Act. 6-3
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「――つっ!」
俺は瞬間的に走った痛みを堪え、フタの金網から慌てて逃げようとするマウスを掌で押さえつけた。
「朽木! 大丈夫!?」
心配した拝島が俺の傍に駆け寄ってくる。「ああ」と小さく頷いて、掴み上げたマウスをケージの中に放り込んだ。
すぐに手袋を外すと、指先に小さな咬み傷ができていた。かなり気の荒い奴に当たってしまったようだ。後できちんと消毒をしないといけない。
「ダメだな〜朽木。ちゃんと保定しねぇと」
隣の実習机から見ていた高地が俺に向かってけらけらと笑って言った。ムッと眉をしかめる。
マウスを使う実験でマウスに咬まれることなど、よくあることなのだ。気にする程のことではない。だが俺としては初めての経験だったので多少どころではなく驚いた。こんな小さな動物のどこにそんな力があるのか、与えられた痛みはかなり強烈なものだった。
ちなみに保定とは動物の体を押さえて固定することであり、マウスの場合は金網の上で尾を引っ張り、金網にしがみついたところを掴み上げるのが一般的だ。
まぁそんな蛇足はともかくとして、高地に言われると妙にむかつく。二年の時さんざん咬まれまくったこいつに言われたくはない。
そんな俺の呪詛が効いたのか、笑いながらケージに手を突っ込んだ高地の悲鳴が直後、教室じゅうに響き渡り、俺は溜飲を下げながら実験を続行したのだった。
実験を終え、妙な疲れに眩暈を感じた俺は、白衣を脱ぐのも面倒で荷物を整理すると即行実習室を後にした。
「朽木。もう帰るの?」
背後から拝島に呼び止められ、
「休憩室でコーヒーでも飲んでからな」
と答えると、「じゃ、俺も」と荷物を持ち直した拝島が横に並んだ。拝島はどこまでも優しい。俺に気を遣ってくれてるのが容易に分かる。
二人で廊下を進み、自動販売機のある休憩室に向かった。拝島も白衣を着たままだ。しかしこの階は実習室が並んでいるので、白衣で歩く人間は珍しくない。
自動販売機のコーヒーをブラックで指定し、コポコポと液体の流れる音をぼんやりと聞いた。実験に疲れた体はふとした拍子に意識を飛ばす。
「なんか疲れてるね、朽木」
拝島に声を掛けられるも返答が一拍遅れた。
「ん? ああ……そうだな。ここのところ忙しかったからな」
カップを取り出し、長椅子に向かう。ここの休憩室は部屋の中央に丸テーブルと椅子が数席置かれ、ベージュの革張の長椅子が壁際に並べられてあった。
俺は長椅子に座り、壁に背を預けて息をついた。
「確かにやることが多かったよね。調べ物の山だったし」
俺に続いてコーヒーを取り出した拝島が、俺の隣に腰掛ける。
本当は課題のことなど、大して気にも留めていない。実習中に、マウスに逃げられるほどぼんやりしてしまったのは、別のことが頭を占めていたからだ。
「そうだな……」
だが今は――近くに感じる拝島の体温がそのことを忘れさせてくれる。気持ちを安らかにしてくれる優しい空気――。ふっと心に熱が生まれた。
もっと、拝島の空気に包まれていたい。
「拝島。今度の日曜、ドライブにでも行かないか?」
ふと、欲が出て言ってみた。
今度の日曜は、朽木家に帰る日の翌日だ。
「いいよ。車は二台?」
「いや、拝島のミニでいい。交代で運転しながら行こう。山の空気でも吸いに行きたいかな」
「いいね。山道を走るのって、わくわくするよね」
なんの疑いもなく誘いに乗ってくる拝島の笑顔が眩しい。この笑顔が損なわれるのは見たくないという気持ちと、己の欲望がせめぎ合う。
思わず目を逸らし、コーヒーを口に含んだ。
不味い――買っておいてなんだが、市販のコーヒーは飲めたものじゃない。
「おっ。朽木と拝島じゃん」
聞き慣れた声に名を呼ばれて顔を上げた。
予想通り、ふざけた金髪が目に入る。
「やぁ高地」
拝島が明るい声で応答するので、俺も軽く手を上げて挨拶し返した。
高地はさっきまでの泣きっ面はどこへやら、元気よく「お疲れさんー」と言いながら近寄ってくる。
こいつも白衣姿だ。だがどことなくだらしない。ボタンの閉め方が適当すぎるし、袖を捲り上げている。
「なぁなぁ拝島。またグリコちゃん達誘ってどっか行けねぇかな?」
俺達の前で足を止めると、高地は近くの椅子を引き寄せて俺達に向かい合う形で座った。椅子に対して座り方が真逆だが。
「栗子ちゃんをだしに使うのはもう止めなよ。直接祥子ちゃんを誘えばいいじゃん」
「だって二人きりのお出かけは絶対承諾してくれねぇんだもん。それに、グリコちゃんの連絡先しか知らない。祥子ちゃん、教えてくれないの……」
くすん、といった感じにこうべを垂れる高地。まだ立倉のことを諦めてなかったのか。
「栗子ちゃんもそうそう暇じゃないと思うよ。今日からバイト始めるそうだし」
ん?
