまま覗き込むように顔を近付け――
「俺を愉しませてくれるなら、な」
にやりと笑って言った。
相手の恐怖心を煽る仕草――俺の得意とするところだ。
グリコの目が見開かれた。
ごくりと喉を鳴らすように下し、一歩後退る。
俺はその様子に満足を覚え、小さく舌舐めずりをした。
俺が豹変するといつも相手は絶望の表情を浮かべる。その恐怖に歪む顔を見るのは楽しい。俺にとってそれはゲームの一種だった。
今頃は、俺を脅迫しようなどと思ったことを後悔してることだろう。だがもう遅い。
お前は、自ら地雷を踏んだ。
笑みを深め、またひとつボタンを外す。
女相手に本気でどうこうしようという気はない。
多少強めに脅しておくつもりだった。
「うっ…………」
が、ここでグリコの反応が少し予想と違うものであることに気付いた。顔色が青にではなく、赤に変わりだしたのだ。それもゆでだこ状に、病気かと思うくらい真っ赤になったかと思うと。
ぽたっ
……ぽた?
今見たものが信じられず、一瞬思考が停止する。
一呼吸おいて、床に目を落とすと。
赤。
フローリングの床の上に、溶けずに膜を張る、赤い斑点。
思考がゆっくり再開する中、続けざまに落ちてくる、またも赤い液体。
その出所は、グリコの……。
な。
なんだとぉぉぉっっ!?
「こっ、このっ! なんだそりゃお前っ、ひとんちの床を汚すなっ!」
途端、今までの雰囲気とは全く別の緊張感が生まれた。
「ら、らってくひきひゃん……めひゃくひゃよふぎる……」
「ティッシュ! テッィシュはどこだっ! あった、ほら拭けっ! なんつー量を垂らすんだお前はっ!」
俺はデスクの上にあったティッシュを掴み取り、ダラダラと床に血溜まりを作り始めたグリコの鼻に押し当てた。
「くひきひゃん、もっはいゆっふぇー」
「喋るのは出血がおさまってからにしろ!」
ティッシュはみるみる真っ赤に染まっていく。出血多量になりそうな勢いだ。
この部屋が絨毯を敷いてなくて助かった。染み抜きが大変になるところだった。
のぼせた顔のグリコを寝室に連れて行き、ベッドに寝かせた。女を寝室に引っ張りこむのは主義に反するがこの際やむを得ない。
グリコの出血が落ち着くのを待ってから、俺は情けなくも作業室の血溜まりを雑巾で拭いた。他人の鼻血の後始末をするなどある意味貴重な体験……なわけがない。
まったくとんだ疫病神だ。
水で絞ったタオルを持って、ようやく顔色が戻ったグリコの傍らに腰掛ける。
「ほら、これで頭を冷やせ」
「ありがとー朽木さん」
タオルを額に当ててグリコはにへらと笑った。
それから目をきらきらと輝かせながら深く息を吐き出して言ったのだ。
「ふはぁ〜いいもん見せてもらったわ。鎖骨萌えた〜〜」
「俺は最低なもん見せられて心底哀しいよ……」
なんだか泣きたい気分になった。
なんで脅迫してきた相手を介抱してやらなきゃいけないんだ。なんなんだこの女は。規格外にも程がある。
「さっきのビデオに撮りたかったな〜」
「お前相手にはもう二度とやらん。失血死されたら洒落にならん」
「んじゃ拝島さん相手にやるのを楽しみにしておく」
「ったく、お前という女は…………」
呆れてため息をついた。
だが、不思議ともう苛立ちは感じなかった。
結局、この女にあるのは下心ばかりで悪意はないのだ。本気で警戒するのも馬鹿らしい。
と。
ぐ〜きゅるる〜〜
「う……お腹すいた……」
きっちり文字通りの音をたてたグリコに苦笑させられ、俺はベッドの端から腰を上げた。
「仕方ないな。なんか作ってやるよ。パスタでいいか?」
妹の世話でも焼いてる気分だ。
「うん! アルデンテでよろしくお願いしますシェフ!」
顔を輝かせるグリコはすっかり元に戻っている。
「調子に乗るな」
拳で額を小突いてやり、キッチンに向かった。