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Act. 1-2

 

「なぁ朽木」

 

 ふいに名を呼ばれ、振り向いた俺は、陽光に照らされた爽やかな笑顔を目に捉える。

 

「なんだ、拝島?」

 

 笑顔の主は俺が返事をすると、なんだか楽しげに笑みを深める。

 

 そんな顔を見る度に、胸の奥で何かがとくんと揺れ、俺は自然と触れたくなる指先を震わせる。そして衝動を押しとどめるため、己に言い聞かせるのだ。

 

 まだ、早い。

 

 急いては事を仕損じる。

 触れるのはぎりぎりまで待つんだ。

 

 そんな時の俺の目は、獲物を狙う鷹のように鋭くなってることだろう。

 

 だが、すかさず笑顔の仮面を被り、それを巧妙に隠す。長年培ってきた技だ。

 

 俺は口角を操作し、笑みの形を作って拝島の次の言葉を待つ。

 

「さっきから、感じるだろ?」

 

 ああ、俺はいつも感じてる。お前に対して。

 もっと言うならお前の体に対して、己の中心に渦巻く欲望が頭をもたげるのを感じる。

 

 だが、拝島がそんなことを言ってるのではないことは、よ〜〜〜〜〜く解かっている。

 

 何故なら俺も感じてるからだ。

 

 

 熱い視線。

 

 

 というよりは。

 

 ねっとりと背中に絡みつくような、禍々しい視線。

 

 そんな視線を、駅を出て少し進んだあたりから、ずっと感じていたのだ。

 

 

 電車を降りた人の流れの多くは商店街に向かった。しかし、俺と拝島の目的地は、繁華街の中にはない。

 

 駅前デパートの後ろを回る道を行き、大きな道路沿いの、雑居ビルが立ち並ぶ方面へと足を運んだ。

 

 そして駅前の賑やかさが遠ざかり、辺りがオフィス街の様相を呈してきたところで、拝島が今のように言ったのだ。

 

 人の視線に鈍感な拝島が気付く程とは相当だ。

 確かに、その怪しい気配は露骨過ぎて、気付かない方がおかしいと言えよう。

 

 

「ああ……だが振り返るな拝島。目を合わさない方がいい」

 

 俺はその視線の主を、すでに認識している。

 ショーウィンドウに映った人影を盗み見て、どいつだか一発で分かった。

 

「なんだよ、照れてるのか朽木。アレ、お前のこと見てるんだろ?」

 

「どういう目で見てるのかは分からないけど、多分俺だな」

 

「どういう目って……そんなの分かりきったことじゃないか。結構可愛い女の子だよ。お前に話しかけるチャンスを窺ってるんだよ」

 

 拝島は妙に嬉しそうに言った。

 

 コイツの性格の良さからすると、そういう科白が出るのも仕方のないことだが。

 

 もう少し、現実を正しく見つめた方がいい。

 

 あれは恋する女の目じゃない。

 

「そこでお茶でもするか?」

 

 俺は道の先に見えて来たドトールを指差して言った。

 

 本当は今すぐあの女を振り切って逃げたいところだが、拝島の手前、そんなことはできない。

 

 むしろ積極的に話しかけるチャンスを与え、面と向かって用件を聞き出し、早々に追っ払った方がいいだろう。

 

 そう俺は判断したわけだが。

 

「極度の恥ずかしがりやなんだよ、きっと。こっちから話しかけてあげようよ」

 

 一人でテンション上げてる拝島は、言うなり突然踵を返し、くだんの女の方に向かって走り出してしまったのだ。

 

 

 なんて危機感のない男だ!

 

 

 まぁそこがアイツのいいところなんだが、この場合はかなり不味い。ヘタしたら拝島が取って食われかねない。

 

 あの女の目は、飢えた獣のそれなのだ。

 

 俺は慌てて後を追いかけた。

 

「待て拝島! ヤツに関わるな!」

 

 焦ってつい本音が出てしまう。

 

 しかし、追いついた時は既に時遅しだった。

 

「ねぇねぇ、キミ、俺達に何か用なのかな?」

 

 それでも隠れてるつもりなのか、街路樹から半分以上身をはみださせた女に、拝島は優しく声を掛けた。

 

 女はあからさまにびくっと身を震わせ、一旦、樹の後ろに顔を引っ込めた。

 

「あははは、恥ずかしがらなくてもいいよ、取って食いやしないから」

  

 いや拝島、逆だ。捕食者なのはその女の方だ。

 

