Act. 17-10
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七色の光が惑わすように視界を揺らす。
次々にフラッシュバックする記憶によろめいた俺は、グリコから取りあげた本を手に、背後の机に寄りかかった。
「――思い出した。俺は。じいさんを……」
助けられなかった。失ってしまった。
大事な人だったのに。たった一人のかけがえのない――――だからこそ記憶の底に封じ込めたのに。
「朽木さん?」
「……とんだお笑いぐさだ」
じいさんを失ったあの時、全てを捨てたはずの俺が。
まだ未練がましくもこんな本を――――
バンッ!
「朽木さん!」
手の中の本を力の限り床に叩きつける。さらに足で踏みにじり、蹴りつけようとする俺の腕にグリコが飛びついた。
「バカ! なにしてんの!」
「はなせっ! 全部無駄なんだ! こんな本を読んだところで! 必死に勉強したところで! もうじいさんはっ」
じいさんは。
もうじいさんは。
「――かえってこないんだ――――」
熱くなった腕から力が抜ける。
温かい何かが頬を伝った。
「朽木さん……」
頭の中がぐちゃぐちゃだった。自分が何を感じているのかもわからなかった。
どうして。俺はどうしたらいい。
なんでこの場所に立ってるんだ。捨てたはずの場所に。俺は。俺は――――
『坊主』
その時、窓の外からじいさんの声が聞こえた。
「……じいさん?」
とうとう正気を失ってしまったのかもしれない。幻聴でしかないとわかっているのに、吸い寄せられるように、ふらりと窓に近づく。
明るいツリーが見えた。もはやなんの感慨も呼び起こさなくなったイルミネーションをなぞり、ゆっくりと視線を下に降ろしていく。
広場に、小さな人垣ができていた。
「……?」
よく見ると、人垣の中心で誰かが横になっている。
いや、倒れているのだ。暗くて影にしか見えないが、恐らく、体格からして男性――
「っ!!」
次の瞬間、俺は弾かれたように駆け出した。
「朽木さん!」
驚くグリコの横をすり抜け、講義室を飛び出る。グリコの声に返事をする余裕もなく、廊下を駆け抜け、無我夢中で階段を飛び降りた。
何分だ? 倒れてから何分経った?
焦りが脳を痺れさせる。
じいさん。
じいさん。
じいさん――――
『医療の現場ってのは、医者だけが主役じゃねぇ』
――そこにいるのか、じいさん?
外の空気はざわついていた。異状に気づいた人々が集まり、人垣は更に膨れあがっていた。
「どいてくれっ! 誰か、救急車を!」
俺は叫びながら人垣をかきわけた。
「もう呼びました! でも到着まであと10分はかかるって……」
答えたのはさっきホールで共に働いた後輩だった。人垣の中心で患者を抱き起こそうとしている。
嫌な予感のとおり、胸元を掴み、喘ぐ青白い顔のその男性は先ほどホールで会った初老の男性だった。
俺はさっとその男性の手元、周囲を確認した。肝心のポーチがない。
「この人の持っていたポーチはどうした!? 茶色い革の!」
「あれ? そういえば、持ってない」
「その人は恐らく狭心症か心筋梗塞だ! 下に何かひいて仰向けに寝かせておいてくれ! 誰か、ホールの中を探すのを手伝って――」
『色んな役目を持った奴らが自分のやるべきことをやる』
「これじゃないですか!? 今、ホールの中で見つけて、忘れてった人を探そうと思って」
実行委員の一人が人垣の向こうから手を掲げながら叫ぶ。その手にあるポーチは見覚えのある物で、俺は「それだ!」と駆け寄った。
素早く受け取ると、中から目当ての小瓶を取り出す。やはり、ニトロ舌下錠。狭心症の発作時に使うものだ。
「見つかりました、ニトロです!」
俺は喘ぐ男性の口元に取り出した一錠の薬を持っていった。男性は反射的にそれを口に咥え、吸い込んだ。
同時に俺は腕の時計で時間を確認する。1分ほどで効き目があるはずだ。
これが効かなければ、もっと危険な心筋梗塞に移行している可能性が高い。どうか効いてくれ――
『誰一人欠けちゃなんねぇ。全員が自分のできることに最善を尽くす。そうやって、より多くの命を救うんだ』
じいさん。
『おめぇもなりてぇか? その一員に。命を救うプロの一人に』
なりたい。俺もその一員に。じいさんと同じ場所に立つプロに。
ぎゅっと手を握りしめる。誰も一言も発さない静かな時が流れた。
そして――
祈るような気持ちで見守る俺たちの前で、男性はやがて静かに呼吸を整えだし。
