Act. 17-6
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ホールの入り口に戻ると、初老の男性が外から閉めた扉にもたれかかっていた。
すぼまった肩が小さく震え、苦しそうに胸を押さえている。
「どうしたんでしょう、あの人」
ガラスの扉越しに聞こえてくるような荒い息遣いに、俺と後輩は慌てて駆け寄ろうとした。
しかしその男性は手にした茶色いポーチから小瓶を取り出し、素早く口に何かを含んだ。
「大丈夫ですか? どうされました?」
後輩が扉の鍵を開けて中に招き入れると、微かに白髪の交じったその男性は、よろりと足を運び、少ししてから、
「大……丈夫です……。ちょっと、胸が……」
と喘ぐように言った。
「長椅子で横になりますか? 休める部屋にご案内しますよ?」
気遣って肩を貸そうとする後輩に手で制する仕草をする男性。
「ただの持病です……。薬を飲んだので、もう大丈夫です」
その言葉に嘘はなく、みるみる男性の呼吸は落ち着いてきた。
「でもまだしばらく横になっていた方が」
「いいえ、それより聖歌をききたいんです。遅れてしまいましたが、まだ中に入ることはできますか?」
俺は男性がポーチから取り出したチケットを受け取り、一瞬考えたが頷いた。
行かせていいものか心配して迷っている顔の後輩に目配せし、二人で男性の両側について舞台の扉へと案内する。
「胸のご病気ですか?」
訊くと、男性のやつれた顔が静かに笑った。
「今年も無事過ごせたことを、神に感謝しなくてはなりません」
悟りを開いた人間のするような、穏やかで澄んだ笑顔だった。
「歌はいいですね。心洗われます」
にこりと笑うと、男性は俺たちにここまででいいと手で示し、一人革張りの扉の中に消えていった。
胸の奥に重い何かが落ちる。
俺と後輩は、しばらく目の前で閉ざされた扉を無言で見つめていたが、
「戻らなきゃ……」
「ああ」
あの男性にできることは何もないとようやく認め、床に貼りつく足をホールの外に向けた。
外の様子は一転して活気に溢れていた。
「ご苦労さん。それじゃ次は屋台の準備をするから、必要な物を持ってきてくれ」
クリスマスツリーの下でスタッフに囲まれる庄司正宗のもとに戻ると、俺と一緒にいた後輩は早速次の用事を言いつけられた。
屋台とは、ツリーのライトアップにあわせて開かれる即席喫茶のことで、俺がさっき女性客にアピールしたとおり、ホットコーヒーやカフェオレが売られる予定だという。
寒空の下で幻想的なツリーを眺める見物客が飛びつかないわけがない。
「お湯はじゃんじゃん沸かしとけ! 紙コップも山ほど用意しろ! 稼ぎ時だぞお前ら、打ち上げのレベルはこれにかかってる!」
『おおーっ!』
夕日の沈み始めた空に、熱い雄叫びがこだまする。
俺はついていけないノリに輪からはずれ、一人沈黙を守り抜いた。所詮部外者だ。
それよりさっきの男性が気にかかる。発作的に胸を苦しがり、薬で鎮めたということは、考えられる病気はそう多くない。
厄介な病を抱えている身なのは纏う空気でわかる。なのに「神に感謝する」とは――――
ここにいる人間は、誰もかれもが胸に希望を抱いている。毎日を精一杯生きている。
「素晴らしいイルミネーションを堪能してもらおうな、賀茂石!」
「ああ」
彼らにしてもそうだ。訪れる人々に喜んでもらうため、全員が全力で頑張っている。
前向きで、挫けない心。強い信念。輝く夢。
俺は、ここにいていいんだろうか――――
目の輝きが己との違いを見せつける集団から少し離れ、周囲の景色を見渡す。
ホールの向かいにある建物は、通いなれた薬学部実験棟。実験に疲れた目を外に向け、よくこの大きなヒマラヤ杉を見ていたことを思い出す。
晴れの日は銀色の記念ホールが眩しく、この悪趣味な建物を呪いもしたが、もう見れないと思うと寂しいような気もするから不思議だ。
あと二年。きちんと通って卒業したかった。
熱意はなくともそう思う。
年が明ければ俺の居場所はもう――――
『坊主』
不意に意識を掴まれ、ハッと辺りを見回した。誰かに呼ばれたような気がしたからだ。
徐々に集まる見物客。寄り添うカップル。ツリーの下で意気込む庄司正宗からスタッフが散らばっていく。
彼が呼んだのかもしれない。こっちに来て仕事を手伝えと。
スタッフについて行こうかと思ったが、一応仕事内容を確認しておこうと庄司正宗に声をかける。
「庄司くん。俺は何を……」
「おーい、朽木さーん!」
その時、背後から逆に声をかけられた。
グリコだ。サンタのメイクを取り、素顔が露になっている。全体的に体のかさも減り、だぼだぼになったサンタ服を風になびかせながらやってくる。
白髪のカツラと帽子はそのままだが、さっきよりはよほど違和感のない恰好でホッとする。
