Act. 16-6
<<<< 朽木side >>>>
花火の落とす色とりどりの光の中、池上真昼は艶然と微笑んだ。
その横には顎に短い髭を生やした体格のいい男が並んでいる。どうやらデート中らしいということは二人の距離でわかった。
「真昼ちゃん、偶然だね」
「池上も花火を見にきたのか?」
「この状況で『いいえ』なんて言う人はいないですよ。ふふっ。見てのとおりです」
表情を柔らかなものに変え、歩み寄ってくる池上の服装はデートのためか、いつもより気合が入っている。
こういう女は男のためというより、自分のために着飾るものだと思っていたが、今夜の池上は違うらしい。もしくは本命だということだろうか。
「冬の花火もいいものですね」
俺たちの横に並び、空を見上げて呟く池上。その行動に妙なひっかかりを覚え、俺は内心眉をひそめた。
互いに好きな相手との時間を楽しんでいる時である。俺が拝島を好きなことはグリコから聞いて知っているはずだし、池上のように察しのいい女は、「それじゃあまた」と遠慮して去っていってくれるものだと思っていた。
だが池上は、いつまで経っても俺たちから離れようとはしない。
口元が笑ってはいるが、いかにも作りものめいていて、不気味にすら感じる。池上はこんな笑い方をする女だったか?
「……朽木さん」
不意に声をかけられ、俺は内心の動揺を隠しながら「ん?」と答えた。
池上の顔は夜空に向けられたままだ。いつのまにか、その顔から笑みが消えていた。
「グリコ、けっこうまいってきてます」
「なに?」
思わず足が動いた。グリコが――いや、それより、何故、今ここでグリコの話題が出るんだ?
「いつもと変わらないように見えるのは無理してるんです。少し、顔色が悪くなりました。疲れがたまってきてるんですよ。肉体的も、精神的にも」
「それがどう……」
「自分には関係ない、と言いますか? 朽木さんには充分心当たりがあるはずです」
「っ!」
「あの子、確かにナイロンザイルのような神経してるし、めげないことじゃ右に出る者はいないかもしれません。でも、何も感じないわけじゃないんです」
「俺は――」
「あまりグリコをいじめないでやってください。……多分、朽木さんに無視されることが一番こたえるんですよ」
何も言えなかった。
グリコがまいってきている?
だからどうした。そう言いたいのに、言葉がでてこない。あのグリコが、俺のせいで――
「あたしからはそれだけです。それじゃあまた。よい夜を」
策士的な微笑みを浮かべ、池上は男と共に去っていく。俺は呆然とその後ろ姿を見つめた。
グリコに――――いや、会えない。会って何を言えばいい? 今更何を言えるっていうんだ?
「――朽木。どういうことだよ。栗子ちゃんを無視してるって」
無意識のうちに歩き出していた足は、拝島の低い声にぎくりと止まった。
そうだ。拝島と一緒にいたんだった。今の話、当然聞かれて――
「仲直りしたんじゃなかったのか? 栗子ちゃんが朽木のせいでまいってるってなんだよ?」
「それは――」
振り返り、息が止まった。
見たこともないほどの怒りに染まった拝島が俺を睨んでいた。
「おかしいと思ったんだ。仲直りしたわりには栗子ちゃん、遊びにこないし。少し元気がないのも、忙しいからかと思ってたけどなんだか様子がおかしいし」
「拝島、俺は」
「朽木にも事情があるのは知ってるけど、俺たちにはわからない苦しみを抱えてるんだろうけど……だからって、そんな風に栗子ちゃんにあたるのは違うだろ!? 自分が何してるかわかってるのか、朽木!」
目を瞠った。怒りに声を荒げている。あの拝島が。
その瞳の強さに気圧され、一歩身をひく。ぱらぱらと小さな花火が連続的に上がった。