朦朧としていた瞳に生気が蘇ってくると同時に、ゆっくりとそれが俺に焦点をあわせ。
赤味の戻った頬がにこりと笑った。
途端、歓声が湧きあがった。
「やった! よかったぁ~! もう大丈夫なんですね、朽木さん!」
興奮に弾む後輩の声をどこか遠くに聞き、俺は呆然と頷いた。静かに広がる達成感の中、不思議な気持ちで手の中の小瓶を見つめていた。
……命が。
今、確実に。ひとつの命が俺の手に戻ってきた――
『どうだ坊主。知識で命を救う。最高だろ?』
ああそうか――――
ようやくわかった。俺はこれを求めていたんだ。
救えなかったあんたの代わりに、大勢の命を救うことを。
俺はずっと求めていたんだ――――
「朽木さんすごいです! 俺、もうパニクっちゃって。ニトロのことなんて全然浮かばなかったですよ!」
「……俺も、この人が薬を飲む場に居合わせなかったら、わからなかった」
偶然が重なった。ただそれだけのことだが――
ニトロ舌下錠。狭心症の発作を一時的に抑えるだけだが、大切なものだ。これがあるとないとでは患者の安心度が違う。
この男性は恐らく、ポーチを忘れたことに気づき、うろたえたため発症したのだ。心臓の病気を患っている場合は、心臓に負担をかけないことが大切だと、どこかの本にあったのを思い出す。
「ありがとうございます……」
到着した救急車に担ぎこまれる寸前まで、何度も男性は俺に頭を下げ続けた。たいしたことをしたわけじゃないのに。
人々に褒めそやされるのも気恥ずかしく、俺は早々にその場を退散した。置いてきたグリコを探しに医学部棟へと戻る。
涼しい夜風が頬を撫で、心地よく目を閉じる。
再び視界を戻した時、広場の端に立つ小さな人影を見つけた。その時になってようやくつい数分前の荒れた自分を思い出した。
どう説明したものか。あの時と今ではまったく心境が違ってしまっている。
だが言葉をためらっているうちに、人影はイルミネーションの明かりの中へと進み出て、俺に微笑みかけてきた。
「――助けれたじゃん」
白い髪を風に揺らし、グリコは俺の前で立ち止まった。
浮かべている笑みはいつもと違って穏やかだ。
「別に、助けたというほどじゃ……」
「急に朽木さん全力疾走するんだもん。びっくりしたよ」
ようやく散りだした人垣に目をやり、誰かに手をふるグリコ。実行委員の誰かだろうか。
「いいね、ああいうの。みんなが誰かを助けようと、自分のできることを精一杯やって。無駄なことなんてひとつもないよ」
ひとつもない。俺のしたことも、無駄じゃない――
「昔も、助けたかったんでしょ? このおじいさんを」
伸びてくるグリコの手のひらには、あの写真があった。
むすっとした顔でそっぽを向く中学生の俺。その隣で、欠けた前歯を陽気に見せながらピースサインをするじいさん。
たった一枚。俺とじいさんが二人で写った写真だ。
「――ああ。助けたかった。だけど俺には、じいさんを助ける力なんてなくて、逃げ出しただけで――」
それから俺は、ぽつり、ぽつりと語りだした。
誰にも救いの手を差し伸べられず、たった一人で逃げ続け、心がすさみきっていたあの日。
公園で出会ったホームレスは、俺の居場所を作ってくれた。
生きる意味を見出し、希望を与えてくれた、ただ一人のじいさん。
薬草のことを、薬の世界のことを教えてくれた。薬で救える命の多さを教えてくれた。
もっと知りたいと思った。この人を超えたいと思った。
だが、別れの時はあまりに突然で。
何もできなかった自分にうちひしがれたあの時のこと。
絶望感に生きる希望を失ったあの日のこと。
気づけば俺は、思い出した全てを語っていた。
「――無気力になった俺は、その後神薙に捕まったが、逃げる気も起きなかった。なにもかもが、どうでもよかったんだ」
グリコは静かに聞いている。またあの何を考えているのかわからない無表情で。
「ようやく従順になった俺に神薙は満足したが、卒業式の直後、突然俺は解放された。もうお前に用はない、どこにでも行け。そう言って神薙は俺を放り出した」
話しながら思い出す。あの時、自由になったという希望の灯火が灯ると共に襲ってきた孤独感。俺は、この孤独に耐えるため、強くなろうと思った。
「神薙にすら見捨てられ、一人になった俺にできることは、全てを忘れ、強い自分に生まれ変わることだった。孤独に負け、神薙に屈してしまった自分を捨てて――」
「違うよ朽木さん。朽木さんは孤独に負けて捕まったわけじゃないじゃん」
