Act. 18-3
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一年という時間の重みは、家具の裏に積もった埃で感じるものだ。
しみじみとそう思うのは毎年のことだが、今年は特に感慨深い。
キャビネットの裏を雑巾で拭きながら、俺は妙に達観した気持ちになった。と同時にそんなことを考える自分の庶民くささに苦笑した。
俺は裕福な家庭に生まれ、『坊ちゃん』と呼ばれながら育ったが、母は身の回りのことを他人にしてもらうのは良しとしなかった。
家政婦はサエさん一人。自分のことは自分でやる。自分の部屋の掃除も自分でやること。
そんな風に物心ついた時から、自分の部屋の掃除は自分でやらされていた。
だから管理人の俺が長年不在だったこの部屋は、俺が出て行った小学六年の時から放っておかれているかと思いきや、家具の裏の埃ですらたまった量は一年分だ。
毎年、父と母とサエさんの三人で、ここの大掃除もやってくれていた。母から聞いてそう知った時は、妙に気恥ずかしい気持ちになったものだ。
父も母も、いつか俺がここに帰ってくると信じていた。
だからこの部屋の時間は止まっている。
取り出したキャビネットの中の古い服をたたみ、収納BOXに詰める。代わりに持ってきた新しい服をしまった。
年末、実家に戻った俺は、大掃除を手伝うと共に、来年度の準備をすることにした。
薬学生は五年次、一年の半分近くを実務実習に費やすことになる。
病院・薬局に通い、実際の実務を経験させてもらう、重要な年なのだ。
その際、実習させてもらう病院・薬局は、原則、地元から通える場所を指定される。
俺も例外なく、来年、ここから通うことになる。そのための準備として、現在、身の回りのものを実家にも揃えようとしているわけである。
住まう部屋はもちろんここ、昔俺が使っていた部屋だ。掃除するのは何年ぶりだろう。
「冬也。ベッドはどうする? 後で買いに行くか?」
自分の書斎の掃除を終えたらしい父が部屋の入り口に顔を出した。扉は換気のため開放してある。
「そうですね……。ここに布団を敷いてもいいですけど」
俺は部屋の広さを目で確認して言った。
置いてあるベッドは子供用のもので、今の俺ではさすがに狭い。中学三年の時はまだなんとかいけたんだが。
「布団は出し入れが面倒だろう。ベッドにすればいい。買い物に行くならつきあうよ」
「今日はそんな余裕ないんじゃないですか? 掃除が終わる頃にはきっとへとへとですよ」
「じゃあ明日だな。机も大きなものに買い換えよう。欲しいものがあれば遠慮なく言いなさい」
「自分で買いますよ。もう子供じゃないんですから」
「おいおい、学生は普通、親に甘えるものだろう? ここにいる間くらい、少しは甘えてくれ」
俺は苦笑した。今回、帰ってきた時から、妙に父は張り切っている。
「わかりました。じゃあ欲しいものをリストアップしておきます」
「冬也、あなた。そろそろ一度休憩にしましょう」
一階から上がってきた母が、父の隣に立って言った。
「ああ、そうだね。ちょうど喉も乾いてきたところだ」
「お茶を淹れますね。クッキーもあるのよ、冬也。コーヒーと紅茶、どちらがいいかしら」
明るい笑みを向けられた時はわずかに戸惑った。
一家団欒といった雰囲気にまだ馴染めきれずにいる自分を押し込め、「コーヒーで」と答える。
母の顔が和む。父の目も柔らかに微笑む。
一体、何が変わったんだろうか。
「何かいいことでもあったんですか?」
リビングでのティータイム。コーヒーが来るのを待つかたわら。
我慢しきれず、とうとう俺は父に尋ねた。
「どうしてそう思うんだね?」
「思わないわけにはいきませんよ。父さんも母さんも妙に嬉しそうだ」
父は一瞬疑問を顔に浮かべ、それから「ああ」と笑み崩れた。
「それはね、冬也。お前が嬉しそうだからだよ」
「俺が?」
「ああ、自分の顔を鏡で見てごらん。何かふっきれたような、生き生きとした顔になってるよ」
生き生きとした顔に? そんなにわかりやすく出てたのか。恥ずかしさに父から目を逸らす。
「いいことがあったのは冬也のほうじゃないか? よければきかせてもらいたいね」
「それは……」
返事に窮する。中学時代にあった様々な出来事を、もう一度洗いざらいぶちまけるエネルギーは今のところない。
「また今度話しますよ。来年は語り合う時間が山ほどありますから。話の種はとっておきましょう」
