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Act. 6-5

<<<< 朽木side >>>>

 

 一瞬、震えが走った。

 

 嫌悪感――生理的に受け付けないものを見た時に抱く感情だ。

 

 客間の扉口に立つ人物は、まさに嫌悪の対象だった。

 

 白髪混じりの髪を後方に撫でつけ、厳つい表情を貼り付つかせた男。神薙グループの会長。この男が笑うところなど誰も想像できないだろう。

 

「お久しぶりですね、神薙さん」

 

 努めて平静に応える。動揺した姿など死んでも見せたくない。

 

「こんばんは、冬也さん」

 

 神薙の後ろからは、更に嫌悪感を増す女性が現れた。この人の来訪はかなり意外だったので僅かに目を剥く。

 

「こんばんは、蓮実さん。お久しぶりですね」

 

 黒々とした髪をアップにまとめた、派手な顔立ちの女性。母と同じく年齢を感じさせない若々しさだが、この人の場合は女の生き血でも吸ってるのではないかという毒々しい雰囲気がある。恐らく口元の黒子が妖しさに輪をかけてるのだろう。

 

 神薙蓮実かんなぎはすみは神薙海治の正妻だ。夫婦揃っての登場とは、これからパーティでも始まるのではないだろうか。

 

「近くのホテルに美味しいフランス料理の店がありましてね。そこを予約しておきました」

 

 父がいつもと変わらぬ穏やかな表情で二人を客間に招き入れる。

 

「私達もすぐ支度してきますので、ここでお待ちください」

 

 そう言って母と二人、客間を後にした。

 

 途端に静寂が落ちてくる。

 

 神薙夫妻は場慣れしているので所在無く落ち着かない様子など見せはしない。俺も間をもたせるために話題を提供する気など毛頭ない。

 

 終始無言のまま父と母が戻ってきた。

 

「では、行きましょうか」

 

 こういう時はなんのかんの言いつつもさすが経営者だと思う。

 

 凍りついた空気などものともせず、穏やかな笑みすら浮かべ、父は俺たちを案内した。

 

 門の外に待機していた黒のロールス・ロイス(神薙家の車)に神薙夫妻と父が乗り、俺は自分の車に母を乗せて出発した。

 

 

 * * * * * *

 

 料理の味はなかなかのものだった。

 

 一流のシェフが腕を振うフルコースは純粋に舌を愉しませてくれる。

 

 ここのところ学食や弁当屋の惣菜続きだったので、以前は食べ慣れて特に感想を抱くこともなかったこの手の料理が妙に新鮮に感じられた。

 

 静かなクラシック。落ち着いた、ゆとりある空間。窓の外は煌々とした街の灯りと流れる車のテールランプが鮮やかな夜景を作りあげている。

 

 ここはなかなか居心地が良い。

 

 例え、一部不愉快なものが視界に映ってるとしても。

 

 

「神薙さんのところはいかがですか? 景気が少しずつ回復してる兆しは見られますか?」

 

 会話の主導権を握っているのは父だった。それに応える神薙が時折俺に他愛無い質問を投げかけてきて、俺も障りのない程度に答えるという図式となっていた。

 

「自動車産業はまずまずだな。僅かながら上昇の傾向にある」

 

 神薙の言葉は短く、重い。不要な言葉は徹底的に排除されている。

 

「国産の車についてはどう思う? 冬也」

 

「それは市場の動向への見解ですか? 僕個人の好みへの質問ですか?」

 

「お前の好みへの質問だ」

 

「そうですね……。正直、最近の車は僕の好みに合うのはあまり……」

 

「国産の新車に興味は湧かんか」

 

「湧きませんね」

 

 別に神薙への反抗心などという子供っぽい理由で国産車を否定してるわけではない。

 

 純粋に好みの問題だ。

 

 会話を手短に打ち切る努力は鋭意行っているが。

 

 そんな表面上も水面下も凍りついた空気の中で料理は進み、グリーンピースのビシソワーズ――冷製スープが運ばれてきた。淡いグリーンから微かな冷気が漂う。その中に器と同じくひんやりとしたスプーンを差し入れた時、今度は神薙蓮実が俺に話をふってきた。

 

「冬也さんは一人暮らしされてるのよね? 家事やお料理の腕は大分あがったのではなくて?」

 

 ねっとりと絡みつくような喋り。女はすべからく嫌悪の対象だが、この女はその頂点に立っていた。

 

「そうですね。最初は知らないことばかりで戸惑いましたが、今では随分と慣れました」

 

「どういった物を作られるのかしら?」

 

「簡単な物ばかりですよ。和風なら肉じゃが、洋風ならピカタ、といった具合ですね」

 

 この時にはもう、この女がどういう展開に話を持って行こうとしてるのかおおよその見当はついていた。

 