きっぱりと言われ、面食らった。
「大事な人を助けられなかった自分に絶望した隙に捕まったんだよ。それは、お父さんに屈したことにはならないよ」
「……屈したことにはならない……?」
「うん。そこんとこ、記憶がごっちゃになっちゃったんだね。朽木さんはお父さんに負けたことなんてないんだよ。諦めたこともない。一度は諦めかけたのかもしんないけど、ちゃんと夢を掴んでた。だから今この場所にいるんでしょ?」
この場所に。
じいさんと同じ高みに昇るために。
全てを捨てたと思っていたのに――――
『おめぇはまだ足掻ける』
ああ、そうだなじいさん。俺は足掻き続けてきた。
あんたの言葉を忘れなかったんだ。
「……馬鹿だった。じいさんとの思い出まで忘れるなんて……」
自分が何を目指したのか。何を大事にしていたのか。全てを忌むべき過去として封印してしまった。
だから自分には何もないと思っていた。
「でも、ちゃんと進みたい道を進んでたんだから、すごい執念だよね。朽木さんらしいじゃん」
「俺らしい、か……」
ふっと口元が笑う。まったくこいつの言うことは。
「頑張んなよ。今の朽木さんはもう、昔のままじゃないんでしょ?」
そうだ。俺はもうあの無力だった子供じゃない。知識と力を蓄えてきた。
父さんとじいさんが見てきたものを、俺も見ることができる。このまま進み続ければ。
「グリコ――」
「ん?」
「俺は、神薙のもとへは行かない」
「わかってるよん」
「あと――」
色々と、すまなかった。
この一言で、今までの全てを清算できるとは思ってはいないが、グリコにしてしまったこと、してもらったことに対する感情を、なんとか言葉にして絞り出した。
予想通り、グリコの反応は「感謝の気持ちはヌード写真で――」などとのたまいだすのでげんこつ一発で黙らせる。
素直に謝辞を受け取る奴ではない。だからこそ、いつもの俺でいることがこいつにとって一番の礼になるのだろう。
どこか名残惜しい手をグリコの頭から戻し、視線をさまよわせれば、どこからか涼やかな鈴の音が、音楽と共に聴こえてくる。幻想的なこの風景によく似合うこれはジングルベルだ。
BGMに流すことにしたんだろうか。
「みんな頑張ってるなぁ~」
「ああ。頑張ってるな」
一夜限りの夢を与えるために。
闇夜を照らす淡い光を放ち続けるクリスマス・ツリーを俺は見上げた。
誰も彼もが今、この木を見上げ、自分の夢に思いを馳せている。
頂上に輝く星は、ここが目指す場所だと示してくれているようで。
「じいさん――」
大丈夫だ。俺はまだ足掻ける。
もう迷わない。じいさんの記憶と共にそこを目指す。
「あたしもコーヒーもらって……はにゃ」
突然、グリコの声が途切れ、気づいた俺はすぐさま手を伸ばした。
一歩踏み出したグリコの体が、ぐらりと横に傾いたのだ。
「だから言っただろ。動きすぎだ」
脱力したグリコの体を支えてしっかりと抱き寄せる。思わず焦った手が震え、うまく力が入らない。
「はにゃ~。ぐるぐるする~。世界がまわってる~」
「もう帰るぞ。無茶した罰だ。今日は大人しく運ばれてろ」
文句を言われる前に、胸に抱き上げて歩き出した。
わずかに跳ね上がった鼓動は気のせいだということにしておく。
そんなはずはない。こんな変態との触れ合いを意識するはずが。
「うが~。ちくしょ~。パンダと体を鍛えなおす~」
こんな変態女を――――
だが、もうはっきりとは否定できない自分がいる。
とんでもない非常識な変態女だろうが。ただのうるさいでしゃばりだろうが。色々と世話になってしまった今ではこいつが最早ただのストーカーではないことを認めざるを得ない。
もしかして、こいつは俺の――――
「兄ちゃんに怒られる~」
「俺も一緒に怒られてやるから静かにしてろ」
まさかな。
その夜、俺は初めて悪夢の正体を知った。
『ようやく俺の顔を思い出したか、坊主』
夢の中でニカッと笑う相変わらず前歯の欠けたじいさんに、俺は苦笑で返した。
『どうりで耳の奥にこびりついてたはずだ。あんたとはここで会ってたんだな』
ずっと俺を苦しめていた夢の闇は、優しい色に変わっていた。木漏れ日を落とす緑に囲まれたそこに。
『おうよ。俺がずーっと語りかけてんのに、この薄情な坊主はなかなか耳を貸さねぇんだ。おりゃこのまま消えちまうかと思ったぜ』
『悪かったよ。過去を忘れれば強くなれると思ってたんだ』
