Act. 17-8
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遅い。なにをやっているんだあいつは。
濃くなっていく闇の中、俺は窓際の席に座り、苛つきと共にグリコを待っていた。
既にあいつを心配する気も吹き飛んで、ただこの場から一刻も早く離れたいという思いに支配されていた。
窓の外には幸せそうに寄り添うカップルや、忙しそうに働く実行委員の面々が行き交い、俺の暗澹たる気分を増幅させる。
実に楽しそうで結構なことだ。
こんな不愉快な場に、いつまで待たされなくてはならないのか。考えれば考えるほど自分が惨めに思えてくる。
もうグリコのことなど放って帰ろうかと考え始めた矢先のことだった。
「朽木さぁ~ん」
出ていった時とは打って変わって萎れたグリコの声が闇の中に響いた。
「遅いぞ」
「ごめ~ん。拝島さん連れてこれなかった」
「拝島? どういうことだ?」
驚きにそれまでの鬱積も一瞬忘れる。
「拝島さんとのロマンチックなクリスマス・イヴをあげようと思ってたんだよう~」
暗闇に蠢く影が戸口からこちらに近づいてくる。揺れるサンタ服の白い縁取りは確かにグリコだ。
俺はため息をついて立ち上がった。
「余計なことを……」
「だって朽木さんが元気でるかと思って。美味しいシチュでしょ? 誰にも邪魔されない場所で二人っきり、ツリーをバックにサイレント・イヴだよ? 告白するチャンスをあげれると思ったのに、拝島さんが朽木さんとはまだ会えないって……」
「そうか……」
納得するしかなかった。
最後のケンカ別れを考えれば当然だろう。拝島はまだ俺に腹を立てているのだ。
グリコとは元の鞘に収まったものの、きちんと謝ったわけじゃない。拝島の要求に応えたとは言えないだろう。
このまま二度と拝島の笑顔は見れないのか――
だが、それでいい気もする。きっぱりと拝島を諦めることができる。
それに、ひとつ嬉しいことがわかった。
拝島はまだグリコに告白していない。二人の関係は変わっていない。
告白していれば、さすがのグリコも俺と拝島の橋渡しをしようなどとは思わないだろう。
寄り添いあう二人の姿を見ずにすみそうでホッとした。
「計画もおじゃんになったんなら、もうここに用はないだろう。帰るぞ」
「あ、ちょっと待って!」
戸口に向かおうとする俺の胸を、しかしグリコが押しとどめた。
「しつこい奴だな。まだ何かあるのか?」
「えっと……」
うつむき、言葉に迷うグリコを怪訝な目で見下ろす。
何をそんなに迷っているのか、「うん、えーと、」と全く歯切れが悪い。
「いい加減にしろ。俺ももう体力の……」
限界だ、と言おうとした瞬間、視界が突然明るくなった。
「……!?」
「あっ!」
グリコの嬉しそうに輝く顔がオレンジの光に照らされる。
振り返ると、幻想的な淡い光に包まれるクリスマス・ツリーがあった。
「ライトアップだよ、朽木さん!」
赤いリボンや松ぼっくりで飾られたツリーは、祭りの開始を伝えるかの如く、次々と華やかに纏う色を変えていく。
それは、まるで光のシャワーを浴びせられているようで。
「……綺麗だな」
俺は素直な感想を口にした。
「でしょっ、でしょ~~っ!?」
ここから窓の外を見ると、ホールの斜め前にあるツリーがまるで切り取った絵のようにそびえ立つのには気づいていたが。
ライトアップされた状態を実際目の当たりにすると、想像以上の美しさに呆然と見とれるほかなかった。
「みんなが一生懸命考えたんだよ~。どういうイルミネーションにするか」
七色に光を変えた後は、くるくると点滅する光の輪がツリーを取り巻く。
「一晩だけのことだし、豪勢にいこうって」
「ああ。確かに豪勢だな」
光のダンスが終わると、次に星が散りばめられたの如く、あちこちに小さな灯火が浮かび上がる。
「テーマは『夢』、なんだよ。子供たちの宝探しも、このイルミネーションも。夢を見続けよう、って語ってんの」
「夢……」
なんとはなしに呟いてみる。虚しいはずのその言葉は、不思議と舌先に落ち着いた。
確かに、夢を見ているかのような星々の瞬きは、一生心に残る代物だろう。
ふっと自嘲的な笑みが浮かぶ。
「俺にはないものなのにな……」
「なに言ってんの。あるじゃん、朽木さんにも」
あまりにあっさりと言われたので、意味を呑み込むまでしばらくかかった。
「…………なに?」
ゆっくりとグリコを振り返る。
大きな瞳に七色の星が瞬いている。
呆れたようにグリコは言った。
「薬の専門家になることでしょ」
「それは……別に夢というほどのものじゃ」
「夢だよ。実のお父さんから必死に逃げてまで目指そうとしてる、朽木さんの夢だよ」
夢? 俺に? 目指そうとしている――
「なんでそんなこともわかんないの。夢もない人は、そんなに必死に逃げたりしないよ? 朽木さんは、ちゃんと大事なものを守ろうとしてんのに」
「グリコ。なんの……」
「なんの話かって? それはね、朽木さんは矛盾してるって話だよ」
矛盾してる?