「肉じゃが? ピカタ? あまり聞き慣れないものばかりねぇ……。ごめんなさい、物知らずで。それはどこの国のお料理なのかしら?」

 

 肉じゃがを知らないお前こそどこの国の人間だと言ってやりたいが、真面目に相手をするのも馬鹿らしい。

 

「さぁ……料理の本でも読んで勉強してください」

 

「そうね。明日メイドにでも訊いてみるわ。それにしても――冬也さんって、変わったお料理がお好きなのね。こういったお食事は口に合わないのではなくて?」

 

 くすり、と嘲りの笑みを口許に浮かべてワイングラスを傾ける。

 

 そのあからさまな敵意と独創性のない攻撃は滑稽すぎて逆に憐れにすら感じる。

 

「そうでもないですよ。何でも食べる主義ですし」

 

 俺は笑みを返しながら言った。

 

「庶民派、ということかしら。やはり食の好みにも生まれと育ちが表れるものね」

 

 徐々に言葉の棘が増していく。細めた目に底意地の悪い光が宿る。

 

 最早体裁を取り繕う気もなくなったらしい。この際どこまで調子に乗れるものなのか、このまま放置して見てみたい気もするが。

 

 

「蓮実」

 

 

 神薙からの、静かだが重い一声が会話を切った。

 

 途端、時が止まったかのように神薙蓮実の口は動きを止める。ビデオの一時停止画面さながらに全身を硬直させる。

 

 神薙の鋭い視線はその一言のみで言わんとすることを明確に告げていた。

 

 

 ――私の前で見苦しい真似はするな――

 

 

 絶対的な抑制力。

 

 神薙の持つ威圧感は、当然の如く妻をも屈服させていた。

 

 俺は何食わぬ顔で、再び食事の手を動かし始める。

 

 神薙蓮実は押し黙り、取り澄ました顔を繕うことに専念し始めた。

 

 奇妙な沈黙が流れる。

 

 しばしの間、カチャカチャと食器の立てる音のみが響いた。

 

 そうしてスープ皿があらかた空になる頃、父が次の話題を持ち出し、何事もなかったかのように空気は再び流れ出した。

 

 母の横顔にほっとした表情が浮かんだのは無理のないことだろう。

 

 

 それにしても――

 

 神薙夫妻は、一体どういうつもりで俺に会いに来たのか。

 

 まさか顔を見に来ただけということはあるまい。

 

 到底あり得ないことだがそういう親の情めいたものを感じて来たのだとして、神薙蓮実がついて来る理由が分からない。

 

 神薙蓮実は先ほどの会話からも察せられる通り、俺を心底嫌っているのだ。いや、憎んでると言ってもいい。

 

 神薙が俺に会いに行くのを警戒してついてきたと考えるのが自然だろう。

 

 これまでの会話に、その真意を図れる要素はなかった。

 

 そして分からないのはもうひとつ。父と母は、一体どういうつもりでこの会合をセッティングしたのか。

 

 特に母には、辛い時間となることは目に見えているのに――――

 

 

「冬也」

 

 そんなことを考えていた時、不意に名を呼ばれた。はっと意識を掴まれる。

 

 顔を上げると神薙と視線が合った。感情の見えない底知れぬ力を秘めた目。一瞬、身が竦みそうになる。

 

「はい」

 

「卒業後はどういった方向に進もうと考えてる」

 

 どういった方向――――?

 

 俺は答えるのを躊躇った。

 

 何故、今、その質問が神薙の口から出る?

 

 父から出るべき質問が、何故神薙の口から。

 

「薬学部ですから……薬剤師免許は取るつもりです。薬局か製薬会社にでも勤めることになるでしょうね」

 

「はっきりとは決めてないということか?」

 

「まだ卒業まで二年あります。その間、進むべき道を見極めるつもりですが」

 

 答えながら、徐々に呼吸が乱れてきてることに気付いた。

 

 息が苦しい――――なんだ?

 

 この、言い知れない不安は――――なんだ?

 

 父と母の顔に緊張の色が走ったような気がした。

 

 神薙蓮実の澄ました顔からはすっと表情が消える。

 

「あと二年も時間を無駄にする必要はない」

 

「……それは、どういう意味ですか」

 

 聞きたくはないのに自然と質問が口を出た。

 

 手足が冷たい。体中から血の気が引いている。

 

 まさか、という思いが重く肩にのしかかる。

 

 そして神薙からは、とうとう決定的な一言がもたらされた。

 

 

「神薙を継げ」

 

 

 な――――

 

 

 なぜ、今更。

 

 

「あなたっ! 何を言い出すのっ!」

 

 ヒステリックな神薙蓮実の声がどこか遠くに聞こえる。

 