『まぁな。誰にでも封印したい過去はある。おめぇは前に進むために、一度忘れる必要があったんだ』
ずっと耳を塞いでいた俺に腹を立てた様子もなく、じいさんは昔懐かしい公園のベンチの上で胡坐をかく。
『……でも、あんたは俺の中にしっかりと残っていた』
呟く俺に、からからとじいさんの大きな笑い声がふってくる。
『あったりめぇだ! 俺が置いて行っちまったおめぇをどんだけ心配したと思ってんだ。あの世でゆっくりなんかしてらんなかったんだよ』
『じいさん……』
『んな辛気くせぇツラすんな。こうして思い出せたんだから結果オーライってやつだ』
結果オーライ……か。じいさんらしい。俺は苦笑して頷いた。
じいさんも満足そうに頷き、俺を真っ直ぐに見返す。
『おめぇはもう大丈夫だ。足掻いてみせろ。パートナーだって見つかったんだろ?』
その含みのある不意打ちの言葉にどきりとする。パートナー……浮かびそうになる顔を慌てて打ち消した。
『あ、ああ。男だけど、優しくて純粋でいい奴だ。俺を支えてくれた』
なんでどもるんだ、俺は。拝島に決まってるだろ。
しかし、途端に意地悪く笑うじいさんの顔が俺を焦らせ、体が一気に熱くなる。
『おや、そっちか? もう一人、候補がいんだろ?』
『じいさん!』
思わず叫ぶ。俺の中にずっといたじいさんが知らないわけがない。だからこそ焦る。
『あの子の声は、おめぇの心によく響くみてぇじゃねぇか?』
『違うっ! あいつだけは絶対に違うからな!』
『意地をはるなよ坊主。んな赤い顔で言っても説得力ねぇぞ』
『変態だぞ! あんなとんでもない変態に支えられるなんて冗談じゃない!』
『ははは、悩め悩め! けっこうじゃねぇか! 悩むのも人生の醍醐味だ!』
バン、と思いっきり楽しげに背中を叩かれた。駄目だ。完全に見抜かれている。
相変わらず、このじいさんには勝てる気がしない。
『わけぇんだから青春しねぇとな! まぁどっちがパートナーでもいいってことよ。ようは人生が楽しくなりゃいいんだからな!』
『まったく……軽く言ってくれるな……』
俺は痛む背中をさすりながらぶつぶつとこぼした。夢なのに痛いってのはどういうことだ。
だが――――じいさんに叩かれたのは久しぶりだった。
もう夢の中でしかこんな風に語り合えないのだと、しんみりとした気持ちが湧き上がる。
じいさんは――死んでしまったのだから。
何もできなかった俺の目の前で、連れて行かれたのだから。
『じいさん……』
できれば。叶うことなら。あの時に戻って。
いいや。それはもう不可能だ。俺は認めなければいけない。現実を。
『ああ?』
だから。俺に言えることは。
『俺、あんたを助けられなくて。何もできなくて――――』
ごめん。
小さく呟いた言葉は、しかしじいさんの豪快な笑い声に吹き飛ばされた。
『気にすんな! あれが俺の寿命だったんだ。寿命に無理に逆らったっていいことはねぇ!』
『じいさん……』
『俺は充分人生を楽しんだ。おめぇはこれからだろ? これから楽しいことが沢山待ってんだ。好きなように生きてこい』
まるで、それが別れの合図だとばかりにじいさんの姿が突然、薄れていき、俺は胸が締め付けられる思いで目を見開いた。
『じいさん!』
慌てて掴もうとじいさんに手を伸ばす。
だが寸前で思いとどまった。
俺はもう、無力な子供じゃない。
自分の力で進んでいかなければいけないのだ。いつまでもじいさんに引っ張ってもらうわけにはいかない。
ゆっくりと、手を下ろす。
代わりに、ずっと言いたかった言葉を叫んだ。
『ありがとう、じいさん! あんたに会えて良かった! 嬉しかったんだ、ほんとはずっと嬉しかったんだ、あんたが傍にいてくれて!』
不器用な子供だったから言えなかった言葉を。俺は叫び続けた。
『もう二度とあんたのことは忘れない! あんたのおかげで夢を持てたんだ! あんたのおかげで今の俺があるんだ! 忘れない!』
忘れない。
決して忘れやしない。
俺には夢があるということを。目指すものがあるということを。
しっかりとこの手に掴んで生きる。
『おう、忘れんな坊主。必死に足掻いて生きていけ。なぁに、おめぇなら大丈夫だ。ふってぇ牙があんだからな。それに――もうわかってんだろ?』
じいさんが手を振って応える。
ああ、そうだ。昔もそうだった。俺が気づかなかっただけで。
そしてこれから先もずっと――――わかっている。
見失いはしない。どんな時でも決して。
『おめぇは』
俺は。
そう。
『一人じゃないってことを』