そういえばイベントは4時までだった。もうとっくに終わっていたのだ。
「おー、お菊ちゃん! 体の具合は大丈夫なのか?」
俺の代わりに庄司正宗が返事をした。お菊ちゃんと呼ばれたグリコは大きく頷き、
「たいしたことないですよ。それより朽木さんは役に立ちました?」
お前は俺の上司かと突っ込みたくなるような偉そうな台詞を吐いた。
「十二分にな。彼のおかげでこの後も商売繁盛しそうだ。これから売り子を頼もうと思っていたんだが、お菊ちゃんがあがるんなら朽木さんも一緒にあがってもらっても」
「え? まだあがりませんよ?」
「だって病み上がりだろ? ムチャはしない方がいい。後は俺たち実行委員にまかせて、今日はゆっくり寝るんだ。また今度飲みに誘うから」
「エー。これからが盛り上がって楽しいところなのにー」
「子供かお前は! 昨日倒れた奴がなに言ってるんだ!」
俺は怒鳴りながらグリコの頬をつねりあげた。
ついでにこっそり体温も確認する。やはり熱い。
「むぎーっ。じゃ、じゃあ、イルミネーション少し見てから帰るー」
そのぼやき半分の言葉には了解を示す庄司正宗。
「ああ、せっかくだからな。イベントのことは気にせず、あったかいところでライトアップを待ってるといい」
「ありがとですー」
「お、お菊ちゃん帰るの? お大事にな」
と、荷物を運んできたスタッフの一人がグリコに挨拶する。つられて隣にいた一人もやってきた。
「お菊ちゃん、今日は本当にご苦労様。ゆっくり休みなよ」
この男はグリコの居場所を教えてくれた好青年だ。確か、賀茂石と呼ばれていた。
「山田さん、賀茂石さんもお疲れ様です。あたしも最後までいたかったんですけどねー」
「もう気持ちだけで充分だから。ホント、お菊ちゃんのおかげで盛り上がったよ」
「あんまたいしたことしてませんけど」
「いいや! アイデアだけでごはん十杯はいけるぞ!」
「イミわかんねーんだよ庄司! それよか砂糖の数足んねーぞ!」
「なにっ、誰か買い出しに行かせるか……」
「あ、お菊ちゃんは気にしなくていいから。ゆっくり朽木さんとツリー見て帰りなよ」
「はぁ……。んじゃお邪魔さまです」
ぽりぽりと頬をかきながら、慌しい集団にお辞儀をひとつするグリコ。しばし名残惜しそうに彼らを眺めていたかと思えば、突然、軽やかな動作で体ごと俺を振り向く。
その顔はもうにんまりと笑っている。切り替えの早い奴だ。
「いこ、朽木さん。秘密の場所があるんだ」
「秘密の場所?」
言うが早いか、俺の手を引いて歩きだすグリコ。一度ホールの中に入り、どこぞの部屋に置いていたらしい荷物を肩に戻ってくる。しかし恰好はそのままだ。着替えないのか?
「朽木さんのために用意しといたとっておきの場所だよ」
とっておき? 俺は思わず眉をひそめた。
こいつの言う『とっておき』はろくなことにならないと本能が告げている。
ただでさえ帰りたい気分が湧いてきているのに、これ以上盛り下げないで欲しい。俺は静かにツリーが見れればそれでいい。
やはりこいつとイヴを過ごすなど間違った選択だっただろうか。
「絶対ステキな夜になるから。朽木さんの頑張り次第で」
ますます疑わしい。
しかしそれほど言うならつきあってやるかと、俺はグリコに案内されるがままに歩いた。
こいつに迷惑かけられるのも、あと少しのことだ。
ホール前の広場を横切り、道路を渡り、グリコの後をついていく。
グリコが入った建物は、なんのことはない、記念ホールの隣にある医学部棟だった。
ここは講義室がほとんどの、なんの変哲もない場所だった気がする。
グリコはすたすたと迷いなく三階に上がり、とある講義室の前まで突き進んだ。
今は冬休みだ。鍵がかかっているのではと疑問が湧いたが、グリコはいともあっさりとその部屋の扉を開けた。
「なんで開いてるんだ?」
「あたしが開けといたから」
答えになってるような、なっていないような、軽い返事が返ってくる。
「ピッキングまでマスターしたのか」
「残念ながらそれはまだ。でね、ここでちょっと待ってて欲しいんだ」
扉の中を指差し、俺を振り返るグリコ。
「ここでか?」
「うん。明かりはつけないで。いるのバレちゃうから」
どういうことだ。寒いものが背中を伝う。何を企んでるんだこいつ。
闇の落ちかけている講義室はしんとした静けさが漂っている。
まだ微かに残る夕日の名残が消えれば、完全な闇に覆われるだろう。この中に一人で待て?
暗闇が怖いわけじゃないが、こいつが闇に乗じて何をしでかすかが怖い。
「妙なことをしたら風邪だろうが容赦なくぶちのめすぞ」
警戒した俺の脅しに、グリコは心外だとでも言いたげに口を曲げ、
「ぶうー。疑り深いなー。とにかく待ってて。20分くらいで戻ってくるから」
と、困惑する俺を一人残し、廊下を駆けて行った。