「それもいいね」
ほっと息をついて、視線を泳がす。庭のビニールハウスがふと目についた。
くたびれたところなどひとつもない、よく手入れの行き届いた白い草の家は、父の熱意の輝きをそのまま表したようにそこにある。
あそこで父は、俺に自分の夢を語って聞かせてくれた。
いずれこの薬草を、もっと大量に栽培できるようにして、より安価な薬を患者に提供したい。自分はその事業に生涯を捧げるのだと。
自分の父はなんて壮大な夢を持ってるのだろうと、子供心に思った記憶がある。そして、自分もその夢の担い手になりたいと。
あの頃の俺は、将来は父の片腕になるのだと信じて疑わなかった。一緒に庭いじりをするのも大好きで、草を摘む時は傍にべったりとはりつき、どんな薬になるのか、父の手元を興味深く観察していた。
父もはっきりとは言わなかったが、「僕も一緒に薬草園つくる!」と子供の俺が豪語するたびに顔を綻ばせていたところからすると、将来を楽しみにしていたに違いない。
純粋に、父を慕っていたあの日。
今でも父を尊敬しているが、あの日の俺からは随分遠くなってしまった。
「……父さん」
「なんだい?」
「ひとつ、教えてください」
柔らかな西日の射しこむ庭に目を釘付けにしたまま、俺は父に尋ねた。
父は、静かに俺の言葉を待った。
「何故、この間、俺と神薙を会わせようと思ったんですか?」
ああ、と小さく頷いた後、父も庭に視線を投げかけた。
「……冬也。覚えてるかい? 子供の頃、お前は私が庭いじりを始めるとすぐに寄ってきた」
覚えてるも何も。今ちょうどそれを思い出していたところだ。俺は頷いた。
「体調が悪くなると私の作る薬を飲みたがって。病院に行きなさいと言うと、泣いて駄々をこねるんだよ。父さんの薬がいいって。私はお前が可愛くて仕方なかった」
「と、父さん。今はそういう話は」
「この子をずっと守っていこう。そう思っていた…………。なのに、みすみすお前を神薙氏に渡してしまった。そのことを私はずっと後悔していたよ」
目を瞠った。あの時のことを引きずっていたのは俺だけじゃなかったのか。父も――
「お前を連れ戻そうと何度も神薙氏のところに行った。だがその願いは叶わず……私が手をこまねいている間にお前は傷つき、ようやく戻ってきた時には完全に心を閉ざしてしまっていた」
ちくり、と胸が痛んだ。父の顔が悔恨の念に染められる。
「私は自分の愚かさを恥じ、二度とこの子を手放すまいと思った。神薙氏にだろうと、誰にだろうと、もう二度と連れて行かせはしない。この子の将来は私が守ると。…………だが、時が経つにつれ、それも自分のエゴなんじゃないかと思えるようになってきた。お前はしっかりと成長した。ただ守られるだけの子供じゃない、一人前の大人になった」
一瞬、激しい炎を宿した瞳がふっと優しく細められる。その瞳が俺に向けられた。
「だから、神薙氏のお前に会いたいという申し出を受けることにしたんだ。お前はもう、自分の道は自分で決められる。どんな選択肢だろうと、私に狭める権利はないと思って、会わせたんだよ」
そんなことを――父は、俺を信頼して神薙に会わせたのか。
「俺が……もし神薙のもとに行くと言っていたら」
「それもひとつの選択だ。お前が行きたいと言うのなら、それは神薙氏に従ったのではなく、お前の意志で決定したことだ。お前は私や神薙氏の言いなりになるほど弱くはない。……それに」
父は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「お前はきっと断ると思っていたよ。やりたいことがあるんだろう?」
息が止まった。父は一体、どこまで知っているのだろう。
深い瞳の奥に吸い込まれそうになり、俺は自分という人間の小ささを改めて思い知った。
背後には、いつのまにか母が盆を手に立っている。
自分は一人ぼっちだと、ずっと思っていた。一人でいいとも思っていた。
だけど、よくよく目を凝らせば、傍で見守ってくれていた人の多さに気づかされる。
俺は、二人の信頼に、応えなければいけない。
「――病院に勤めたいと思っています。だから、父さんの会社には行きません」
「ああ。わかってるよ」
晴れやかな父の笑顔に、胸の奥でずっとつかえていたものが溶けていくのを感じた。
父さんの夢を手伝えない。俺には俺のやりたいことがある。
子供の頃から掴んでいた優しい父の手を、俺はいま初めて、自分から手放した。