 女はおずおずという風に、樹から顔を覗かせてこっちを窺い見る。

 

 それからぽそりと言った。

 

「ばれてしまったようですね……」

 

 大バレに決まっている。どっからどう見ても不審人物だ。

 

 女は観念したようで、樹から全身を現した。

 

 所々にフリルがあしらってあるノースリーブのワンピースにローヒールの茶色のサンダル。若い女によくある服装。全体的に小柄なイメージではあるが、特に外見からおかしなところは見当たらない。

 

 髪は長めのストレートで今どき珍しい黒髪。顔立ちは悪くない……とは思うのだが、正直女の顔はよく分からない。俺にはどんな女も同じに見える。言えることはやや童顔、ってことくらいだ。

 

 女は上気した頬で、熱っぽい視線を送ってくる。

 

「すみません……実は駅からつけてたのです」

 

 そんなことは知っている。

 なんでバレてないと思えるんだ。

 

「勝手に観賞してたことは謝ります。ですがどうか私のことはお気になさらず、……を続けてください。私のことは空気と思ってもらって結構です」

 

 こんな濃密な空気が傍にあって落ち着けるか。

 

 ………………いや待て。今、なんと言った?

 

「え? なに? よく聞き取れなかったんだけど」

  

 拝島は女の声が小さかったのでなんと言ったのかよく聞こえなかったようだ。

 

 俺にも聞こえはしなかったのだが、女のもじもじした様子から言わんとすることを直感した。途端、戦慄が走り抜ける。

 

「えと、ですから、お気になさずデー……」

「キミ! ちょっといいかな!」

 

 俺は殊更に大きな声で女の言葉を遮った。

 

 頭の中でアラームがわんわんと鳴り響く。

 

 それから女の手を強引に引っ張り、ぽかんとした顔の拝島を残して離れた場所に連れ去ったのだった。

 

 なんてこった! こんな危険人物を野放しにしてるなぞ、日本の警察は何をやってるんだ!

 

 雑居ビルの中に入り、入り口奥のエレベーターの前まで女を引っ張り、そこで足を止めて振り返る。

 

「君、今、何を言おうとしたの?」

 

 いつもの、爽やかに見える予定の笑顔を浮かべて言うと、

 

「デート」

 

 女は少しの躊躇いもなく答えた。恥ずかしげに俯き、両手を頬に添えて言ってのけたのだ。

 

「そういう性質の悪い冗談は受け付けないんだよ、僕達は。悪いけど、用がないなら僕達の後をつけないでくれるかな」

 

 俺は多少どころでなくイラッとしたが、殴り飛ばしたい衝動を抑えつつ柔らかい物言いを崩さなかった。

 

「冗談のつもりはないんですけど……。だから私のことは気にせず、デートを続けてくださいな。私は勝手に観賞してますので」

 

「あのね、思いっきり気になるから言ってるんだよ。僕はまだいいけど、僕の友人までそんな目で見られるのは我慢ならない。あいつにその手の冗談を言われるのもだ」

 

 その途端、女が不気味に笑った。

 

「うふふふ……まだモノにしてないんですね」

 

 

 ぞわっっ

 

 

 な、今、この女、なんて…………。

 

 俺は言い知れない不安に襲われた。

 

「何を言ってるんだ、君は」

 

 平静を装いつつ素っ気無く突っ跳ねたが、女の目に帯びた怪しい光は消えなかった。

 

「あの人、ノンケですよね」

 

 ぞわぞわぞわっ

 

 なんなんだこの女は。

 

 なんでそんな目で俺を見るんだ。

 

 まるで何もかも見透かしてるかのように、俺の目の奥、普段隠してる俺の素顔を直接見つめてくる。

 

「ノンケって、なんのことかな?」

 

「とぼけたって無駄ですよ。あなた……ゲイですよね。彼を狙ってるんでしょ?」

 

 

 こいつ、いきなり核心を突いてきた。

 

 

 俺が言葉を失ってると、女はますます調子づいて言った。

 

「あらら、爽やか笑顔の仮面が取れてますよ。そんな顔見せちゃっていいんですか? 彼に万が一見られたら不味いでしょ?」

 

「アンタ…………何が目的だ」

 

 最早この女には、どう取り繕っても無駄だと俺は悟った。声を低く落として仮面も捨て去る。

 

 こうなった俺ははっきり言って無慈悲だ。

 

 返答次第ではこの女を社会的に抹殺するのも辞さない。あらゆる手段を使って。

 

