Act. 16-14
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何が変態だっ! 何を考えてるんだあいつは!
腹立ち紛れに取り上げた釘抜きを振り上げる。
床に叩きつけようかと思ったが、あいつの持ち物で床に傷がつくのも馬鹿らしいので、普通に壁に立てかけた。
こんなもので扉を破壊しようとするとは、まったくあいつの行動は予測がつかない。
黒い雨合羽を着た不審人物そのもののグリコが扉の外に転がっているのを見た時、一瞬おかしさに緩んだ頬は、二度と油断することのないよう固く引き結んでリビングに戻る。
あいつの姿にちらとでも喜ぶなんてどうかしていた。
俺があいつに負けない変態だと? 失礼極まりない。
そんな勝負に勝ちたくもないし、あいつと肩を並べてると思うだけで、人として終わってる気分になる。
勘弁してくれ。どん底まで落ちこんだと思ったのに、まだへこまされるとは。
俺は寝室に行き、湿った匂いを放つ上着を脱いでハンガーにかけた。洗うのは明日にすることにして、とりあえずべたつく服を着替える。
シャワーを浴びたいところだが、近くをまだうろついているだろうグリコのことを考えると、無防備な状態でいるのは抵抗がある。
次はどんな手で来るかわからない。
どこまでもしつこくつきまとうグリコの諦めの悪さは天下一品だ。俺が自分に負けない変態だからいいんだとか、つきまとう理由も理解不能で、どう対処すればいいのやらわからない。
なんであんな女に――あんな突き抜けた変態に拝島をとられなきゃいけないんだ。
着替えを終えた俺はキッチンに行き、コーヒーを淹れるべく準備をした。
豆を挽きながら考える。ここ数日の自分の殊勝すぎた思考を。
あんな変態女に拝島を譲ろうとしていたとは――――自分の愚かさに腹が立ちさえする。
どこが拝島にふさわしいんだ。あんな地球外生命体、拝島の手に負えるわけがない。
俺がここまで手こずらされてるんだ。気の優しい常識人の拝島など、あいつの奇行についていけないだろう。
二人が結ばれることはない――――胸の安らぐ結論に俺は少し気分を良くし、コーヒー豆をセットした。
だがポコポコと粟立つ液体をしばらく眺めているうちに、またもや気分が沈んでくる。
やけに静かだ――グリコはもう仕掛けて来ないんだろうか?
今度こそ本当に諦めた…………のか?
ああ、多分、そうなんだろう。それなら喜ばしいことだ。今夜は祝杯でもあげるか。
そういえばあいつ、今日は誕生日だとか言っていたな。それなら夜は家族と過ごすに違いない。
いつまでもここにいるわけがない――――
俺はできあがったコーヒーをコーヒーカップに注ぎ、リビングに運んだ。
知らずうつむいていた顔をなんとはなしにあげ、窓の外のしとしとと雨降る景色に目を向ける。
グリコがいた。
…………………………。
は?
待て。幻覚か?
目を閉じ、額に手を当て、数秒もみこむ。
もう一度、しっかりと目を開け、俺の部屋のリビングのベランダであるはずの場所を、誰もいるはずのない場所を見やる。
グリコが思いっきり腕を振りかぶっていた。
なっっ。
ただでさえあり得ない光景に、更にあり得ない物が空をしなり、俺の度肝を抜く。グリコが手にしたあの黒い物体はなんだ?
あの細長く、空を切り裂く物体はいわゆるところの――
鞭――――――――――――っっ!?
ガシャ――――ンッ!
手から滑り落ちたコーヒーカップが音をたてて割れるが、そんなことを気にしている余裕はなかった。俺は震えていた。
ピシィ――――――――ンッ!!