「目指すものがあるのに。一生懸命努力してるのに。自分は空っぽだと思いこんでる。なんで? なにを怖がってんの、朽木さんは?」
「怖がってる? 俺が?」
「そうだよ。怖がって、ありのままの自分を受けとめることができないでいる。なんで?」
「それは……」
混乱する頭を必死に動かし、答えを探した。怖い? 自分が怖いものといえば――
「神薙は……確かに怖いな。奴に捕まれば二度と逃げられない気がして。そんな俺に夢なんか」
「違うよ」
「違う?」
力強い瞳に、火が灯る。
「朽木さんの怖いものはお父さんじゃない」
「――っ」
「朽木さんの怖いものは朽木さんの中にあるんだよ。思い出して、朽木さん」
『思い出すんだ』
誰かの声が重なる。グリコの瞳の輝きにつられ、自分の胸の奥にも微かな灯火が灯ったかのような熱が生まれる。
だが、それと同時に湧き上がる不快感が俺を苛立たせ、全てを頭から振り払った。
全く、どいつもこいつも。
「またか。拝島もお前も俺に何を思い出せって言うんだ」
俺はため息をついてグリコの肩を押しのけた。
「朽木さん!」
「こんな茶番は終わりにしてくれ。俺が何かを忘れていようと、必要がないから忘れてるんだ。余計なことはするな」
「余計なことじゃないよ!」
「余計なことだ。俺はもう神薙に行くと決めた。年が明ければお前たちとは無縁の人間になる」
「なっ! 朽木さん!」
腕を掴まれた。火傷するかと思うほどに熱く。
「きいてないよ、そんなこと! 勝手なスケジュール組むんじゃないよ!」
大きな瞳が怒りに煮えたぎっている。鋭い声が赤い帽子を揺らした。
「なんでお前の許可がいるんだ! 神薙に行くのは俺の勝手だ!」
「勝手じゃないよ! 納得してないくせに決めたとか言うなっ!」
「お前こそ勝手な憶測でものを言うのはやめろ! 俺が納得していないとどうしてわかるんだ!」
「ストーカーだからわかるって言ったじゃん! 朽木さんのバレバレな本心くらいお見通しだっての!」
「俺の心を勝手に読むな! 納得しようがしていまいが、どうせ連れていかれるんだ! 無駄に足掻いたところで――」
「たわけ――――――っっ!!」
殴られた。拳じゃない。やけに硬いもので側頭部を殴られた。
「つっ――グリコっ! お前――」
顔を上げた先に仁王立ちするグリコは何かを頭上に掲げている。
「そんなたわけにこれはいらないね!」
灼熱の炎に瞳が燃えあがる。眩しいほどに。
背後の窓から射す七色の光に照らされ、グリコの手の中の何かが輪郭を露にする。直線的な輪郭を。
本――なんだ、あの本は。どこかで――
次の瞬間、全身を衝撃が駆け抜けた。
あれは。まさか。あの本は。
『無駄なことなんてないんだよ、冬也。これを読んでみるといい』
父の声が頭をかすめる。
読みたい。いやだ。読みたくない。こんなもの読んだところで――
「神薙グループの跡継ぎになるんでしょ! じゃあこれはいらないよね! 窓から捨ててもいいんだよね!」
「待て。グリコ、それをどこで」
声が震える。
「箱の奥に大事にしまってたくせに! 捨てきれなかったくせに! いいよ、あたしが捨ててやるこんなもの! 勝手に神薙にでもなんにでもなりやがれ!」
グリコが腕を振りかぶる。手にした本を窓に向かって。
「まっ――」
無意識のうちに、体が動いていた。
心臓は痛いほど波打ち、ねばついた汗が頬を伝う。もつれそうになる足を必死に押し進め、グリコのもとに到達した。
「やめろっ!」
ぶかぶかのサンタ服から覗く細い手首を掴むと、またあの激しい瞳に射抜かれた。
「どうなの? 諦められるの? できないんでしょ? 夢を捨てるなんてできっこないんでしょ?」
「やめろ……」
止まらない震え。気が遠くなる。目の前に揺れる黒い文字。『がんと戦う人々』
がんと――戦う――――
「思い出すんだよ。大事なものがあるんでしょ? だから必死に逃げてきたんでしょ? 頑張って夢を守ろうとしてるんでしょ? これからもそうやって足掻いていけばいいじゃん!」
暗がりの中、グリコのカツラが白く浮かび上がる。誰かの面影と重なっていく。
「やめろ」
「諦めたことなんかないくせに! 思い出しなよ! 好きなんでしょ、薬学が! やりたいことがあるんでしょ!? それを教えてくれた人がいたんでしょ!?」
『おめぇはまだ諦めちゃいねぇ』
「思い出しなよ! 大事な人がいたんでしょ!? 背中を押してもらったんでしょ!? だから頑張ってるんでしょ!? 本当は諦めたくなんかないくせに――」
全てが、眩い白に包まれた。
『自分の気持ちから、目を逸らすんじゃねぇっ!!』
声が聞こえた。ひどく懐かしく、それでいて身近な声が。
一歩下がった俺の前に、はらりと何かが落ちてくる。本に挟まっていたらしいそれは一枚の写真で――
どくん、と視界が揺れた。
『坊主』
写真の中から陽気に語りかけてくるような――ああそうだ。あんたはいつもそんな風に笑っていた。
最後まで、俺に笑いかけてくれていた。
「じいさん――――」