Act. 7-10
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何を言ってるんだ? このじぃさんは。
手始めにそう思った。
そして次に思ったのは、どうやら説教くさいじじぃに捕まったようだと。一発殴ってとっととオサラバしようということだった。
『何言ってんだかわかんねぇんだよ!』
膝を立て、体勢をたてなおしながら突き出した拳。あっさりかわされ、その老人は驚くべき俊敏さで俺の腕を絡め取った。
『年寄りなめちゃいかんぞ。伊達に年はくってねぇ』
次の瞬間には俺は再び地面に転がされていた。
『元気のいい坊主だな。根性あるのは結構なこった』
自分は喧嘩慣れしてると思ってただけに、よぼよぼの老人にまるで歯が立たない事実はかなりの衝撃だった。
――なんとか一発殴ってやる――
俺は再度立ち上がり、拳を構えた。
老人を正面から睨みつける。
『おう、いい眼だ。さっきよりずっと生き生きしてるぞ坊主。クスリなんかやっちまうとその眼の光は消えちまう。もったいない話だと思わねぇか?』
『知るか! ヒトのことは放っとけよ!』
『年寄りってのはついついお節介焼いちまうものなんだよ。若いモンに説教たれるのは老後の楽しみだ。年寄りに花を持たせるくらいの気概は持てよ坊主』
『るせぇ! てめぇのせいで金だけ持ち逃げされたじゃねぇか! ちっ。今夜のホテル代だったのによっ』
クスリの売人の男は既に退散していた。渡した財布を置いていってくれてたなんてことは、もちろんない。
『家はねぇのか坊主』
『帰りたい家はな。檻付きの部屋なら俺専用のがあるぜ』
『そんでクスリか? 短絡的だな。クスリは家にも家族にもなんねぇぞ』
カッと頭に血が昇った。
『殺すぞじじぃっ! 知った風な説教すんじゃねぇっ!』
その後のことはよく憶えていない。
いつのまにか指一本も動かせない状態で仰向けになり、空の星を眺めていた。
傍らには俺を見下ろす老人が立っていた。木刀で肩を叩きながら哂っていた。
『エモノ使うなんざ反則だろ……』
『老人だぞ俺は。体力の差があんだから、こんくれぇのハンデは当たり前だ』
『てめぇ勝手な理屈だな……』
なんと言おうと俺は負けた。喧嘩の世界では反則も何もない。頭を使った者の勝ちだ。分かってはいたのだが悔しかった。
――何がそんなに悔しいのか?
なんとなく気付いていた。
全てを見透かされていたからだ。
『坊主。クスリにゃ二度と手を出すな』
老人は俺の横に腰を下ろしながら言った。
『あんなモンで自分を壊すなんざバカのすることだ。正気を保ってりゃいつかは分かるモンも分かんなくなっちまうぞ』
――うるせぇよ。
声にならなかった。
『お前はまだ生きることを諦めちゃいねぇ。まだ足掻ける筈だ』
足掻く? 何を? どうやって?
分からない。どう生きればいいのか分からない。
『泊まるとこねぇんなら俺んち来るか? ダンボールの家ってのも結構オツだぞ』
にかっと笑った口の中は、前歯が一本欠けていた。
「朽木さん。お茶のおかわりいる?」
グリコの問いかけでハッと意識を取り戻した。いつの間にか昔の記憶に浸ってぼんやりしていたらしい。
「あ……、いや、もういい」
今日はどうにも思考の制御が効きづらい。高熱と、初めて自分の過去を人に語ったのとで、思考のたがが外れたのだろうか。今までほとんど思い出すことのなかった様々な記憶が蘇える。
公園のホームレス――
数ヶ月しか付き合いのなかった名前も顔もよく憶えていない老人のことを、何故今になって思い出したのだろう。
色々と説教くさく、やたら元気だった老人。
運命論者だか知らないが独自の運命論を語って聞かせる癖があった。
当時の俺にとっては、理解不能な口煩いじぃさん。
だが口煩いばかりでなく、喧嘩に強いという面もあったので、うざいと思いながらもたまに喧嘩のコツを教えてもらいに行くようになった。それだけの付き合い。
今まですっかり忘れていた。
そういえば、グリコはどことなくあのじぃさんに似てる気がする。
強引でマイペースで行動の予測がつかなくて。自分に都合のよい理屈をこねて、むやみやたらと前向きで。
ああ――だからじぃさんのことを思い出したのかもしれない。グリコが傍にいるから。
そういえばさっき章に言った台詞も、昔、俺がじぃさんから聞いた言葉だった。
もう顔もぼやけて思い出せないが、確か、一枚だけ一緒に写った写真があった筈だ。じぃさんと同じホームレスで元カメラマンの男が撮ってくれたというか、勝手に撮られた写真。
あの写真は何処に行ってしまったんだろうか――――
「中学時代の朽木さんはワルだったんだねー。それで喧嘩に強いんだ?」
「ああ、毎日嫌というほど喧嘩してたからな。さらに体術を教えてくれる人がいて、少しずつ喧嘩慣れしていった。――まぁどれだけ強くなっても、本当に殴りたい奴は殴れなかったんだけどな」
いつも閉ざされた扉の向こうにいる男。俺の人生を掌握し、手駒のように扱うあの男を殴ることは叶わなかった。
ガードマンが常に傍にいた、というのも理由のひとつだ。しかし最も大きな理由は――
あの男を前にすると、自然と身が竦んで反抗心が押さえ込まれてしまうということだった。
朽木家で初めて会った時から刷り込まれた恐怖――それと、絶対服従を課せられた最初の一年間の教育。
神薙に逆らうことは許されない。
そう、全身に叩き込まれた。
洗脳に近いかもしれない。今でもあの男の前に立つと、体が萎縮しそうになる。
「あのまま裏の世界の住人になっていたら、今の俺はなかったな……。皮肉なもんだ。逃げても逃げても、神薙の部下に捕まって連れ戻された。中学三年の一年間の内、三分の一は神薙家での監禁生活を送ったよ」
今思うと、なんとも子供っぽい反抗だった。神薙の手からは逃れられないと分かっていても、逃げずにはいられなかった。
「もう逃げるのにも疲れて、自分の人生を諦めかけた。しかし中学の終わりにどんでん返しがあったんだ」
「どんでん返し?」
そう。どんでん返し――ああ、笑わずにはいられない。まさに青天の霹靂だった。
「素行不良を積み重ねたおかげで成績も出席率も最低の問題児となった俺は、めでたくも、中学を卒業すると同時に神薙をお払い箱とされたんだ」
笑いが込み上げてくる。
衝動的な笑い声を抑えようと肩を震わせる俺を、グリコが怪訝な顔で見つめている。
同情の眼差しはない。何を思っているのか分からない無表情。立ってるのに疲れたのか、机の下のスツールを引き出しながら言った。
「つまり神薙家から追い出されたわけ?」
「そうだ。こんな厄介者は神薙家の人間として相応しくない。正妻が裏でそう広めてくれた。あの時ほどあの正妻を好ましく思ったことはなかったな。神薙は周囲の説得を受け、俺との養子縁組の取り消しを承諾したんだ」
「そっか。それで高校は朽木に戻ったんだね」
俺は頷いてみせた。
目の前で閉じられて行く巨大な門扉。
もう二度と、この中に閉じ込められることはない。そう実感した時の、全身を駆け抜けたあの解放感。
さらば神薙!
沸き立つ心のままに動きだす足を、自由の世界に向けた。
そして俺は、晴れやかな気持ちで神薙の屋敷を後にしたのだ。