拝島の言葉にひっかかりを感じて、俺は眉をひそめた。
やけにグリコ情報に詳しくないか?
「今日、グリコに会ったのか?」
俺は奴の姿を見なかったんだが。いつ拝島はその話を聞いたのだろう。
「ううん。会ってないけど、携帯にメールで来たんだ。ここの近くのファーストフード店でバイト始めるから、是非食べに来て欲しいって」
メール? グリコの奴、勝手に拝島とメール交換してるのか?
あいつ、いつのまに……。
「おいおい、拝島ぁ。グリコちゃんと結構親密なお付き合いしてるじゃん。こないだも二人一緒だったし、あ〜やしぃ〜なぁ〜。なんならダブルデートにするか?」
「ちょっ! 違うよっ。あれは栗子ちゃんがもし見つかったら話がこじれるかと思って、心配だからついて行ったんだよっ!」
ぴくっ
口の端が引き攣るのを感じた。
「こないだ……って、何かあったのか?」
なるべく表情を和らげて訊く。
途端、びくん、と拝島の肩が跳ねた。
「う、うん、高地と祥子ちゃんのデートがあっただろ? 栗子ちゃんが橋渡しした……あれに、栗子ちゃんとついて行ったんだ」
ほう。
それは初耳だ。
拝島は何故かバツの悪そうな顔で俺の顔を窺い見る。
「高地が何かやらかさないかもちょっと心配だったしさ」
言い訳めいて聞こえるのは俺の気のせいだろうか。
まさか拝島は、まだ俺とグリコの仲を誤解してるのか?
「なんだなんだ? 三角関係かお前ら?」
高地は椅子の背もたれに顎を乗せて妙に楽しそうに言う。
「ちっ! 違うよっ! だいたい栗子ちゃんにはちゃんと彼氏いるんだからさっ!」
「え? マジ? 変わった趣味の奴って結構いるもんだなぁ〜」
「高地。『結構』の部分に、まさか俺は含まれてないよな?」
俺は席を立ち、高地の元に一歩踏み出すと、にこやかな笑みを貼り付けて訊いた。
両の拳で高地の頭を挟みながら。つい力が入ってしまうのは、俺的親愛の証ということにしておこう。
「す、すびばせん……。もちろん入っておりません……」
泣きの入った高地の頭から静かに手を離す。
「分かってくれればいいんだよ、高地」
「ううっ……時々朽木が別人に見える……。怖いよ祥子ちゃぁ〜ん」
「高地が余計なこと言うからだよ」
拝島も口を尖らせてじろっと高地を睨めつける。
俺は長椅子に戻り、残りの冷めたコーヒーを飲み干した。
飲みながら考えることはグリコへの報復だ。勝手に拝島に接近したことへの罰を、どうやって与えてやろうか。スマキにしてベランダから吊るすだけでは気が治まらない。
いや、グリコだけではない。高地も同罪だ。
こいつが立倉にいらぬちょっかいをかけなければ、拝島とグリコがメールのやり取りをする仲になどならなかったのだ。
二人まとめて東京湾にでも沈めてやろうか。
そんな俺の怒りを毛の先ほども感じ取れない高地。両のこめかみを手で擦りながら平和そうな顔でぼそぼそと洩らす。
「しっかしグリコちゃんに彼氏かぁ〜。意外っつーかなんつーか……」
それは嘘だと俺は知っているが口には出さずに空になった紙コップを握りつぶす。彼氏がいるという嘘は、グリコが俺との仲を周囲に誤解されないようにとの配慮から言い出したのだ。
「お前ら見たことあんの? その彼氏」
「いや、ないな」
「俺もないよ」
架空の恋人なのだから姿がある筈もない。
高地の小うるさい追及に内心眉をしかめながら答える。
「どんな奴か知りたくね? 知りたいよな?」
「別に」
「まぁちょっとは興味あるけど……」
急に目を輝かせて訊く高地を訝しんで素っ気無く答えたが、拝島の返事は高地を喜ばせたようだ。ぱっと顔を上げ、身を乗り出してくる高地。
「じゃあグリコちゃんの彼氏誘ってダブルデート作戦で……」
『結局それかいっ!』
俺と拝島の蹴りが、その顔面にダブルヒットした。