「そんなに怖い顔しないでください。私はしがないイケメンウオッチャーです」

 

「イケメンウオッチャー? なんだそれは」

 

「やですね。イケメンウオッチャーと言ったら、イケメンを観察する人のことに決まってるでしょ? 私はイケメンが大好物なんです。特にイケメンが二人並んで歩いてるのを見ると、涎が垂れそうなくらい歓喜します」

 

「それはご大層な趣味だな……。要するに変態女だな」

 

 途端、信じられないことが起こった。

 

 女があろうことが、手にしたバッグを俺の頭に叩き落したのだ。

 

「イエローカードです! いえむしろレッドカードに値します! そんな下劣な言葉、二度と使ってはいけません!」

 

「っっつぅ――――――いきなり何するんだ貴様っ!」

 

 俺は頭を擦りながら怒鳴り返した。

 だが女は怯むどころか、逆にヒートアップして声のボリュームを上げて言ったのだ。

 

「私を変態と呼ぶなら、貴方も変態と呼ばれる覚悟があるんですよね!? この変態! ホモ男! 鬼畜攻め!!」

 

「ちょっと待て! 今さらりととんでもないことを口にしたか!?」

 

「しましたよ! ごまかしても無駄です! 貴方からは鬼畜の匂いがプンプンとします! 拉致監禁強姦とか平気で企む匂いです!」

 

「なっ。なんつーことを大声でっ!」

 

 俺はこの女が思った以上に取り扱い要注意な危険人物であることに気付いた。

 慌てて女の口を手で塞ぐ。

 

「むぐ、むがーっ! むぅ――っ!!」

 

 ここが日本でなければ今すぐ絞め殺したかもしれない。それほどこの女はやばかった。

 

「頼むから静かにしてくれ。大声を出さなければ離してやるからっ」

 

 俺が声を潜めて言うと、女も納得したらしく、じたばたもがくのを止める。

 

 俺はほうっと息をつき、ゆっくりと女から手を離した。

 

「……悪かった。もう変態女とは言わない」

 

 ここは素直に謝った方が賢明だろうと思われた。

 

「分かればいいのです。その言葉は禁句です。よーく肝に銘じてください」

 

 なんでそんなことを命じられなければならないのか理不尽な怒りが込み上げてくるが、またヘタに刺激すると不味いのでとりあえず頷いておく。

 

「代わりと言ってはなんですが、私のような者を世間一般では腐った女子と書いて『腐女子』と呼びます。BL――ボーイズラブをこよなく愛する女性のことです」

 

 そんな薀蓄うんちくは知りたくもないのだが。

 

「なんとなく聞いたことのあるフレーズだな」

 

 俺は記憶力がいいので一度見聞きしたものは大抵忘れない。『腐女子』――確かにどこかで聞いた言葉だ。

 雑誌か何かで見かけたことがあるのかもしれない。

 

「最近流行ってますからね」

 

 そんなものが流行してるとは、大丈夫なのかこの国は。

 

「まぁアンタの呼び名は正直どうでもいい。尾行するのを止めてもらうにはどうしたらいいんだ?」

 

 俺は出来得る限り下手に出た。

 この際プライド云々は脇に置いておく。この腐女子を一刻も早く追い返すことが先決だ。

 

「そんな……尾行を止めるだなんて。私に死ねと言うんですか!?」

 

 女は大袈裟によろめいて言った。

 

「それが死に値すると言うなら、むしろ力ずくででも止めさせたいところだが」

 

 はっきり言って死んで欲しい。

 俺の平穏と日本のためにも死んでくれると大いに助かる。

 

「ひどい……ただちょっと視覚的に楽しませてもらってるだけなのに。無害な腐女子のささやかな楽しみを奪おうだなんて」

 

 思いっきり有害だ。

 

「こうなったらあの彼に全てバラして修羅場観賞としゃれこんでやりますうぅぅっっ!」

 

「待て待て待て待てっ!」

 

 目に物騒な光を宿らせ、走って外に出て行こうとする女の腕を、俺は慌てて掴んで止めた。

 

「離してください攻めノ介!」

 

「誰が攻めノ介だ! どこまで危険人物なんだこの女っ!」

 

 ビルの無機質なコンクリートの壁に、女の腕を縫いとめる。

 

 第三者が見たら誤解されかねない体勢だ。拝島に万が一見られたら……ぞっとする。

 

