Act. 15-6
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『新着メール 1件』
二つ折りの携帯電話を開いて飛び込んできた文字に眉をひそめた。またか。
携帯にメールを送ってくる相手は多くない。その数少ない一人の中のあいつは、ここのところ毎日、無駄なメールを送り続けている。
無駄なメール――――返信のないメールだ。
あいつからだとすると、内容はあまり気分のいいものではないだろう。
開いてみると、やはり予想通りあいつからで、俺に対する罵詈雑言が書き連ねてあった。
知能レベルを疑う低俗な文章。その最後の一文は。
『やり逃げなんて許さないよ!』
最後までやってないだろ。
責任を求めるなど、まるで普通の女のようなことをする。また何かの役になりきってるんだろうか。
あいつ――グリコを無視するようになってから、一週間以上が過ぎた。
それでもあいつのしつこさは変わらない。毎日のように俺の周りをうろちょろしては、どうにかして俺の気をひこうと目につく場所に顔を覗かせていた。
男子トイレの窓の外にあいつの顔があった時は、さすがに驚いて怒鳴りつけそうになったが、なんとかこらえた。
それ以降、トイレに行く時は妙な緊張感を強いられるようになった。これも精神攻撃の一種なのだろう。あいつを無視し続けるのも至難の業だ。
プレッシャーは日を追うごとに強くなっている。だがこの根比べに負けるわけにはいかない。俺はメールを削除し、携帯を上着のポケットに滑り込ませた。
靴を履き、玄関を出る。
夕食の買出しだ。まだ包帯の取れない右手でそろりと扉を閉める。
たいしたことのない怪我のはずなんだが、右手というのが痛かった。動かさないわけにはいかないので、治りが遅い。
考えなしに拳を振るうと、こういうことになる。昔も学んだことなのに、俺は余程頭に血が昇っていたらしい。
中学生のガキと同じことをしている自分に少し呆れた。
エレベーターで一階に降り、ホールを抜ける。
今週末は待ちに待った拝島とのデートだ。行き先は牧場だということを考えると、弁当を作っていくのもいいかもしれない。
おにぎりとサンドイッチ、拝島はどっちが好きだろうか。そんなことを考えながらエントランスを出た時だった。
「どりゃぁぁぁぁぁぁぁっっ!! 闇討ち御免っ!!」
突然、横から飛びかかってきた影に咄嗟に俺の体は反応を示し、素早く身をかわした。
くるりと回転した俺の目の前に、長い棒のようなものが勢いよく振り下ろされる。と同時に倒れこんできた人影が二、三歩たたらを踏んだ後、キッと鋭く俺を振り向いた。
竹刀を握ったグリコである。
かけ声をきいた時点でわかっていたが、実際に目にすると、呆れを通り越して感心すら覚える。
『打倒! 朽木さん!』と書かれた日の丸鉢巻にジャージ姿というのは、どんなドラマの影響だ。
おまけに今は平日の夕方――辺りは既に薄暗く、身に沁みる寒さだ。
この中をこのジャージ姿で、俺が出てくるまでひたすら待ち続けていたんだろうか。いつもながら桁外れの根性に感心する。
それらのことを目の端で確認すると、俺はグリコが体勢を整える前に身を翻して歩き出した。
「ちょっと、朽木さん!」
焦った声が背後から俺を呼び止める。
それに答えるつもりはない。マンションに面する通りへ出ようと、いつもと変わらぬ歩調で進んだ。
「まだ無視するかこのぉぉぉぉぉっ!」
余程怒っているのだろう。
迫ってくる気配はわかりやすく、竹刀を振り下ろすのにも気づいていたが、俺はあえて避けようとはせず、その一撃を肩で受け止めた。
「なっ!」
グリコが全力を籠めた渾身の一撃である。さすがにこの程度痛くも痒くもない、とは言えない。
しかし、グリコを空気として扱うことにした俺は、声もあげず、何事もなかったかのように前に進んだ。
痺れる右腕はだらりと下げ、左腕は上着のポケットに突っ込んで道を曲がる。
背中はがら空き状態だ。殴りたいと言うのなら、好きなだけ殴らせてやろう、そう思った。
あいつにはその資格がある。
「朽木さん!」
俺は、あいつの信頼を裏切った。拝島への気持ちに傷をつけてまで。
襲うふりだけでよかったはずなのに――――非道な手段で痛みを与え、あいつの泣き声を無理矢理引き出そうとしたのだ。
何発殴られても文句など言えるわけがない。
こんな男のことなど、さっさと見限ってしまえばいいのに。何故これほど。
「朽木さんってば!」
――こいつは、何故これほど、変わらぬ調子で接することができるのか。
俺を見る目は変わらないのか? 普通は近づきたくないと思うものじゃないのか?
男性恐怖症という推測が間違っていたにしろ、あの時感じていた嫌悪は本物だったろうに。
いや――不思議ではないのかもしれない。
あいつはあそこまでしても折れなかった。泣き声ひとつあげず、抵抗し続けた女だ。
俺に対する恐怖など微塵もないのだろう。そんなものを期待すること自体、男の浅知恵というものなのかもしれない。
そう――すべてはあいつの言うとおりだった。
「なんだよもうっ、やり返してきなよっ! そんなにあたしの相手をするのが嫌なわけ!? まだ怒ってんの!?」
違う、と言いたかったが口をつぐんだ。俺はもうグリコに腹を立ててはいない。
拝島がグリコを好きになったのも、自然の成り行きであり、グリコに責任はなかった。
人の気持ちはどうにもならない、そんなこと、とっくの昔にわかっていたことだったのに。
すべてはわかりたくない俺の八つ当たりだった。
あの時もそうだった。神薙にぶつけるべき怒りをグリコにぶつけ、憂さを晴らそうとしていたのだ、今思えば。
完全なる八つ当たり。そんな俺に、合わせる顔があるだろうか――あるわけがない。
もう、グリコに合わせる顔がないんだ。わずかながらにも、確かにあった信頼関係を俺がぶち壊しにしてしまったのだから。
もう以前のようにグリコと話すことはできない。それに、正直怖かった。
また同じことを繰り返してしまうのが。
今の俺には、グリコを前にして再び起こるだろう感情の暴走を止められる自信がない。
今度こそ、互いに深い傷を残すような事態になりかねない。それを避けるには、グリコに関わらないようにするのが一番だった。
俺はグリコ――――お前を忘れる。
自分の非を認めて歩み寄ろうとしてくれたおまえには悪いが、もとの関係に修復するつもりはない。例え、それがどんなに卑怯なことだろうと。
我を忘れてあんなみっともない姿を晒すのは、二度と御免だ。
ストーカーを続けたいというのなら好きにすればいい。俺はもう、お前には関わらない。
それが一番いい。互いに平穏な人生を歩むには。
「言ってくれなきゃなんにもわかんないじゃん! こっちを向けばかやろぉ~~~~っ!!」
一方的な攻撃はつまらなくなったのか、ただわめきたてるのみのグリコの声が遠ざかっていく。
俺は振り返ることなく、石畳の歩道を滑るように歩き続けた。
肩の痛みは、いつまでも消えることはなかった。