あり得ない音が響く。窓ガラスが揺れる音と共に、本来ならベランダから聞こえるはずのない怪しい音が響く。
さっきまで着ていた雨合羽を脱ぎ、パーカーとジーンズという一般的な恰好になったグリコが、どう見ても一般的でないソフト鞭を窓ガラスに打ちつけ、鬼もかくやという形相で髪を振り乱しているのだ。
見ているだけで呪われそうなぎらつく目でこちらを睨みつけ。
『あぁぁ――――けぇぇ――――ろぉぉ――――――――っっ!!』
どんなホラーだ。
変態だ変態だとは思っていたが、ここまで変態だったとは天晴れ過ぎて声もでない。
よく見るとグリコの後ろ、上の階のベランダから、何かロープのような物が垂れ下がっている。
上からロープで降りてきたのか? この雨の中を?
一歩間違えば地上にまっさかさまなのに、命知らずもいいところだと思えば、自然と足は進んでいた。
心臓が早鐘を打つ。
こいつを中に入れてはいけない。
入れてしまえば今までの苦労が全て水の泡になる。
だがここまで気になる存在をベランダに放置しておくわけにもいかず、俺は恐る恐る窓の鍵を開けた。
途端、ものすごい勢いでガラリと窓が開かれる。俺は反射的に後ずさった。
グリコが中に入ってくる。
眼光鋭く俺を睨みつけ、荒々しく息を吐き出しながら、リビングに汚れた素足を踏み入れる。
ずぶ濡れの前髪からは雨が滴り落ち、頬にも肩にもはりついた横髪は貞子にも負けないおどろおどろしさだ。
実際、自分は呪われているんじゃないかと思った。
「手伝え……死ぬ気で手伝え」
地を這うような低い声が迫ってくる。俺はびくりと震え、一歩下がった。
その一歩をあっさりと詰め、グリコは俺から視線を外すことなく、殺気立った声を絞りだす。
「余計なことは言うな。黙って手伝えばそれでいい」
微動だにできなかった。あまりの迫力に呑まれて。
「あたしがここまでやってんだ。つべこべ言ったらぶっとばす。黙って逃げてもぶっとばす」
手の中の黒光りする鞭が、単なる脅しじゃないと存在を主張する。嫌な汗が背中を流れた。
だが自分に発破をかけ、麻痺しかけた思考をめぐらせる。
落ち着け。確かにこの生き物は人間離れしているが、所詮は女だ。俺が本気を出せば、部屋から追い出すくらいはわけないはず。
「拒否っても、手伝うまで居座るからね」
ここで頷けば元の木阿弥だ。こいつは平気な顔して今後も俺につきまとうだろう。
俺はまだ自分のしたことを許せていないのに。強引に力で捻じ伏せ、こいつの意志を曲げようとした自分を――神薙と同じことをしてしまった自分を――
追い出さねばならないと思った。追い出すんだ。
「グリコ。俺は――」
次の瞬間、ずいっと踏み込んできたグリコの勢いに言葉をなくし、俺は固まった。
あの燃える瞳が真下から俺を睨みつけている。
「あたしが――」
伸びてくる手。
「イベントの手伝いひとつで――」
掴まれる襟。
「全部、水に流すって、言ってんだっっっ!!!!」
体の底から震えが走る。
燃え上がる炎が、俺を締め上げんとする指先から首元に移ってきたかのような錯覚を覚え、呆然とぎらつく瞳を見返した。
無理だ。
こいつと縁を切る――本当にそんなこと、できるとでも思っていたのか?
こんなとんでもない女から――逃げきれる? ありえない。不可能だろ。
できるわけがない。
なにより俺は。
こいつと離れたいと――本当に思っているのか?
ここまで本気でぶつかってくるこいつを。命を賭けてまで俺のために怒るこいつを。
手放してもいいのか? 離れてしまっても本当にいいのか?
グリコが。このストーカーがいなくなってしまっても俺は。
本当に俺は。
俺は、こいつのことを――――――
「わかった」
気づけば俺は、グリコの手を掴んで答えていた。
「お前の仕事を手伝う。それでいいんだな?」