 大学に入学した当初から目を付けてたのだ。同じ科なので、失敗すれば俺の大学生活に支障をきたす恐れがある。なので慎重に慎重を重ね、ゆっくり友人としての地位を得、信頼を獲得してきたのだ。

 

 それを、これまでの苦労を、水の泡にされては堪らない。

 

「あいつに余計なことを一言でも吹き込んでみろ。アンタの人生、ボロボロにしてやるぞ」

 

「それはむしろ望むところです!」

 

「望むのか!」

 

「どうしても尾行が駄目だと言うのなら、止める代わりに交換条件があります」

 

 女は壁に押し付けられ、見知らぬ男に腕を取られてるという状況なのに、強気の姿勢を崩さない。体勢的に不利なはずなのに、何故そこまで優位に立てるのか。そして信じ難いことだが、どうやら俺はこの女の迫力に気圧されているようなのだ。

 

「……交換条件?」

 

「はい、貴方にあるモノを要求します。それをくださるなら、ここは大人しく退きますし、貴方の恋愛成就に協力もします」

 

 女の挑戦的な目が俺を真っ直ぐに見つめてくる。

 

「協力の方は全くいらないが…………あるモノとは何だ?」

 

 俺は訝しげに眉をひそめて訊いた。

 

「貴方と彼の本番ビデオです」

 

 

 …………………………………………。

 

 

「は?」

 

 俺はたっぷり数秒間固まった。

 

「は? じゃありません! 貴方と彼のエッチシーンをビデオに収めて渡してくださいって言ってるんです! あ、ちなみに初モノでお願いしますよ?」

 

 なんだこの女は。

 

 いやむしろなんだこのイキモノは。

 

 俺は、得体の知れない地球外生命体と遭遇したような気分に襲われた。

 

 背中を嫌な汗が流れる。

 

 これまでの人生、ここまで俺を狼狽え(うろたえ)させた者はいなかった。

 

 恐怖すら感じているかもしれない。

 

 この眼前のナマモノに。

 

「お、俺と拝島の……なに言って……普通、女がそういうことを堂々と口にするか?」

 

「私はすでに普通の女ではありません。……腐道に堕ちてしまった女なのです」

 

 ふっと哀愁を漂わせる女に、俺は翻弄されるばかりだった。

 

 言葉を失う俺に畳み掛けるように、女は続けた。

 

「貴方なら写真やビデオを撮ることに抵抗はない筈です。どうせ他の男性との行為や卑猥な写真を撮ったりしてるでしょう? そのおこぼれを、ちょっといただいてもいいじゃないですか」

 

 何故知ってる。なんでそんなことが分かるんだ。

 

「いかがでしょう? 攻めノ介さん」

 

「だから誰が攻めノ介だ!」

 

「じゃあなんてお呼びすればいいんですか?」

 

「俺には朽木冬也くちきとうやという名前がある!」

 

 言ってから「しまった」と思った。

 

「うふふふ……朽木冬也さんですか」

 

 乗せられて、つい本名をばらしてしまった。

 なんという失態だ。

 

「凄いです! 名前までピッタシかんかんです! まさに理想の攻めせめお! 栗子感激ですーっ!」

 

 もう言ってる言葉が理解不能で頭が痛くなってきた。誰でもいい。誰かこいつを殺してくれ。

 

「じゃあ交渉成立ってことで、私も自己紹介しますね♪」

 

「いつ成立したんだ!?」

 

「細かいことは気にしない。どうせ選択権は貴方にはありません! 逃げようとしても無駄です。腐女子の執念を舐めないでくださいね」

 

 女はにっこりと悪魔のような笑みを浮かべて言った。ぞくりと背筋に冷たいものが走る。

 

「というわけで、まずはこの腕を離してください。離さないと大声を出しますよ」

 

 途端、俺は反射的に女から手を離した。もうこれ以上のトラブルはごめんだ。

 

「分かった……俺と拝島の本番ビデオをやれば大人しく帰ってくれるんだな?」

 

 観念して俺は苦々しげに言った。

 とりあえずこの場は口約束してでも収め、女を追い返すのが最優先だ。この女の始末は後でどうとでもなる。

 

 女は俺の質問には答えず、腹が立つ程にこやかな笑顔を返してきた。そして握手を求める手を差し出し、がらりと変わった口調で、

 

「あたしの名前は桑名栗子。みんなにはグリコって呼ばれてる。これからよろしくね、朽木さん♪」

 

 そう言ったのだった。

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