Act. 18-4
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「実はね。なんとなく、お前がそう言うんじゃないかと思っていた」
母が置いたティーカップを手に取り、父は言った。
「覚えてるかい? 中学卒業後、うちにいた短い期間に、一度だけお前が自分から話しかけてくれたことがあった」
「……ええ」
「その時のことを、私もついこの間まで忘れてしまっていたんだが、ようやく思い出したよ。確か、テレビでがん患者の体験談を特集していた時だった。副作用の強い抗がん剤の投与で、患者は疲弊しきっていた。それを見てお前が突然」
『薬に頼ったって無駄なのに』
「強い薬は毒にもなる。効いたところでほんの少し寿命が延びるだけなのに。あんなに辛い思いをしてまで飲んだって意味がない。そう悲しそうに呟いた。私は『そんなことはない』と言って、お前に一冊の本を手渡したんだ。確か、がん治療の実際と患者の克服体験を記した本だった」
「俺が床に叩きつけたやつですね」
クリスマス・イヴに中学時代と同じことをしてしまったのを思い出し、俺は苦笑した。
「そうだね。私が『効果的に使えば治るがんもある、わずかな延命を喜ぶ患者もいる、要は使い方と患者の気持ちだ』といったら、お前は急に怒り出し、本を捨てて部屋にこもってしまった」
『そんなの今更知ったって意味ないんだ!』
じいさんはもう帰ってこないから。あの時も、俺の心はそう叫んでいた。
「今思えば、あれが冬也の夢につながるものだったんだろうね。病院に行って、患者と直に触れ合いたいかい?」
父の言葉に、俺は頷いた。
「はい、できれば。入るのは難しいですが、薬剤師も組み込まれるチーム医療の一員となれば、薬剤師として患者の助けになることができます。まだ浸透は浅いですが、ゆっくりとその考えは広まってますし」
様々な専門家が寄り集まり、患者の治療にあたるチーム医療はがんなどに有効とされ、近年、推進運動が活発になっている。
「本当にゆっくりとだけどね。一部のがんセンターでは個人にあわせた効果的な治療を施すために、専門の薬剤師を育成し始めたという話もある。だが、まだ薬剤師の地位は低い」
「これからでしょうね。だけど薬は、人々にとって最も身近な医療です。患者や世間が意識していなくても、薬剤師という存在は必要とされている」
「ああ、必要とされている。だから私たちは頑張っているんだ」
無駄な努力なんてない。少しでも多くの人を助けるために、誰しもが頑張っている。
俺もその一人になるのだと、決意を固めてからまだ日は浅いが、進みたい方向は既に決まっている。
俺は手にしたコーヒーカップに視線を落とした。
淡い日の光を受け、薄く輝く液面にシャンデリアが映ると共に調子のいい笑顔が一瞬よぎる。
「……俺は馬鹿でした。ついこの間まで、自分がやりたいことをわかっていませんでした。夢を忘れ、ただなんとなく毎日を過ごしていると思い込んで……。でも、それを思い出させてくれた奴がいるんです。そいつのおかげで目が覚めました」
「それは、優しげな瞳の青年と髪の長い元気な女の子、どちらのことかな?」
なっ。
突然の指摘に仰天して父を見る。
「なんでそれをっ」
叫んだ拍子にコーヒーがこぼれそうになり、慌ててカップをソーサーに戻した。
「はは、ここに来たんだよ。お前のことを心配してね。お前の部屋にあがってもらったら、お前を勇気づけるものがあるはずだと、二人で懸命に部屋を捜索してね。とうとう例の本を見つけだした」
「あいつら、そんなことを……」
そういえば拝島と花火に行った日、拝島は直前までグリコと一緒にいたようなことを言っていた。
もしかすると、あの日ここに来ていたんだろうか。
と、突然、母がくすくすと笑いだした。
「とても勇ましいお嬢さんね、栗子さん。あなたにあんな後輩さんがいたなんて」
「あっ、あいつ何かしましたか!? 変なこと言ったり、暴れだしたりとか」
「いいえ、あなたのことをとっても思ってくれているのが伝わってきたわ」
俺のことを? グリコが?