「神薙を継ぐのは秋一よっ!」

 

「秋一には荷が重い」

 

「だからってこんな――秋一がこの人に劣るとでも言うのっ!?」

 

「その判断を下すのは私だ。お前が口出しすることではない」

 

 神薙のその言葉は暗に俺にも重圧をかけている。先刻から俺の意思をまるで無視して進められる口論からもその意図することは明らかだ。

 

 

 俺に選択権を与えるつもりはないということか――

 

 

 何故、また――抜け出せたと思ったのに。

 

 足元に、ぽっかりと穴が開いた気がした。

 

 深い底なし沼の上に、薄い氷一枚を隔て、立たされてるような錯覚を覚える。口の中がからからに乾いていた。

 

 

 俺は一生、神薙の呪縛から逃げ出せないのか――――?

 

 

 いつのまにか、周囲の景色も、じっとこちらを見据える神薙の姿も、黒い霧の中に消えていた。

 

 霧は徐々に色を濃くし、俺の周りを取り巻いていく。深い闇と化した霧が、俺を取り込もうと迫ってくる――――

 

 

 

 ブルルルルル

 

 

 突然、胸の中に震えが走った。

 

「!」

 

 瞬時に音と光が蘇る。神薙が怪訝な顔をこちらに向けていた。

 

 俺を現実に引き戻した震動は、スーツの胸ポケットから発されていた。

 

 一秒毎の規則正しい律動――メールの受信。

 

 ――グリコ?

 

 根拠もなくそう思った。

 

 続いて頭に浮かんだのは、目を閉じて空気を吸い込む拝島の顔だった。

 

 胸ポケットに拝島の温もりを感じる。

 

 小さな熱が体の奥に灯った。

 

 

 本当に、あいつめ――――タイミングだけは、妙にいい。

 

 

 自然と口元が綻ぶ。一度ゆっくりと瞼を閉じ、次に開いた時、真っ直ぐ神薙の目に視線をぶつけた。

 

「神薙を継ぐ気はありません」

 

 強く、はっきりと。

 

 この男の目を真正面に捉えてそんな言葉が出てくるのは初めてのことだった。

 

 神薙の目がすっと細められる。

 

「冬也。私に逆らう気か?」

 

「薬学しか学んでない僕より優秀な人材はいくらでもいます。今どき世襲にこだわる必要もないでしょう。むしろ無理のある世襲により内部の反感を買うのではないですか?」

 

 言いつつ、だがこの男なら内部の反感など捻りつぶせるだろうとは思った。その圧倒的な支配力で。

 

 乾いた喉にワインを注ぎ込んだ。

 

 二口ほど飲んだ後で、今日は車で来たことを思い出し、ワイングラスを置いて水に切り替える。

 

 仕方ない。三十分程血中アルコールを薄めることに専念するか。

 

「私に意見するようになるとは偉くなったものだな」

 

 空気は徐々に重みを増してきた。

 

 神薙の放つオーラには質量でもあるのだろうか。計測してみたいところだ。

 

 先程まで喚いていた神薙蓮実も、父も母も、その重みの中にあっては微動だにできず、黙って事の成り行きを見守っている。

 

「一介の平凡な薬学生を跡継ぎに据えることを傍目から見た一般論を述べたまでです」

 

「平凡――か。己の能力を低いものだと評するのか?」

 

「ええ。僕に神薙を背負って立つ能力はありません。昔は多少勉学に長けてましたが、今やすっかりただの人です。神薙を継ぐなどという重責を課せられるのは迷惑です」

 

 気を抜けば目を逸らしてしまいそうになる己を奮い立たせて言葉を返す。

 

 再び沈黙が訪れた。

 

 神薙が俺に無言の重圧をかけてくる。

 

 背筋に冷たいものが走るが、ここで退くわけにはいかない。

 

 一度は逃げおおせた身なのだ。もう二度と捕まる気はない。一生かけてでも逃げ切ってやる。

 

 

 俺も無言でその視線を受け止めた。

 

 

「ふむ……少しは言うようになったな」

 

 しばらくの睨み合いの末。神薙の表情から僅かに浮かんでいた険しさが取れ、いつもの厳めしいだけの表情に戻った。 

 

 だが視線の鋭さはそのままで、

 

「だがまだ青い。自分にとって何が益となるか、よく考えてみることだ。神薙に戻るまでもうしばらく時間をくれてやろう」

 

 続く神薙の言葉は決定を覆す気などないことを強く示していた。

 

 全身の肌が粟立つ。

 

 俺の足元には、未だ氷一枚を隔て、底なし沼が口を開けている。

 

 逃れられない運命なのかもしれない。

 

 だが――――

 

 

 知らず、携帯を握り締めていた。

 

 

 

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