「そりゃ栗子ちゃんは突拍子もないことするけど、朽木のこと、あんなに理解してくれてるじゃないか! いつも朽木に元気をくれてるじゃないか! その優しさがどうしてわかんないんだよ!? あんなに朽木のこと思ってくれてるのに! いつもいつも一生懸命に――今日だって、朽木のために頑張ってくれてたんだぞ!」
俺のために? 何の話だそれは。いやそれより、拝島はグリコと一緒にいたのか? 俺との約束に遅れてまで二人で――
「朽木が栗子ちゃんをそんな風に扱うんなら、俺、もう遠慮しないよ」
ハッとなった。拝島の本気の声が、電流となって全身を駆け抜ける。
「俺が栗子ちゃんをもらってもいいんだね? 栗子ちゃんに告白して、デートに誘ってもいいんだね?」
いいわけがない。俺の想い人は拝島なのに。女との恋路を許せるわけが。
ましてやグリコとの恋路など――――あいつが男と付き合うなど。あり得るわけがないと思うのに、体の震えが止まらない。
拝島は俺に背を向ける。呼び止めたいのに、喉の奥は乾いた空気を送るばかりで言葉が出てこない。
駄目だ拝島。
行くな。
だが燃えるような怒りで俺を拒絶する背中に手を伸ばすことはできなかった。
軽蔑された。その事実が全ての終わりを俺に告げていて。
拝島が――俺のもとから去って行く――
『……坊主……すまねぇな……』
また一人になるのか。結局俺は、一人で生きるしかないのか。
俺の手からは、いつも全てがこぼれていく――
「栗子ちゃんを泣かせたりしたら、俺、朽木を許さない」
その夜、また夢を見た。
相変わらずはっきりと内容の思い出せない悪夢――
『朽木。俺、もう遠慮しないよ』
拝島が出てきたような気がする。
『俺と栗子ちゃん、付き合うことになったから』
そして俺は必死に何かを叫んでいた。
――駄目だ。あいつと付き合うのは許さない。俺はお前が――
『拝島さんはあたしの彼氏だよ。手を出さないで』
グリコ。そうだグリコもいた。
俺はグリコに掴みかかろうとして――――
『もうあたしにもさわらないで』
ひどくショックを受けたような気がする。あいつに言われてショックなことなど――
『さようなら、朽木』
『さようなら、朽木さん』
ありはしないはずなのに、俺は胸をかきむしられたような痛みに動けなくなった。
――行くな。お前たちまで俺を一人に――
どちらに手を伸ばせばいい。俺に背を向け、手をつないで去っていく二人のどちらに。
追いかけろ。だが足が動かない。
気づけば俺の体は、泥の中にゆっくりと沈んでいた。底なし沼に足をとられ、身動きがとれなくなっていた。
そうなのか? 結局、俺の居場所はここしかないのか?
伸ばした手の先で二人の笑い声が遠くなる。俺は無駄な抵抗をやめ、体の力を抜いた。
――もういい――どうせ俺は――――
それから先の夢は、よく覚えていない。
だが。
『諦めんのか? 坊主』
誰かの声を聞いた気がする。
『せっかく見つけた夢も、パートナーも、諦めんのか? それでおめぇは納得できんのか?』
どこか聞き覚えのあるような――その声に、必死に何かを叫び返していた。
うるさい! 放っといてくれ! どうせ無駄なんだ!
『欲しいならとことん足掻け。でねぇと本当にこぼれていっちまうぞ』
また諦めるくらい、どうということはない。俺は傷ついたりしない。俺は――
『自分をよく見るんだ坊主。おめぇは――』
こんなのはただの幻だ! 俺の弱さがつくりあげた。まだこんなものに縋っているのか俺は!
這い上がりたければ忘れるんだ! 忌まわしい過去など、弱かった自分ごと切り捨てろ!
俺はやり直したんだ。もうあの時の俺じゃないんだ。どんな孤独にだろうと耐えられる強さを手に入れたんだ。
だから。
だから全てを失っても――――
――失っても。
『思い出せ坊主。おめぇがその手に掴み続けてるものがあるってことを』