「元気で可愛らしいし、あなたにぴったりのお嬢さんね」
「――っ! 違いますっ。俺とあいつとは何でもありません。誤解しないでくださいっ」
なんでそんな話になってるんだ!
あまりに不意打ちの大誤解に、歪んでしまう表情をどうしようもなく、全力で否定する。
すると一瞬目を丸くした母が、嬉しそうに顔を輝かせた。
「あら。あら。あら。冬也がこんなに取り乱すなんて。すごいわ栗子さん。やっぱりお嫁にきてくれないかしら」
「やめてくださいっ。あんな奇人変人とくっつくくらいなら猿とくっついた方がマシですからっ」
「もう一度遊びにきて欲しいわ。ねぇ冬也、今度は栗子さんを誘って帰ってきなさいな。私、もっと栗子さんとお話したり、一緒にショッピングしたりしたいわ」
俺の言うことなどまったく聞く耳持たずはしゃぐ母に愕然とした。
母は楚々として落ち着いた人だと思っていたのに。こんな一面もあったのか。
「このクッキーも、とても喜んでくれたのよ。またあなたが帰る前に作るから、栗子さんに渡しておいてくれないかしら。それともマドレーヌの方がいいかしら? 栗子さんの好みをきいておいてね、冬也」
冗談じゃない。何故こうもことごとく周囲は俺とグリコをくっつけたがるんだ。何の罠にはまっていくんだ、俺は。
勘弁してくれ。あんな変態、好きになるわけないだろう。
母の声から耳を塞ぎたくなったその時、胸の携帯から着信音が鳴った。小さな画面に浮かぶ文字は。
『グリコ』
「失礼。ちょっと席を外します」
俺はにこやかな笑顔でその息苦しい場から離れた。悠々とリビングの扉を閉め、次の瞬間、猛ダッシュで二階の自分の部屋に駆けこむ。
「グリコぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!!」
『え!? なに!?』
「俺の家に来てっ! 母に余計なことを言っただろっ! 何を言った!? なんであんなにお前のことを気に入ってんだっ!!」
『ああ、朽木さんのお母さんね。みょーにロックオンされちゃったよ。ちょっと啖呵を切っただけなのに』
「いつものハッタリか!? 変なことは言ってないだろうな!? 俺の嗜好とか!」
『それを疑われてるからあたしがロックオンされてんでしょ。言うわけないじゃん、あたしの身が危ないし。それよりちゃんと誤解といといてよ? 彼女扱いは勘弁ですたい』
「それはこっちの台詞だ! もう二度と俺んちには来るな! 母のはしゃぎようが尋常じゃない!」
『はいはい。どうせもう用事はないから。ってそんなことよりさ、朽木さん、いつこっちに帰ってくんの?』
「そっちに? 三が日が終わる頃には帰るつもりでいるがなんの……」
『じゃあ四日くらいにはいけるね? 一緒に初詣いこうよ!』
初詣? グリコと?
「……お前と二人でか?」
クリスマス・イヴのことを思い出す。あの日は結局、終日忙しかったため、ゆっくりと過ごす時間がなかった。グリコも話をできる状態じゃなかったし。
俺の家に来てまで記憶を取り戻そうとしてくれたグリコに(少々どころでなく迷惑だが)、何か礼をするチャンスかもしれない。
二人で初詣に行った後に食事でも奢る。そのくらいはしてもいいだろう。
『なんでさ。みんなと一緒に決まってんじゃん』
なんでさ、ってなんだ。俺と二人きりで初詣に行くのはおかしいのか?
ムッとしたあまり筐体が軋みをあげる。こいつの気持ちはまったく読めない。
『高地さんが祥子と初詣に行きたいからいつものようにダシになってくれって。まったく、しょーがない二人だよね~』
しょうがないのはお前だ。まぎらわしい言い方をするな。
『もちろん真昼と拝島さんも誘ってあるから。今年こそ拝島さんとの仲が進展するように願掛けしなよ』
拝島。そういえば拝島はどうなんだ。まだ俺に会えないんじゃなかったのか?
「……拝島は俺を誘うことについて何も言わなかったのか?」
『いんや別に? 朽木さんも誘うって言ったらむしろ喜んでたよ?』
どういうことだ。何が拝島の心境を変えたのか。結局、グリコに告白するとの宣言はただの挑発だったのだろうか。
俺は拝島と顔を合わせた時、何を言えばいい?
――グリコには一応謝って和解した。
――あと、二人で見つけてくれた本は受け取った。ありがとう。
――だから告白するのはやめてくれ。俺はお前が好きなんだ。
拝島が。好きなんだ。
もし、まだ拝島の気持ちがあの時から変わっていないのなら、告白をやめさせるには打ち明けなければいけない。俺の気持ちを。
ずっと拝島を好きだったことを――――そうだ。俺が好きなのは拝島だ。周囲がなんと言おうと、グリコを好きになるはずがない。
それに、グリコは拝島の好きな女だ。手を出すことはできない。
もし俺がグリコを好きだと言えば、遠慮深い拝島は完全に身をひいてしまうだろう。
俺が拝島を。失恋させることになる。
あの優しい拝島から。たったひとつの想いを奪うことに――――
……そうだ。拝島を悲しませることになるのに。
好きになるはずがない。
こんな変態女をそこまでして欲しいなどと思うわけが。
押し黙る俺に、グリコは初詣の計画を嬉々として語る。どこに行こうか。お茶もしたいよね。
段々ムカついてきた。なんでこいつ一人のんきなんだ。
「もういいだろ。細かい話は高地とでも決めてくれ。切るぞ」
『えーっ。ナニそのやる気のなさ! せっかく拝島さんと話し合うチャンスをあげてんのに!』
ぶうたれるグリコに、少し考えを改める。チャンスか……。どうせ私利私欲のためだろうが、これは、こいつなりの気遣いなのだ。段々わかってきた。
相変わらず余計なお世話だが、確かに、チャンスは多いほどいい。
「……まぁ。感謝はしている。そのうちなんらかの形で返すから待ってろ」
『じゃあ一緒にコミケ』
「それは断る」
死んでもごめんだ。腐女子の巣窟に足を踏み入れるのは。
『ケチー。あーあ。朽木さんがこっちにいれば、初日の出イベントにつきあってもらったのにな~』
「初日の出イベント? また実行委員会が何かやるのか?」
『うんにゃ。日の出前から山に登って、初日の出と共に”今年も撮ったるどー!”って叫ぶのは日本の常識でしょ?』
どこのどんな常識だ。
『朽木さんに車出してもらえたら行けたのに。市兄ちゃんも桃太も朝はめっぽう弱くてさ~』
「実家に帰ってて良かったといま心から思ったぞ」
危なかった。危うく明け方の山道を走らされるところだった。
『朽木さんとなら日の出待つ間も退屈しなさそうだったんだけど。まぁ、また次の年によろしくね』
だからなんでこいつはそういう台詞をさらりと言うんだ。
こっちが恥ずかしくなるだろ。俺と一緒にいたいって言ってるようなものじゃないか。
大体、初日の出を見るなんてのは恋人同士のイベントだ。男と二人で行って、ムードに流された男が迫ってくる可能性は考えないのか、こいつ。
いやもちろん、そんなことはあり得ないんだが。俺とグリコがそういう雰囲気になることも。
だけど。もし――――
『ほんじゃ、よいお年を~』
まいった。やっぱり俺は周囲に毒されてきている。
こんな反応をグリコ相手に示してしまうのはそのせいだ。断じてそうなりたいと思ったわけでは。
違う。絶対に。この気持ちは錯覚だ。
力なく崩れ落ち、想像しただけで熱くなってしまった頬を手のひらで覆い、俺は戒めるように奥歯を噛み鳴らした。
通話の切れた携帯を下げ、もたれかかったベッドの冷たさでなんとか頭を冷やそうと試みる。
この止まらない胸の鼓動は気のせいであってくれと祈りながら――――